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セネガル最大のダーラの家畜マーケット
セネガルから265kmのところにダーラDahraというコミューンがあるのだが、ここで毎週日曜日に開催される家畜マーケットはセネガル最大だという。西アフリカでも最大級と言われる。1日の取引額が10億セーファー(2億円)に達することもあるそうだ。セネガル国内だけでなく、モーリタニアやマリ、ガンビアなどからも家畜が集結する。

ダーラはルガ州の東側に位置するが、ダーラやそこから更に東のリンゲールという街は畜産で有名である。この地域を車で走ると見事に畑がなく、雨期後の10月は草が青々と地面を覆って家畜の餌の宝庫となる。特にリンゲールの牛は質が高いことで有名だ。
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毎週日曜日のマーケット(ルマLoumaと呼ばれる)の日、ダーラには近隣の村から多くの方々がやってきて、一週間で最も活気のある日となる。そのため、銀行も郵便局も市役所も、日曜日は営業・開館している。この街は、金曜日と土曜日が休みらしい。セネガルでは珍しい。

この日、落ちるんじゃないかと心配してしまうほど大勢の人が乗った車や馬車がダーラの街に向かっていた。
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家畜マーケットは、かなり広く、歩いて見るには時間がかかる。そんな事前情報も何もないままに到着した私たちの近くに、偶然にも馬車を持っているというお兄さんが危険だから案内するよと話しかけてくれたのだが、この馬車での案内が本当によかった。今までに経験したこともない光景を見られ、こういう案内がなければ絶対に入ることもできなかった牛のマーケットもぐるっと一周できた。本当にすごい迫力なのだ。

家畜マーケットは、牛、羊、馬と場所が異なる。特に牛は体が大きい上に、気性が荒い牛もおり、一般客が入るのは危険なため、高い塀で囲われている。
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こんな状態だとどれが誰の牛なのかも分からなくなりそうだが、この雑踏の中で取り引きされているのだからすごい。

赤毛の茶色い牛は、モーリタニアから来た牛で、白い牛はセネガルのルガ州の牛だという。大きくて立派な牛は300万セーファー(60万円)で取り引きされることもあるが、平均的な牛は、10万~30万セーファー(2万~6万円)程度。馬車で案内してくれたお兄さんは、この日、17万セーファー(3.5万円)で牛を1頭購入したらしい。やはりダカールと比べると格段に安い。
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バイヤーは、トゥバ、ルーガ、サンルイ、ダカール、ケベメール、ジュルベルなど、様々な街からやってくる。売られた牛は、一旦行き先ごとに別の区画に入れられて、トラックが来るのを待つ。




購入した牛を車に積む人々。
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こっちは羊のマーケット。
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そして、こちらは馬のマーケット。
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牛乳やヨーグルトを販売する人もいる。
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マーケットの方々用に食堂もあり、こうして調理された肉も売られている。
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最終的にこういう大きなトラックで、ダカールやトゥバまで家畜を運ぶ。
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案内してくれたお兄さんと相棒の馬。ベッキーという名前らしい。
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偶然にもダーラに行った日曜日がマーケットの日だと知り、偶然にもセネガル最大の家畜マーケットだと教えてもらい、偶然にもベッキーに出会えたおかげで、週末プチ旅行が更に充実したものになった。いや~、本当に見ごたえがあったなあ。


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by iihanashi-africa | 2018-10-22 09:21 | セネガル | Trackback | Comments(3)
ジンという幽精
昨日アップした信仰の話旅行先を事前に言わないアフリカの文化)をアシスタントとしていた時に、ジンという精霊の話になった。英語ではJinn、フランス語ではDjinnと書く。私は初めて聞いた言葉で、セネガル独特の精霊かと思ったら、イスラム以前からアラブ人に信じられてきた精霊らしく、様々な情報がネット検索で出てきた。

日本イスラム協会は「幽精」と訳すらしいが、それがイメージ的にぴったりくる。「ジンは天使よりは地位が低く、天に登って神の話を直接聞くことはできないが、悪魔のように全くの性悪でもない」そうだ。天使も悪魔もジンと同類ではあるが、「一般的には、ジンは天使・悪魔より一段下の存在で、位階的には人間と同等と考えられている」というのがまた興味深い。「悪魔が常に悪であるのとは違って、ジンの中には良いジンもいる。しかし悪いジンは人間に物理的危害を加えるとも信じられている」。ジンは蛇、犬、猫などの姿で人間に目撃されることもあり、人間に取り憑くこともある。
参照:http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/11-05/11-05-10.pdf


で、なぜ昨日の記事からジンの話になったかというと、旅行先を事前に周囲に伝えると、ジンが悪さをすると信じている人もいるというのである。

セネガルでジンの話を聞くと、もう少し魔術sorcellerieという意味合いが出てくるような気がする。ある人に不幸を起こさせたい人が魔術師に依頼し、ジンを呼び出し、意図的に悪さをしてもらうのだ。この他にも、原因の分からない病気を治すためにジンをよぶ儀式を行ったり、選挙に勝つためにジンを使ったりという話もある。ネットでよく見られるのは、ジンに取り憑かれて奇声を発する人の動画や外見が変わってしまった人の写真やら。日本でいうところの「霊に取り憑かれた」状況なのだろう。

私の周囲のセネガル人は、イスラム教はジンを否定していると話しているが、アラブ世界ではイスラム以前からの崇拝を無視できず、ある程度認めているらしく、いまやどこまでがイスラムでどこからが非イスラムなのか分けるのは難しくなっているらしい。

この種の話題は突き詰めるとよく分からなくなるのでお手上げ。

ただ、今でもセネガルの特にレブ族ではジンに関する様々な儀式があり、神頼みならぬジン頼みする人も多いことはよくわかった。


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by iihanashi-africa | 2018-10-13 06:16 | セネガル | Trackback | Comments(1)
旅行先を事前に言わないアフリカの文化
最近映画の記事ばかりで、この後も2つ映画を紹介しようと思っているのだが、その前にプチブレイクで、私の知っているアフリカの国々でよく聞く信仰の話をご紹介。

*******************

先日、私が仕事で関係しているセネガルの方が、知らない間に日本へ出張していたことを、その方が日本に到着してから知った。この方とは出張の4日前に面会したのに、その時には何も言っていなかった。むしろ、それではまた来週会いましょうくらいの対応で、その数日後に出張に行っちゃうのだから。。。こういう時、私って出張先を言えないほど信頼関係が築けていなかったかしらとちょっとだけ落ち込んでしまう。今回の出張目的が私との仕事とは関係なかったとはいえ、折角日本に出張するであれば、日本にいる関係者とも会ってもらいたいし、事前に教えてくれればもっと余裕をもってアポを調整できたのに。。。

こういう体験は他の国でもあり、マダガスカルでもプロジェクトを進める上で非常に重要な農業省の方が、3ヶ月の海外研修に行ってしまうことを研修出発の数日に知って、バタバタと引き継ぎをしたことがあった。ブルキナファソでも知らない間に、じゃあまた明日協議しよう!と言って別れた関係者が、翌日から出張に出かけていたことがあった。

これらの前もって旅行先を言わない件について、今日、セネガル人アシスタントに理由を聞いてみたら、他の国でも耳にしたことのある説明をしてくれた。

セネガルでは、旅行先を皆に知られると出発前あるいは目的地に到着するまでの間に不幸が起こると言われている。特に、出発前に何かしらの不幸が起きて出張に行けなくなると信じる方が多い。そのため、旅行することは両親などの本当に近しい人にしか事前に伝えず、兄弟ですら知らないことがある。大抵、目的地に到着してから「Je suis bien arrivé en France.(フランスに無事に着いたよ)」などと周囲に伝える。それは国内旅行でも同じだそうで、とりわけ農村地域の人々はこの言い伝えを信じる傾向がある。

あるセネガル人の友人は、フランス留学の試験が受かり(フランス大使館が開催する試験で上位3名が留学できるコンクールに、友人は3位で試験を通った)、あとはフランスへ入学登録をしに行くだけとなり、誇らしく思った両親が周囲の人々に受かったことを話したそうなのだが、直前になってフランス大使館から3位の友人ではなく4位の方が合格することになったと連絡があったそうだ。全くもって何が起きたか分からずかなり落胆し、やはり両親が早い段階で周囲に話してしまったことが原因なのではないかと思ったという。

この友人は、その後アメリカ留学の奨学金を得たのだが、その時は両親にも口止めし、出発前日まで数人しかしらなかったらしい。

様々な方々が話す内容から推測するに、近しい人ほど旅行の邪魔をするようだ。おそらく嫉妬からくる邪魔で、それを警戒して誰にも話さなくなる。何か不吉なことが起こると、それは誰かが魔術を使って意図的に企てたに違いないと考える。

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この話からもう一つだけ思い出した話がある。

それは、セネガル人女性は妊娠したことも周囲に伝えないということ。セネガルに長く住む日本人の方が話していたのだが、どう見ても臨月で今にも生まれそうなお腹をしていた女性に、「あら、妊娠しているのね、おめでとう!」と伝えたら、「いえ、妊娠なんかしてません」と頑なに否定されたらしい。最近はさすがにお腹が目立ってきたら否定することは少なくなってきたようだが、それでもなるべく気付かれないようにゆったりとした服を着るそうだ。

*******************

やはりいろんな考え方があるもので、こういう中で日本の基準を押し付けたら亀裂を生むだけ。だから、まずは相手を理解し、その上で自分としてはこうしてほしかったと言えればいいのだが、それもなかなか思うようにうまく言えないもので、日々のやり取りを通して暗黙知として身につけていくしかないなあ。


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by iihanashi-africa | 2018-10-12 04:49 | セネガル | Trackback | Comments(6)
アタイヤというセネガルのお茶の文化
セネガルだけでなく、イスラムの影響が強い国ではお茶の文化がある。アラブの国々でもミントティーを飲む習慣があり、モロッコに旅行した時も毎日1回は飲んでいた。セネガルでも、セネガル人と一日過ごすとアタイヤAtayaと呼ばれるお茶を何度も飲むことになる。中国緑茶を使う人が多いのだが、それに砂糖をたっぷり入れて、じっくり沸騰させ、ミントも加えてさっぱり感を出して飲むのが一般的。普段デザートを食べる習慣がないセネガル人にとっては、食後のデザート替わりにも思える。

アタイヤはアラビア語が語源。単なる飲み物というだけでなく、家族やコミュニティー、仕事の同僚などとの親睦を深める日常のひとときでもあるような気がする。アタイヤ専用の炭火を使ってお茶を作っている間、その周囲には人々が集まり、世間話をする。こうして深いネットワークが生まれる。勤務時間中にお茶を飲むために1時間くらいオフィスをあける人もいるが、非効率的なようで意外とここで作られたネットワークが効率的な仕事につながるのだ。

アタイヤは、お湯を入れれば完成というシンプルなものではない。親から子へと作り方が引き継がれる伝統的な無形アートとも言えるかもしれない。

まずアタイヤ専用のティーポットに水をいれ、緑茶を入れる。そして沸騰してきたら、一旦これまたアタイヤ専用グラスに煮立ったお茶を出したりポットに戻したりして、均等に煮立つようにする。その後、しばらく煮立たせてから、砂糖を入れ、さらに煮立たせる。途中水分が少なくなってきたら水を加えたりもする。
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そして、ある程度煮立ったら、再度グラスに注ぎ、別のグラスに高いところから注ぎ返し、それを何度も何度も繰り返して、グラスの底にきめ細やかな綺麗な泡ができるまで続ける。友人のセネガル人は、泡のないアタイヤは美味しくないと常に言っている。ビールも泡がないと美味しくないのと同じかな。この泡の作り方が芸術的なので、動画をどうぞ(音量にご注意を(笑))。





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最終的にこういう泡がグラスの底にできる。ちなみに、泡にこだわるセネガル人にとっては、この泡はまだまだらしい。もっときめが細かい泡を出せる人もいる。
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そして、アタイヤを注いで周囲の方々に提供する。
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アタイヤを飲むとき、よく「Eweul(あるいは仏語でpremier)」、「Niarel(仏語でdeuxième)」、「Tarhis(仏語でtroisième)」という言葉を耳にする。

Eweulは1番目のお茶、Niarelは2番目のお茶、Tarhisは3番目のお茶という意味。日本で言う一番茶、二番茶とは意味合いが異なり、同じお茶っ葉で、1回目に入れたお茶、その後水を加えて2回目に入れたお茶、そして3回目に入れたお茶をさす。1回目のお茶はとても濃く、苦みが強い。2回目、3回目になると、徐々に苦みが薄れ、逆に甘味の強いお茶になる。セネガルでは、1回目のお茶は「死」のように苦く、2回目のお茶は「生命」のように優しい味で、3回目のお茶は「愛」のように甘いと言われている。私は、1杯目の濃いお茶が好きかな。ただ、これを夜飲むと眠れなくなる。コーヒーに匹敵する覚醒効果があるような気がする。私は一度、夜10時頃に飲んで、全く眠れないという痛い目にあったので、夜は飲まないようにしている。

もう一つ、アタイヤを作るのは伝統的に男性の役割とされている。料理をしないセネガル人男性も、アタイヤだけは自分たちの仕事だと感じていると思う。上の写真や動画では女性が作っているが、これはレストランだから。家では男性や男の子が担うのだ。


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by iihanashi-africa | 2018-09-01 23:08 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガル女性の結婚祝い、チュライとビンビンとベーチョ。
最近「女性」をテーマにした記事を続けて書いたので、もう一つだけセネガル女性の秘密をご紹介。

先日、久しぶりに会ったセネガル人の同僚の肝っ玉母さんのような女性が、第一声で「もう結婚したんでしょ?」と話しかけてくれた。結婚してからもう数か月経ち、あれ?そんなに会っていなかったかなと一瞬思い返しながらも、そうですよと答えようとしたら、その返事をする間もなく間髪入れずに「じゃあ、チュライとビンビンとベーチョを買ってあげるわ」と続けた。姪っ子でも結婚したかのようにルンルンとテンション高めで、自分のオフィスからチュライの瓶を持ってきて私に香りをかがせてくれた。

チュライビンビンベーチョ

この3つは、パートナーを喜ばせるグッズとして結婚する女性にプレゼントされるらしい。この話を聞いて、ふと思い出したのが、女性博物館で上映されていた映画『Dial Diali(ジャルジャリ)』。一つ前の記事で紹介したAnnette Mbaye d’Ernevilleの息子で映画監督のOusmane William Mbayeが、1992年に作成した短編映画。少し時代を感じる映像だが、これからパートナーとの夜を迎える女性が、周囲の女性たちのアドバイスを聞きながら準備する様子は、おそらく今も変わっていないと思う。

(映画はR-15指定になっています)


3つのグッズのうち、チュライThiourayeは以前ご紹介した。寝室に男性を喜ばせる香りを充満させるためのお香である。
セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ


ベーチョBéthioとは、スカートの下につけるペチコートのようなセクシーな布。上の映画でも、7分30秒あたりからベーチョが出てくる。


そしてビンビンBine bineは、腰の周りに身につけるビーズの飾り。別名ジャルジャリDial Diali。上の映画のタイトルである。ビーズにも大きな玉と小さい玉とあり、大きいものはフェールferr小さいものをビンビンと呼ぶ。小さいものはプラスチックのビーズだが、大きいものはチュライのお香などを練りこんだ粘土で作ったものもある。またジャルジャリにはお守りとしての効果もあり、映画の中でも10分あたりから登場する女性がジャルジャリの意味を説明している。ビーズの色によっても効用が異なるようだ。生まれたばかりの子どもにも魔除けとしてつけることもあり、若い年ごろの女性もおしゃれの一つとして身につけている。
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映画の中では、この3つのグッズ以外にヘナも登場する。ヘナという植物を使った染料で、髪のカラーリングなどにも使用し、アラブ系の国々では手足にヘナタトゥーをする女性も多い。私も昔、モロッコに旅行した時に、ヘナタトゥーをしてもらったことがある。タトゥーといっても肌に色を染み込ませるだけのものなので2~3週間で消えてしまう。以前は西アフリカでも、上の映画の最初でも出てくるように、ヘナで足を染色する女性を見かけたが、最近はあまり見ない気がする。


さて、同僚からチュライとビンビンとベーチョを買ってあげると言われてから2週間が経ち、未だプレゼントはもらっていないのだが、使うかどうかは別として、滅多にもらうことのない代物なので、ちょっと期待して待っている。




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by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:46 | セネガル | Trackback | Comments(0)
魅惑の小道具チュライの記事を更新しました
以前書いた「セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ」という記事に、チュライのお香の原料の写真を加えました。



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by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:22 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』
先日、ダカールのアンリエット・バティリ女性博物館を訪れた際、仏語圏のアフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』についての特別展が開催されていた。
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アフリカでも19世紀から民間の雑誌が発行され始めた。リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアなどでは早くから植民地主義に対抗する民間雑誌が存在していたらしい。仏語圏アフリカでは、植民地時代はフランス人たちとフランスで教育を受けた一部のアフリカ人エリートが幅を利かせていたため、民間雑誌の発展は少し遅れて始まったようだ。

独立前後は、パンアフリカの議論やその他様々な議論の場を提供するための雑誌が増え、イラストや写真が多くなり、アフリカ以外の流行も取り入れたものが多くなってきた。『Bingo』『l’illustré africain』は、1953年にフランスの投資家Charles de Breteuilの支援を得て発行された雑誌で、アフリカで名声を得ていった。『Drum』はその少し前の1951年に南アフリカで発行が始まり、ルイ・アームストロングやモハメド・アリなど多くの有名人を起用したり、文章を短くするなどして一般大衆の目をひく流行雑誌となっていった。同時に、より知識層向けの『Présence Africaine(1947)』や、ナイジェリアの『Black Orpheus(1957)』、ウガンダの『Transition(1961)』なども発行部数が多くなっていった。
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この流れの中で、1964年に初の女性雑誌『AWA』の発行が始まった
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創設者のAnnette Mbaye d’Erneville(下の写真)は、パリでジャーナリズムを勉強し、セネガルで最初の女性ジャーナリストといわれている。セネガル・テレビラジオ局(ORTS)のディレクターになり、ラジオで女性向けの番組「Jigeen ni degluleen(女性たちよ、聞いて!)」というウォロフ語の番組を始め、「Tata Annette(アネットおばさん)」という愛称で人気を博した。AWAを発行する前には、Présence AfricaineやBingoで記事や詩を書いていたことがあった。90年代にはセネガル女性組合の連合会長となり、前回の記事で紹介したアンリエット・バティリ女性博物館の創設者でもある。
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AWAの前に発行が始まった多くの雑誌が外国資本だったのに対し、AWAは完全にセネガル資本だった。第1号の発行はセネガルの資本家がサポートしてくれたようだが、その後は購読料、会費、雑誌の売り上げから全てやりくりしていた。しかし、発行開始2年後に資金難に陥り、6年間発行が中断する。Bingoの支援をしていたフランスの投資家Breteuil氏が、AWAの救済を申し出たが実現せず、彼自身は今現在も人気の女性雑誌『Amina』を発行することになる。AWAは1972年に発行が再開されるが、翌年73年に再度発行が停止する。


AWAは多くの作家や詩人を起用しており文学的にも価値のある雑誌と評されており、2017年に全ての雑誌がデータ化された。それを以下のサイトで無料で見ることができる。

https://www.awamagazine.org/

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by iihanashi-africa | 2018-04-20 07:16 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アンリエット・バティリ女性博物館
ダカールの海沿いのコルニッシュ大通りに、アフリカ・メモリアル広場(Place de souvenir africain)というイベント広場があるのだが、そこに知る人ぞ知るアンリエット・バティリ女性博物館(Musée de la Femme Henriette Bathily)がある。
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建物は二階建てで、1階は特別展、2階は常設展となっており、常設展では、セネガルでこれまでに活躍した女性たちの紹介、セネガル社会におけるかつての女性の捉え方、女性の服装、仕事道具、宗教行事、等々の展示がされている。2階の一角にはシークレットゾーンもあり、女性たちが服の下に身につけるアクセサリー類なども飾られている。受付の方が一つ一つしっかりガイドしてくれ、とても分かりやすい。また、3月に訪れた時は、特別展でAWAというアフリカ初の女性雑誌の変遷が紹介されており、これがまたとても興味を引いた。
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アンリエット・バティリ女性博物館のサイト
mufem.org/

アフリカ・メモリアル広場のサイト
http://www.placedusouvenirafricain.sn/


女性博物館は、1994年にゴレ島に建設され、2015年に現在のメモリアル広場に移築された。博物館は、作家でもありセネガル初の女性ジャーナリストでもあるAnnette Mbaye D’Enervilleの構想で、博物館の名前にもなっているアンリエット・バティリは、生涯を通じて女性の地位向上に貢献する活動をした女性として人々の信頼を得ていた方なのだそう。彼女が亡くなった1984年4月4日は、通常であれば独立記念日の式典が行われるナショナルデーなのだが、国民が喪に服す日として式典は中止となったらしい。最大の国家行事が中止になるくらいセネガルにとって重要な人物だったことが分かる。もともとはフランスで保育士の勉強をし、帰国後にラジオ・マリの局長に就任、その後ラジオ・セネガルの局長に就任した。ソラノ国立劇場の発展にも貢献したほか、1964年から1984年に亡くなるまでフランス文化センター長でもあり、当時開催した「セネガル女性の地位と役割」というテーマの展示会が、この女性博物館の前身ともいわれている。

一つ前の記事で紹介したドキュメンタリー映画はこの博物館で上映されていた映画。
セネガル独立に貢献した母たちを描く映画

次回の記事では、とても面白かった特別展についても書いてみよう。

そうそう入場料は1000fcfa(約200円)。
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by iihanashi-africa | 2018-04-18 04:10 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの王国シリーズ:シン王国2
前回の続き。


②イスラム教との闘い

12世紀頃からセネガルでもイスラム教が台頭してきた。北部のワロ王国、カヨール王国、フタ・トロ王国は早くにイスラムに改宗したが、南部、とりわけセレール族は伝統宗教を重んじ、イスラム教改宗に最後まで抵抗した歴史がある

1443年、シン王国は23代王Diogo Gnilane Dioufの時代に、イスラム教のマラブMamadou Koungoの軍と戦争になったが勝利し、1867年には48代王Coumba Ndoffene Fa Maak Dioufの時代に、かの有名な(という修飾語をつけていたが私ももちろん知らず)ソンブの戦いで、マラブMaba Diakhou Baの軍を破っている。余談だが、この戦いでは、伝統信仰の占いで雨を降らせたことで勝利に導かれたとされており、この占いの儀式は現在も続いているそうだ。特に農期が始まる前に豊作を祈って行われるこの儀式は、現在セネガル国内の文化遺産となっている。

19世紀は、イスラム教への抵抗、キリスト教への抵抗、そしてフランスの植民地化へ抵抗が重なり、各地でレジスタンス運動が繰り広げられていた。帰宅後にこの時代の歴史を調べながら、セネガル人の映画巨匠ウスマン・センベーヌの『Ceddo』という映画を思い出した。この時代の社会を描いたフィクションで非常に興味深い映画なのだ。これは後々紹介しよう。


③階級社会の始まり

王国が形作られてから、これまで全員平等だった社会に階級が導入された。鍛冶屋、グリオ(口誦詩人)、織物師など、それぞれ居住区も分けられていった。下の写真はかつての王宮の図で、丸く囲われた部分が王宮で、王や妻たち、長老などの住まいがあるが、王宮の外に書かれている地区の名前は、それぞれの階級が住む地区を表しているのだそうだ。
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④王や女王のお墓

王宮やチウパン女王宮の敷地内に、王や女王のお墓がある。全てのお墓が現存しているわけではないが、誰のお墓か判別できるものは修復されて名前が書かれている。

これはシン王国最後の王Mahécor Dioufのお墓。1924年に先代の王を継ぎ、1969年に亡くなられるまで君臨した。
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奥にある太鼓はDjoundjoungと呼ばれる。王が関わる場面でしか使われない太鼓で、現在もこうして王を見守っている。
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下の写真の左の方が、シン王国最後の王Mahécor Diouf。右のDjoundjoungを持っている男性は、王専属のグリオ。
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2代前の王のお墓。1897年~1924年まで統治したCoumba Ndoffene Diouf王
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バオバブの木の下にある四角いお墓が、王宮の敷地内に点々としている。お墓の形はないが、このバオバブの下にも数名の王が眠っているらしい。
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女王宮の敷地内のお墓。
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⑤王国の終焉

フランスの植民地化が進んだことが、王制の廃止に大きな影響を及ぼした。フランスはセネガル側に共和制の導入を義務化し、その間に当時存在した王国と協議の場を設け、王族の特権の廃止に向け動いた。シン王国の最後の王Mahecor Dioufとの協議はカオラックで行われ、王族特権を放棄するかわりに、ジャハオ州の州知事になることを提案し、合意された。しかし、セネガル独立後も、1969年にMahecor王が亡くなるまでは、象徴としてシン王国の王として存在し続けた。


*********************

一か月も訪問者がいなければ博物館を管理する方も予算を付けられないのだろうが、展示物は埃が被っており、周囲の金網は一部が壊れており、このままでは日の目を見ないまま葬られてしまいそうだ。ものすごく貴重な歴史を伝える博物館なだけに、もう少し広報すればせめて外国人は集まる気がする。おそらく、こういう歴史は全て口承で伝えられてきたもので、文字に起こすのは大変な作業だったと思う。微力だが、こうしてブログで広報することで訪問者が増えるといいなあ。関心のある方はご連絡をいただければ、鍵の所有者の連絡先をお教えします。





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by iihanashi-africa | 2018-04-11 03:57 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの王国シリーズ:シン王国1
セネガルには、かつて7つの王国が存在した。

ジョロフDjoloff
ワロWaalo
カヨールKayoor
フタトロFuta-Toro
バオルBawl
シンSine
サルームSaloum

の7つである。

正確にはジョロフ王国が他の6つを封建下に置いていた時代もあったが、最終的に各王国が独立して存在している。他にも小さな王国は複数存在したが、主な王国はこの7つ。

その後、1960年にセネガルが独立してからは、王国が徐々に消滅していったが、その名残は今でも残っている。

先日その一つの王国であるシン王国(Royaume de Sine)のかつての中心地ジャハオを訪れた。偶然、2014年にジャハオ・エコミュージアムEcomusée de Diakhaoがオープンしたという記事を発見して行ってみたくなり、ちょうど近くに長期出張している方をお誘いし、一緒に行ってきたのだ。一緒に言った方に「選択が渋いね」と言われたのだが、まさにその通りで、こんな田舎町の小さな博物館を訪れるためにダカールからわざわざ週末を潰して一緒に行ってくれる方はなかなかいない。しかし、長くセネガルに関わっている方もなかなか知らない歴史でとても興味深いのだ。

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観光するにあたり、博物館の開館時間を事前に知りたかったのだが、どう頑張って探しても分からない。ジャハオが属するファティック州にも観光案内所はなく、どこに電話していいかも分からない。もうこれはとにかく行ってみるしかない。日曜は開いていない可能性が高いので、土曜に訪問できるように予定を組んだ。

****************

当日、ジャハオの町に入ったところで、通行人に博物館の場所を聞いてみた。Googleマップにはまだ博物館は載っていない。一人目は分からなかったが、二人目が場所を教えてくれ、なんとか到着。しかし、閑散としており誰もいない。鍵が締まっており中にも入れず、警備員がいる様子もない。そして周囲にも誰もいない。さて誰に聞いてみたら分かるのかと考え、市役所に行ってみることにした。この日、市役所は通常誰もいないはずなのだが、4月4日の独立記念日のイベント前の会議で、幸運にも関係者が集まっており、市長の第一秘書という方と話ができ、なんとも運よくこの方が博物館の鍵を持っており、会議の後に案内してくれることになった。「ここ1か月以上誰も来ていなかったよ」と話しており、相当渋い選択だったことを再確認した。

        博物館内の写真。
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シン王国は、1185年にMaysa Waly王から始まった。

もともとMaysa Waly王は、マリ南西部からセネガル南東部、ギニアビサウとギニアの一部を統治していたガブ王国(Kaabu、Kabou、Gabouと様々な呼び方があるらしい)の子孫なのだが、当時本国で戦が絶えなかったことから、一族の全滅を危惧した当時の王が子孫をお付きのものたちと共に逃がし、王国がないところで王国を設置するよう言い渡した。

マリから移動してきた彼は、セネガルのMbisselという村に腰を下ろした。ジョアルとフィムラの間にあるMbisselはセレール族の村だったが、Maysa Walyが醸し出す一族を率いる者としての尊厳を評価し、住民も彼らを受け入れ、ガブの女性とセレール族の男性を政略結婚させることで、彼を王様と認め、シン王国が成立した。

こうしてカブ王国のマンダン族とシンの土着のセレール族をルーツとするゲルワGuelwarが誕生した。ゲルワは民族区分ではなく、シン王国(サルーム王国も含むが)の王族血統のことを指す。セネガルでは、ゲルワもセレール族の一つとみなされており、セレールの言葉を話すようだ。

カブ王国の統治図。現在の国境がないため位置関係が分かりにくいが、ところどころ分かる地名から、セネガル南部と南東部が中心に描かれていることが分かる。後のシンSine王国は左上に書かれている。
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ちなみにカブ王国の創設者は、マリ帝国の創設者Soundiata Keitaの軍曹だったらしく、この記事も思い出した。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画


初代王が王国を設置したMbissel村から最終的にジャハオが首都になるまでに8回都が変わっている。Ndiol Mangane村、Ndiongolor村、Somb村、Sanghaïe村、Mbimor村、Bicole村、そして八代目の王Wassila Fayeがジャハオに首都を移し、その後57代続く王たちは、この地を中心に統治したそうだ。


①女系の王位継承

シン王国には、「王宮」「女王宮」が別々の場所にあり、現在王宮跡には王族の子孫が住みながら代々の王のお墓を守っており、女王宮跡は博物館として囲われ、女王たちのお墓が守られている。王と女王と訳すとややこしいのだが、英語でもKingとQueenであり、日本語でどう訳していいのか良く分からない。王の正室とも違うのだ。これを理解するにはまず王位継承の仕組みを理解しなければならない。

マダガスカルでもブルキナファソでもそうだったが、シン王国でも女系優位だったようだ。特に王位継承権は、ブルキナファソのロビ族の遺産相続権(ロビ族の国、ガウア旅行序文~ロビ族とは)と同じだ。王位の継承権は、王の子どもではなく、王の姉妹の子どもにある。つまり、王の妻が産んだ子が本当に王の子かは立証できないため継承権はないが、王の姉妹が産んだ子は確実に王族の血を受け継いだ子だと言えるため継承権がある(王族血統の妻をもらった場合は例外)。当然男兄弟の子どもは継承権がない。

王が亡くなると、Grand Jaarafと呼ばれる現在でいう首相のような役割の長老が、姉妹の子どもたちの中から王位継承者の男性を任命する。必ずしも女兄弟の中の長女の長男が継承するというわけではないらしい。継承者に相応しい人をGrand Jaarafが見極めるそうだ。

この女系優位の社会が女王宮の存在意義を高めた。ウォルフ語では女王のことをLingeerリンゲールと呼ぶが、シン王国において「リンゲール」は王の母であり姉妹であり母方の叔母であった。特に18世紀頃から、「リンゲール」の地位を正式に設けており、各王が母、姉妹、叔母の中から最も信頼できる人を「リンゲール」に任命している。王の正室の位はリンゲールよりも低い。この女王宮は別名「Thioupaneチウパン」という。土地の名前かと思ったら、リンゲールの宮殿の呼称らしく、この言葉そのものに意味があるのかはよく分からなかった。リンゲールの写真。
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長くなってしまったので、2回シリーズに分けることにしよう。
次回に続く。

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by iihanashi-africa | 2018-04-10 04:06 | セネガル | Trackback | Comments(0)