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アブジャのナショナルモスク
ナイジェリアの首都アブジャは計画都市である。1976年に、首都を南部のラゴスから中部のアブジャに移動する決議がくだされ、その後からアブジャの都市開発が始まり、最終的に1991年に正式にアブジャが首都として機能し始めた。

アブジャは地図を見るとナイジェリアのちょうど中心に位置するのだが、かつては広い意味で「北部」と捉えられていたらしい。そのため、首都の移動は、キリスト教徒の多い南部とイスラム教徒の多い北部の調和を促すどころか、ムスリム色を強めて亀裂を深めてしまう恐れがあった。現に、新しく建設された国会議事堂はモスクのようなドーム型の形をしており、当時は多少なりイスラム色を強めてしまったと表現されている。

政府はなんとかイスラムとキリストの融和を都市計画に反映すべく、意図的に中心部にナショナルモスクとナショナル教会を建設している。モスクと教会は、アブジャ市内を南北に走る大通りを挟んで、モスクが北側に教会が南側に位置するように建設されている。モスクのミナレットと教会の鐘楼はほぼ同じ高さになっているらしい。

前回のナイジェリア出張中は、モスクしか訪問できなかったので、とりあえずモスクの写真のみ。サウジアラビアのファイナンスで建設されたらしいが、かなり大きい。人が写っている写真だとその大きさが分かるだろうか。

女一人で訪問したので、入場拒否されないかちょっとドキドキしたが、しっかりスカーフを巻き、イスラム女性になりきって管理人に話しかけたら、快く案内してくれた。もともとイスラム教徒でなくても入場可能という情報は入手していたが、やはり入るまではドキドキする。
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教会は、週末にイベントが多く、見学は不可ということで、遠くからの写真のみ撮影できた。平日なら見学できるみたい。次回は行ってみたいな。
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by iihanashi-africa | 2018-06-22 07:57 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
ナイジェリアの現代アート
ラゴス市内は人工的に作られた都市のため、観光できるような場所は少ない。5月の出張では、飛行機の関係で土曜日が1日空いたので、どこかに行こうと思い、様々なワードを組み合わせてネット検索し、唯一興味を持てたのがThought Pyramid Art Centreというミュージアム。2017年11月にオープンしたばかりの新しいミュージアムだそうだ。
http://thoughtpyramidart.com/
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全ての作品にアーティストの名前が書かれていなかったのが残念なのだが、とても素敵な絵画が多々あった。
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帰り際、入口近くの本棚をあさっていたら、たまたま手にした『Zaria Art Society』というタイトルの画集に釘付けになった。買おうか迷ったが、さすがに重すぎると断念。後で調べて、ナイジェリア現代アートに大きな影響を与えたアーティストグループであったことが分かった。ナイジェリア北部のザリアという都市の大学の学生16人により、1955年に形成されたザリア・アート・ソサイエティ。これよりもずっと前からナイジェリアアートの歴史は始まるが、このグループにより、西洋美術に影響されないナイジェリアアートのイデオロギーが確立されたと言われているらしい。このグループは数年後に、ナイジェリア各地のアーティストと協議の場を持ち、全国組織となるThe Society of Nigerian Artists(SNA)が設立された段階で解散している。

ナイジェリアアートは本当に奥深い。私自身は、ナイジェリアのマスクから関心を持ち始めたが、絵画も底知れない奥深さである。

宿泊したホテルにも素敵な絵画が飾られていた。写真だと大きさが分からないが、かなりの大きさなので、実際はとても迫力がある。
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by iihanashi-africa | 2018-06-21 06:17 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
祖母の生涯
祖母が静かに息をひきとったと連絡がありました。

1ヶ月くらい前から入院しており、数日前に会話が難しくなったと連絡が入っていたので、もう長くはないかもしれないと覚悟はしていたのですが、やはり息をひきとったと聞くと、胸が熱くなります。

何が悲しいって、こういう時にすぐに帰れる国で働いていないこと。入院していた時も会いに行けないし、葬儀にも出席できない。悲しいというよりも悔しいという思いで涙が出てきます。


祖母は98歳でした。

1か月前に入院するまで、週3回デイサービスに通っていました。昔から足腰は強く、シルバーカーを押しながらゆっくりと転ばないように気を付けながら自分の足で歩いていました。最後の最後まで寝たきりにならず、そしてしっかり会話をもでき、私と同じくらいの食事の量をしっかりととり、本当に元気な祖母でした。

さっきから過去に遡って祖母の写真を眺めているのですが、とても印象的な写真がありました。2014年の写真で、祖母は当時94歳。算数や漢字の問題を解いていました。デイサービスのアクティビティらしいのですが、祖母はそれにはまり、私が夏に帰省した時も冬に帰省したときも熱中していました。祖母のすごいところは、ボケないように、歩けなくならないように、自ら自分に課題を課すところ。こういう演習問題もそうですが、毎日1回必ずシルバーカーを押しながら駐車場を何周するとか、はあはあ言いながらも実行していました。尊敬に値する意志の強さでした。
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祖母が93歳の時、昔の話を詳細に聞き、簡単な自叙伝をブログにアップしました。ほぼ全て祖母の言葉をそのまま使って書いたのですが、今読み返すと93歳がここまで語れるってすごいなあと改めて感動です。
祖母の自叙伝1:誕生~蚕業学校
祖母の自叙伝2:教員時代~青年学校時代
祖母の自叙伝3:満州~父誕生


祖母は、料理が上手な人でした。
祖母のきゅうちゃん漬けは、一人暮らしの時にいつも持って帰っており、レシピを母が書いてくれていたので、それを見ながら2、3回作ったのですが、祖母のような味にはならず、まだまだ今後も修行が必要です。

祖母は、慎重な人でした。
私が東京へ戻る時、必ず「忘れ物はない?」と聞いてくれました。車に乗るときは、ほんの1kmの距離の運転でも、必ず「大丈夫?気を付けてね」と、やめた方がいいよくらいの勢いで言ってくれました。慎重すぎて若い頃は鬱陶しく思ってしまうこともあったのですが、最近はそれが愛情だと思えるようになっていました。


家族に長生きという希望を残してくれた祖母。
小さい頃からこれまで本当にありがとう。
祖母の魂はセネガルまで会いに来てくれるかな。



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by iihanashi-africa | 2018-06-17 10:20 | 日本 | Trackback | Comments(2)
ラマダン中とラマダン明けの食事
今日はラマダン明けの休日だった。

今年セネガルでは5月17日に断食が始まり、昨日6月14日がラマダン最終日となった。そして今日はラマダン明けの祭り。

ラマダンの話はこれまで何度も記事にしており、読み返してみると年々情報に深みが増すのが分かる。2007年の記事を読むと、あ~この頃はこんなことも知らなかったかと若々しさを感じてしまう。

セネガルにおける今年のラマダン明けの日付の決め方(2017年のラマダンの話)
ラマダン前日の月(2017年)
ラマダンが明けましておめでとうございます(2012年)
断食明けの祭り(2007年)

セネガルでの私の勤務先は、周囲が全員セネガル人で、外国人は私だけ。普段のランチはアジア系のテイクアウトをオフィスで食べるのだが、ラマダン中はさすがに同じ空間にいるイスラム教徒の同僚の前では食べにくい。だからといって近くにレストランはない。そのため、私もプチ断食を決行。朝出勤前にいつもよりもしっかり朝食をとり、オフィスでは食事をせず(水だけは飲んでいたが)、帰宅後すぐに食事をするという、イスラム教徒にとってみればエセ断食。イスラム教徒でない私がこんなことをして神を冒涜しないか考えたが、興味本位で断食している訳ではなく、同僚へのささやかな配慮なので、大丈夫かなと勝手に納得している。それに、一緒に断食していると、セネガル人も「Tu nous accompagnes!(合わせてくれているのね)」と喜んでくれるのもちょっと嬉しい。

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ちょうど2週間前の週末、ラマダン中にプレゼントするパニエ(食材を詰めだカゴ)を持って友人宅を訪問した。友人の家の前に簡易なサッカーコートがあるのだが、ラマダン中は夜中にこのコートに集まって走る若者が大勢いるらしい。へーー、ラマダン中はやっぱり夜になって元気な時にサッカーするのかと思ったら、お腹に入れたものを早く消化させてもっと食べるために走っているのだそうな。

ラマダン中は、日没後すぐに食べる食事を「朝食」と呼ぶ。セネガルではンドグNdogouと呼ばれる。まずは、ほぼ世界共通だと思うがデーツ(ナツメヤシの実)を食し、その後はその国々の食習慣で違うようで、セネガルはフランスパンにチーズやハムやソーセージ(もちろん豚肉ではないもの)を入れて食べるのが慣習らしい。ラマダン中は、午後4時頃からパン屋に行列ができる。

2週間前、友人宅に行くために電話をしたとき、来るならンドグの時間に合わせておいでといわれ、夕方5時過ぎに到着した。

まず、デーツを食す。
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そして、ンドグの時間。まさに普段の朝食のように、コーヒーあるいは紅茶とパン。外が暗い中での朝食はとても不思議な感覚になる。
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私はこの後帰宅したが、彼らは午後7時半に朝食をとり、その後午後10時か11時頃にしっかりとした食事をとる。そういえば去年のラマダン中はこの遅い食事を一緒にとったので、その時の写真をアップ。私の最も好きなセネガル料理、白いチェブジェン。
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ラマダン明けの今日は、朝起きるとまず、デーツを奇数数食すそうだ。そしてお祈りをしてから、食事が始まる。私は、午後1時くらいに友人宅に到着し、まず「これは前菜だから」といって出されたのが、これ。どう見てもメイン。
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その後、メインはいつ出てくるのかと心待ちにしながら、一緒にワールドカップの試合を見たり、雑談をしていると、あっという間に午後6時。結局夕食の時間になり、やっとメインかと思ったら、前菜とほぼ同じメニュー笑。でも羊のグリルがナイフなしで割けるほどに柔らかく美味だったので、もう一回食べたいくらい。
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さて、今年のラマダンも終わり。来週からいつもの食スタイルに戻ることにしよう。


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by iihanashi-africa | 2018-06-16 10:23 | セネガル | Trackback | Comments(0)
守られない分刻みのアポ
これまでダカールには車検を行えるセンターが一ヶ所しかなかった。毎日、結構待っても数センチしか動かないような渋滞が発生しているこのダカールで、である。一説には30万台の車がダカール市内を走っていると言われるが、車検センターが一ヶ所しかないというのがダカールの車所有者の悩みの種だった。単純計算すると、1日500台以上の車検を行わなければならない形。まあもちろん、車検を受けない車も多く、500台が一気に集まるわけではないが、ハン地区にある唯一のセンターは、毎日早朝から車検を待つ車の渋滞ができており、予約なしでセンターに行くとどれだけ待たされるか分からない。

しかし、今年1月に、ダカールのンバオ地区に二つ目の車検センターが設置された。この二つのセンターが、大都市ダカールの車全てをカバーできるかというとそれも甚だ疑問で、2か所設置された現在もなお、センター横の長蛇の列は完全には解消されない。ただ、1ヶ所よりは2カ所あった方がもちろんありがたく、加えて全てのタクシーと8年以上の車は、ンバオの車検センターに行かなければならないという規則ができたため、少しだけ待ち時間が減った。


さて、先日、仕事で使用する車の車検を行うために、ハン地区の車検センターにアポをとった。電話をしたアシスタントが、「アポは今週金曜日の10時24分になりました」という。「は?24分???」ときょとんとした私に、アシスタントは「私も間違いかと思ったのですが、確認したらやはり10時24分と言われました」と話す。こんな分刻みのアポは初めてである。

24分という時間を設定してくるからには、どれほど分刻みの仕事をしているのかと思いきや、案の定、運転手は1時間待つ羽目になる。まさかセネガルで24分ぴったりには始まらないとは思ったが、最近は会議も時間通りに始まることもあるし、もしかしたら車検も10分くらいの遅れで始まることもあり得るかもという期待は多少あった。だが、大いに期待を裏切ってくれ(笑)、余裕の1時間の遅れ。分刻みのアポは一体何の意味があるのだろう。。。


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by iihanashi-africa | 2018-06-14 05:37 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ダカール・ビエンナーレ2018
最近書きたいネタが列をなしており、時間が全然足りない。
ナイジェリアの話題も終わってないのだが、忘れないうちに一つダカールネタを。

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5月3日から6月2日までアフリカ現代アートのビエンナーレBiennale Dak'Artが開催されていた。今年で13回目。1990年に実施された第1回は文学に特化していたが、1992年の第2回に現代アートに限定され、1996年からアフリカ現代アートの祭典となったらしい。


初代セネガル大統領のサンゴールは作家でもあり、芸術に造詣が深く、多くの芸術家に奨学金を与えたと言われている。彼が大統領の時代に、一度アフリカンアートの祭典Festival Mondial des Arts Nègresを開催したが、長続きしなかった。その後、アブドゥ・ジュフ大統領の時代に芸術家が声を上げ、やっと1989年に開催が決定した。

毎年テーマが決められるのだが、今年は『L’heure Rouge(red hour)』。2008年に亡くなったマルティニーク出身の詩人エメ・セゼールの詩の表現で、「自由」を意味する。

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ダカールのビエンナーレには「IN」「OFF」があり、INはコンペに出展されたり招待された芸術作品が委員会の予算で展示され、今年は6カ所が公式会場となっていた。OFFは登録するだけで特に予算支援はないものの、様々な芸術家たちが自身のアトリエやその他の場所で作品を展示する。今年、INは33か国から75名のアーティストが参加しており、OFFは250の会場で行われていたらしい。


現代アートは、説明がないとあまり良く分からないものもあり、会場に入って何の説明もなく「はい、感じてください」みたいに放り出されても、う~~~んと数分考えてやっぱり何も感じられないこともあり難しい。それでも、見た瞬間に「あ、私これ好き」とどこか自分の感覚とぴったりはまるものもある。

私は、全ての会場に足を運べたわけではないが、コメントくださったDiawさんのお勧めも聞きながらいろいろと回ったので、撮りためた写真をアップしよう。

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by iihanashi-africa | 2018-06-13 06:41 | セネガル | Trackback | Comments(2)
アフリカ文学の父、アチェベの『崩れゆく絆』
以前、チママンダ・アディーチェの『アメリカーナ』という本を紹介した。アディーチェはナイジェリア出身。この記事の中で、英語アフリカ文学の父、チヌア・アチェベについてちらっと触れたが、ナイジェリア出張するにあたり、またナイジェリア気分になろうと、アチェベの本『崩れゆく絆』を本棚から取り出した。以前も読んだのだが、少し経つと内容をすぐに忘れてしまう私。ナイジェリアの知識が少しだけついた今、もう一度読んでみようとカバンに入れ、出張の往復の飛行機で読み終わった。

ものすごく素朴で簡潔な文章なので、すんなりと読み切ることができ、とても読みやすい。シンプルなのだが奥深い小説である。主人公オコンクウォは努力家で野心家で責任感があり、皆から一目置かれる存在。しかし口下手で家族にも思いをうまく伝えられず、時に怒りがコミュニケーションのツールになってしまう。それが威厳を保つ手段ともなるのだが、家族は主人の気持ちを察して行動する。昔の日本の俺の背中をみて育て的なまっすぐなおやじとちょっと重ねてしまったが、置かれている社会が違うとこの実直さと野心が悲劇を呼ぶ。
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訳者でもあるアフリカ文学者の粟飯原文子さんの前書きと解説も興味深いので、引用しながらご紹介。

チヌア・アチェベは『アフリカ文学の父』と呼ばれ、彼の小説『崩れゆく絆(Things Fall Apart, 1958)』はしばしばアフリカ近代文学の原点、あるいは起源として位置づけられてきた。むろん、アチェベが文字通りの意味でのアフリカ文学の創始者ということではない。アチェベ以前や同時代には、重要な作家や詩人が多く存在した。[・・・] ではなぜ、1958年のアチェベの小説がアフリカ文学の「誕生」と結び付けられるのか。

 たしかに、世界の至るところでこれほど読まれ、論じられ、影響力をもち、名声を勝ちえたアフリカ文学作品は『崩れゆく絆』をおいてほかにないため、このことは当然のようにうけとめられがちである。しかし実のところ、ここにこそアフリカ文学を語る際に立ち返るべき根本的な問いがある。すなわち、「いかにアフリカを書くのか」、「アフリカの文学はどうあるべきか」という文体や形式、主題にかかわる問題であるが、アチェベが「アフリカ文学の父」たるゆえんは、まさしく彼こそがそれまでの揺らぎと迷いに対して決定的とも言える方向性を示しえたからだと言える。小説と言う西洋近代の表現形態、いわばアフリカにとって外来のジャンルを用いてどのようにアフリカの歴史過程に応えるか、というひとつの道筋を創り出し、アフリカ人作家による文学を「アフリカ文学」たらしめる礎を築いたのが、ほかでもないアチェベであったのだ。」

「アチェベが大きな情熱と怒りをもって取り組んだのは、作られた「暗黒大陸」というイメージに対する文学での批判的応答、言い換えるなら、小説という手段をつうじて、暴力的にはく奪されてきた歴史と人間性をアフリカに取り戻すことだった。と同時に、植民地支配のもとで、アフリカ人自らが忘却し、喪失してしまった「過去」を、ふたたびアフリカ人に呼び覚まそうとする試み―アチェベ自身の言葉で言えば「再教育」と「再生」―でもあった。

 しかしそれは、単に古き良き時代の社会と文化を賛美して、失われた過去と理想郷を哀悼する態度ではない。たとえばオコンクウォは悲劇の主人公ではあっても、多くの欠点をもつ人間であり、同じく、ウムオフィア社会もあらゆる問題を抱えている。[・・・] それは過去への挽歌である以上に、アフリカ独立の時代の前夜に、きたるべき未来を見つめる新たなアフリカの想像力となったのだ。」

アチェベは、1960年代のビアフラ戦争の際に、ビアフラ側のスポークスマンだった。この中央政府からの分離を掲げた戦争を契機として、アチェベの信念が大きく揺らぎ、その後20年間小説を書かなかったらしい。「再度小説に取り組むにはーナイジェリアとは、国家とはなにか、という重い問いにもう一度正面切って向き合うにはーかなりの時間を要したのだろう」







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by iihanashi-africa | 2018-06-02 05:53 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
エグシメロンの畑
5月初めにナイジェリアの農家さんの畑を訪問した際、ちょうど雨期が始まったばかりのこの時期に、播種したばかりの畑を見かけた。
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こういう光景を見て、まず思い浮かぶ作物は、トウモロコシソルガム(モロコシ)ミレット(稗)の畑。これはサヘル地域の畑ばかり見ている私の感覚。
ソルガムの写真:穀物の収穫時期(男性の仕事)
ミレットの写真:穀物の収穫時期(女性の仕事)

サヘル地域は、最初の雨が降るとこうして穀物を播種する。これはブルキナファソ北部の写真。
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       偉大な伝統農法


ナイジェリアの畑もトウモロコシか何か穀物だろうと思っていたら、実はエグシメロンの畑だった。


前回、ナイジェリア料理一覧の記事でエグシスープを紹介したが、そのエ・グ・シである。エグシも穀物と同じような間隔で播種するらしい。

これがエグシメロンの実。昨年の7月に撮った写真。
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どう見てもメロンにしか見えない。色も形もメロンで、違いと言えば少し小さいくらいだろうか。中身は、白くて乾燥している。メロンのようにみずみずしく甘い果肉はない。このエグシメロンは、中の種を食べるために栽培されるのだ。種はメロンよりもずっと大きいく、どことなくカボチャの種に似ている。
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この種をつぶして、ペースト状になったものを様々な味付けをしてスープにする。とてももったりしていてお腹にずしっと溜まるが、とても美味しい。スナック感覚でポリポリと食べることもあるらしい。ナイジェリア以外に、ベナンやガーナ、カメルーン、トーゴでも食べられるらしいのだが、カメルーンでは食べた記憶がないなあ。
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ナイジェリアはエグシメロンを40万トン弱生産している。ナイジェリアの人口からしたらそれほど多いとはいえないが、重要な家庭の食材の一つとなっている。

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by iihanashi-africa | 2018-06-01 06:24 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)