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セネガル女性の結婚祝い、チュライとビンビンとベーチョ。
最近「女性」をテーマにした記事を続けて書いたので、もう一つだけセネガル女性の秘密をご紹介。

先日、久しぶりに会ったセネガル人の同僚の肝っ玉母さんのような女性が、第一声で「もう結婚したんでしょ?」と話しかけてくれた。結婚してからもう数か月経ち、あれ?そんなに会っていなかったかなと一瞬思い返しながらも、そうですよと答えようとしたら、その返事をする間もなく間髪入れずに「じゃあ、チュライとビンビンとベーチョを買ってあげるわ」と続けた。姪っ子でも結婚したかのようにルンルンとテンション高めで、自分のオフィスからチュライの瓶を持ってきて私に香りをかがせてくれた。

チュライビンビンベーチョ

この3つは、パートナーを喜ばせるグッズとして結婚する女性にプレゼントされるらしい。この話を聞いて、ふと思い出したのが、女性博物館で上映されていた映画『Dial Diali(ジャルジャリ)』。一つ前の記事で紹介したAnnette Mbaye d’Ernevilleの息子で映画監督のOusmane William Mbayeが、1992年に作成した短編映画。少し時代を感じる映像だが、これからパートナーとの夜を迎える女性が、周囲の女性たちのアドバイスを聞きながら準備する様子は、おそらく今も変わっていないと思う。

(映画はR-15指定になっています)


3つのグッズのうち、チュライThiourayeは以前ご紹介した。寝室に男性を喜ばせる香りを充満させるためのお香である。
セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ


ベーチョBéthioとは、スカートの下につけるペチコートのようなセクシーな布。上の映画でも、7分30秒あたりからベーチョが出てくる。


そしてビンビンBine bineは、腰の周りに身につけるビーズの飾り。別名ジャルジャリDial Diali。上の映画のタイトルである。ビーズにも大きな玉と小さい玉とあり、大きいものはフェールferr小さいものをビンビンと呼ぶ。小さいものはプラスチックのビーズだが、大きいものはチュライのお香などを練りこんだ粘土で作ったものもある。またジャルジャリにはお守りとしての効果もあり、映画の中でも10分あたりから登場する女性がジャルジャリの意味を説明している。ビーズの色によっても効用が異なるようだ。生まれたばかりの子どもにも魔除けとしてつけることもあり、若い年ごろの女性もおしゃれの一つとして身につけている。
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映画の中では、この3つのグッズ以外にヘナも登場する。ヘナという植物を使った染料で、髪のカラーリングなどにも使用し、アラブ系の国々では手足にヘナタトゥーをする女性も多い。私も昔、モロッコに旅行した時に、ヘナタトゥーをしてもらったことがある。タトゥーといっても肌に色を染み込ませるだけのものなので2~3週間で消えてしまう。以前は西アフリカでも、上の映画の最初でも出てくるように、ヘナで足を染色する女性を見かけたが、最近はあまり見ない気がする。


さて、同僚からチュライとビンビンとベーチョを買ってあげると言われてから2週間が経ち、未だプレゼントはもらっていないのだが、使うかどうかは別として、滅多にもらうことのない代物なので、ちょっと期待して待っている。




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by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:46 | セネガル | Trackback | Comments(0)
魅惑の小道具チュライの記事を更新しました
以前書いた「セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ」という記事に、チュライのお香の原料の写真を加えました。



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by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:22 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』
先日、ダカールのアンリエット・バティリ女性博物館を訪れた際、仏語圏のアフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』についての特別展が開催されていた。
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アフリカでも19世紀から民間の雑誌が発行され始めた。リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアなどでは早くから植民地主義に対抗する民間雑誌が存在していたらしい。仏語圏アフリカでは、植民地時代はフランス人たちとフランスで教育を受けた一部のアフリカ人エリートが幅を利かせていたため、民間雑誌の発展は少し遅れて始まったようだ。

独立前後は、パンアフリカの議論やその他様々な議論の場を提供するための雑誌が増え、イラストや写真が多くなり、アフリカ以外の流行も取り入れたものが多くなってきた。『Bingo』『l’illustré africain』は、1953年にフランスの投資家Charles de Breteuilの支援を得て発行された雑誌で、アフリカで名声を得ていった。『Drum』はその少し前の1951年に南アフリカで発行が始まり、ルイ・アームストロングやモハメド・アリなど多くの有名人を起用したり、文章を短くするなどして一般大衆の目をひく流行雑誌となっていった。同時に、より知識層向けの『Présence Africaine(1947)』や、ナイジェリアの『Black Orpheus(1957)』、ウガンダの『Transition(1961)』なども発行部数が多くなっていった。
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この流れの中で、1964年に初の女性雑誌『AWA』の発行が始まった
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創設者のAnnette Mbaye d’Erneville(下の写真)は、パリでジャーナリズムを勉強し、セネガルで最初の女性ジャーナリストといわれている。セネガル・テレビラジオ局(ORTS)のディレクターになり、ラジオで女性向けの番組「Jigeen ni degluleen(女性たちよ、聞いて!)」というウォロフ語の番組を始め、「Tata Annette(アネットおばさん)」という愛称で人気を博した。AWAを発行する前には、Présence AfricaineやBingoで記事や詩を書いていたことがあった。90年代にはセネガル女性組合の連合会長となり、前回の記事で紹介したアンリエット・バティリ女性博物館の創設者でもある。
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AWAの前に発行が始まった多くの雑誌が外国資本だったのに対し、AWAは完全にセネガル資本だった。第1号の発行はセネガルの資本家がサポートしてくれたようだが、その後は購読料、会費、雑誌の売り上げから全てやりくりしていた。しかし、発行開始2年後に資金難に陥り、6年間発行が中断する。Bingoの支援をしていたフランスの投資家Breteuil氏が、AWAの救済を申し出たが実現せず、彼自身は今現在も人気の女性雑誌『Amina』を発行することになる。AWAは1972年に発行が再開されるが、翌年73年に再度発行が停止する。


AWAは多くの作家や詩人を起用しており文学的にも価値のある雑誌と評されており、2017年に全ての雑誌がデータ化された。それを以下のサイトで無料で見ることができる。

https://www.awamagazine.org/

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by iihanashi-africa | 2018-04-20 07:16 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アンリエット・バティリ女性博物館
ダカールの海沿いのコルニッシュ大通りに、アフリカ・メモリアル広場(Place de souvenir africain)というイベント広場があるのだが、そこに知る人ぞ知るアンリエット・バティリ女性博物館(Musée de la Femme Henriette Bathily)がある。
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建物は二階建てで、1階は特別展、2階は常設展となっており、常設展では、セネガルでこれまでに活躍した女性たちの紹介、セネガル社会におけるかつての女性の捉え方、女性の服装、仕事道具、宗教行事、等々の展示がされている。2階の一角にはシークレットゾーンもあり、女性たちが服の下に身につけるアクセサリー類なども飾られている。受付の方が一つ一つしっかりガイドしてくれ、とても分かりやすい。また、3月に訪れた時は、特別展でAWAというアフリカ初の女性雑誌の変遷が紹介されており、これがまたとても興味を引いた。
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アンリエット・バティリ女性博物館のサイト
mufem.org/

アフリカ・メモリアル広場のサイト
http://www.placedusouvenirafricain.sn/


女性博物館は、1994年にゴレ島に建設され、2015年に現在のメモリアル広場に移築された。博物館は、作家でもありセネガル初の女性ジャーナリストでもあるAnnette Mbaye D’Enervilleの構想で、博物館の名前にもなっているアンリエット・バティリは、生涯を通じて女性の地位向上に貢献する活動をした女性として人々の信頼を得ていた方なのだそう。彼女が亡くなった1984年4月4日は、通常であれば独立記念日の式典が行われるナショナルデーなのだが、国民が喪に服す日として式典は中止となったらしい。最大の国家行事が中止になるくらいセネガルにとって重要な人物だったことが分かる。もともとはフランスで保育士の勉強をし、帰国後にラジオ・マリの局長に就任、その後ラジオ・セネガルの局長に就任した。ソラノ国立劇場の発展にも貢献したほか、1964年から1984年に亡くなるまでフランス文化センター長でもあり、当時開催した「セネガル女性の地位と役割」というテーマの展示会が、この女性博物館の前身ともいわれている。

一つ前の記事で紹介したドキュメンタリー映画はこの博物館で上映されていた映画。
セネガル独立に貢献した母たちを描く映画

次回の記事では、とても面白かった特別展についても書いてみよう。

そうそう入場料は1000fcfa(約200円)。
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by iihanashi-africa | 2018-04-18 04:10 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガル独立に貢献した母たちを描く映画
先日、ダカールにある女性博物館に行ったのだが、そこでとても興味深いドキュメンタリー映画が上映されており、チラ見するだけのはずが、その場でずっと見続けてしまった。途中から見たので全ては見られなかったが、こうやって歴史から女性たちの活躍は消されていくのかと知って愕然とした。

セネガルの歴史、特に植民地から独立する際に、活躍した女性たちがいる。彼女たちは、「男性たちが記述した」歴史の教科書から忘れ去られ、今日まで脚光を浴びることはなかった。脚光を浴びないだけならまだしも、独立後にセネガルを率いた政治家たちから無下にされ、不当な扱いを受けてきた過去がある。この映画は、17名の闘った女性たちを紹介し、本人たちの証言をつなぎ合わせながら物語が進む。



『Les mamans de l’indépendance(独立に貢献した母たち)』
監督:Diabou Bessane
2012年、53分、セネガル


(この動画は途中から止まってしまいます・・)




1950年代、女性たちは、女性と子どもの人権尊重と地位向上のためにUnion des Femmes du Sénégal(UFS:セネガル女性連合)を設立する。当時各地で行われていた独立運動では、最前線でプラカードを掲げながら「即独立!」を訴えており、治安部隊に催涙弾を投げられて、逃げ回ったこともあった。当時のフランスのドゴール大統領がセネガルを訪問した際にも、大統領の目の前で「平等!」を訴えるプラカードを振りかざした。

1958年にベナンで西アフリカのエリート政治家たちが集まって会議が開催されているのだが、この会議のことを調べると、その後各国の大統領など政治の中枢を担うことになる「男性」政治家の参加者しか記述されておらず、参加者の中に勇敢な女性がいたことなど、どこにも記されていない。この会議にセネガルの政治家と共に参加したUFSの代表Rose Basseは、エリート政治家たちが「独立」に向かうことに尻込みしている中、「あなたたちが独立に向かうことに怯えているなら、私たち女性が向かいます!」と男性たちに喝を入れるように発言したそうだ。UFSは、彼女をベナンの会議へ送るための費用を自分たちでなんとか集めて工面している。

かつて存在したセネガルの政党Le Parti africain de l'indépendance(PAI)も、Majmout Diopが作ったかのように歴史には記載されているが、実際は、女性活動家Arame Thioumbé Sambが投獄されることも覚悟で、政党立ち上げのために闘っている。

しかし、独立後、政治家は彼女たちを共産主義者と呼び、平等を訴えることを禁止し、違反したものは投獄するとした。3月8日の女性デーを祝うことを禁止した。政治家は、女性活動家たちが世論を動かすことを危惧し、早い段階での火消しを行った。

これまでこうして人の手によって歴史から消されていた女性たちの活躍を、この映画がしっかり描いてくれている。


以下のサイトから一部引用。
https://www.xibar.net/JOURNEE-INTERNATIONALE-DE-LA-FEMME-LES-MAMANS-DE-L-INDEPENDANCE-DE-DIABOU-BESSANE-Dix-sept-passionarias-sur-une-longue_a47916.html


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by iihanashi-africa | 2018-04-14 07:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
モーリタニアのビスケット
最近ブログアップペースが早いが、「暇」なのではなく、書きたいことがありすぎて週末や帰宅後に書き溜めている。こうやって仕事と関係ない記事を毎日のようにアップしていると、仕事をしていないように見えてしまうかもしれないので、ちょっと自己防衛(笑)。ちゃんと仕事もしています。


さて、先日、セネガル北部に出張した際、モーリタニアとの国境を接するロッソという町の近くで、一緒に出張したセネガル人が、「モーリタニアのビスケット」を買いたいので止まってほしいと車を止めた。このセネガル人がそう呼んでいるだけかと思ったら、運転手も買いたいと言い、露天の売り子に「モーリタニアのビスケットを欲しい」と言ったら、このビスケットを持ってきた。モーリタニアにもビスケットは沢山種類があるだろうに、セネガル人にとって「モーリタニアのビスケット」といえばこれらしい。
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10個入りで1000fcfa(約200円)。
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BRAVOというビスケット。材料は、小麦粉とベジタブルオイル、砂糖、塩、ミルクパウダー、重曹、重炭酸アンモニウム、香料、着色料、保存料。少し食べさせてもらったが、素朴なごく普通の味の奥に保存料のような化学的な味があり、なかなか食べ進めることができなかったが、セネガル人には親しみのある味らしい。運転手はミルクをかけて少しふやかして食べるそうだ。
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by iihanashi-africa | 2018-04-13 05:25 | セネガル | Trackback | Comments(1)
セネガルの王国シリーズ:シン王国2
前回の続き。


②イスラム教との闘い

12世紀頃からセネガルでもイスラム教が台頭してきた。北部のワロ王国、カヨール王国、フタ・トロ王国は早くにイスラムに改宗したが、南部、とりわけセレール族は伝統宗教を重んじ、イスラム教改宗に最後まで抵抗した歴史がある

1443年、シン王国は23代王Diogo Gnilane Dioufの時代に、イスラム教のマラブMamadou Koungoの軍と戦争になったが勝利し、1867年には48代王Coumba Ndoffene Fa Maak Dioufの時代に、かの有名な(という修飾語をつけていたが私ももちろん知らず)ソンブの戦いで、マラブMaba Diakhou Baの軍を破っている。余談だが、この戦いでは、伝統信仰の占いで雨を降らせたことで勝利に導かれたとされており、この占いの儀式は現在も続いているそうだ。特に農期が始まる前に豊作を祈って行われるこの儀式は、現在セネガル国内の文化遺産となっている。

19世紀は、イスラム教への抵抗、キリスト教への抵抗、そしてフランスの植民地化へ抵抗が重なり、各地でレジスタンス運動が繰り広げられていた。帰宅後にこの時代の歴史を調べながら、セネガル人の映画巨匠ウスマン・センベーヌの『Ceddo』という映画を思い出した。この時代の社会を描いたフィクションで非常に興味深い映画なのだ。これは後々紹介しよう。


③階級社会の始まり

王国が形作られてから、これまで全員平等だった社会に階級が導入された。鍛冶屋、グリオ(口誦詩人)、織物師など、それぞれ居住区も分けられていった。下の写真はかつての王宮の図で、丸く囲われた部分が王宮で、王や妻たち、長老などの住まいがあるが、王宮の外に書かれている地区の名前は、それぞれの階級が住む地区を表しているのだそうだ。
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④王や女王のお墓

王宮やチウパン女王宮の敷地内に、王や女王のお墓がある。全てのお墓が現存しているわけではないが、誰のお墓か判別できるものは修復されて名前が書かれている。

これはシン王国最後の王Mahécor Dioufのお墓。1924年に先代の王を継ぎ、1969年に亡くなられるまで君臨した。
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奥にある太鼓はDjoundjoungと呼ばれる。王が関わる場面でしか使われない太鼓で、現在もこうして王を見守っている。
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下の写真の左の方が、シン王国最後の王Mahécor Diouf。右のDjoundjoungを持っている男性は、王専属のグリオ。
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2代前の王のお墓。1897年~1924年まで統治したCoumba Ndoffene Diouf王
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バオバブの木の下にある四角いお墓が、王宮の敷地内に点々としている。お墓の形はないが、このバオバブの下にも数名の王が眠っているらしい。
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女王宮の敷地内のお墓。
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⑤王国の終焉

フランスの植民地化が進んだことが、王制の廃止に大きな影響を及ぼした。フランスはセネガル側に共和制の導入を義務化し、その間に当時存在した王国と協議の場を設け、王族の特権の廃止に向け動いた。シン王国の最後の王Mahecor Dioufとの協議はカオラックで行われ、王族特権を放棄するかわりに、ジャハオ州の州知事になることを提案し、合意された。しかし、セネガル独立後も、1969年にMahecor王が亡くなるまでは、象徴としてシン王国の王として存在し続けた。


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一か月も訪問者がいなければ博物館を管理する方も予算を付けられないのだろうが、展示物は埃が被っており、周囲の金網は一部が壊れており、このままでは日の目を見ないまま葬られてしまいそうだ。ものすごく貴重な歴史を伝える博物館なだけに、もう少し広報すればせめて外国人は集まる気がする。おそらく、こういう歴史は全て口承で伝えられてきたもので、文字に起こすのは大変な作業だったと思う。微力だが、こうしてブログで広報することで訪問者が増えるといいなあ。関心のある方はご連絡をいただければ、鍵の所有者の連絡先をお教えします。





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by iihanashi-africa | 2018-04-11 03:57 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの王国シリーズ:シン王国1
セネガルには、かつて7つの王国が存在した。

ジョロフDjoloff
ワロWaalo
カヨールKayoor
フタトロFuta-Toro
バオルBawl
シンSine
サルームSaloum

の7つである。

正確にはジョロフ王国が他の6つを封建下に置いていた時代もあったが、最終的に各王国が独立して存在している。他にも小さな王国は複数存在したが、主な王国はこの7つ。

その後、1960年にセネガルが独立してからは、王国が徐々に消滅していったが、その名残は今でも残っている。

先日その一つの王国であるシン王国(Royaume de Sine)のかつての中心地ジャハオを訪れた。偶然、2014年にジャハオ・エコミュージアムEcomusée de Diakhaoがオープンしたという記事を発見して行ってみたくなり、ちょうど近くに長期出張している方をお誘いし、一緒に行ってきたのだ。一緒に言った方に「選択が渋いね」と言われたのだが、まさにその通りで、こんな田舎町の小さな博物館を訪れるためにダカールからわざわざ週末を潰して一緒に行ってくれる方はなかなかいない。しかし、長くセネガルに関わっている方もなかなか知らない歴史でとても興味深いのだ。

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観光するにあたり、博物館の開館時間を事前に知りたかったのだが、どう頑張って探しても分からない。ジャハオが属するファティック州にも観光案内所はなく、どこに電話していいかも分からない。もうこれはとにかく行ってみるしかない。日曜は開いていない可能性が高いので、土曜に訪問できるように予定を組んだ。

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当日、ジャハオの町に入ったところで、通行人に博物館の場所を聞いてみた。Googleマップにはまだ博物館は載っていない。一人目は分からなかったが、二人目が場所を教えてくれ、なんとか到着。しかし、閑散としており誰もいない。鍵が締まっており中にも入れず、警備員がいる様子もない。そして周囲にも誰もいない。さて誰に聞いてみたら分かるのかと考え、市役所に行ってみることにした。この日、市役所は通常誰もいないはずなのだが、4月4日の独立記念日のイベント前の会議で、幸運にも関係者が集まっており、市長の第一秘書という方と話ができ、なんとも運よくこの方が博物館の鍵を持っており、会議の後に案内してくれることになった。「ここ1か月以上誰も来ていなかったよ」と話しており、相当渋い選択だったことを再確認した。

        博物館内の写真。
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シン王国は、1185年にMaysa Waly王から始まった。

もともとMaysa Waly王は、マリ南西部からセネガル南東部、ギニアビサウとギニアの一部を統治していたガブ王国(Kaabu、Kabou、Gabouと様々な呼び方があるらしい)の子孫なのだが、当時本国で戦が絶えなかったことから、一族の全滅を危惧した当時の王が子孫をお付きのものたちと共に逃がし、王国がないところで王国を設置するよう言い渡した。

マリから移動してきた彼は、セネガルのMbisselという村に腰を下ろした。ジョアルとフィムラの間にあるMbisselはセレール族の村だったが、Maysa Walyが醸し出す一族を率いる者としての尊厳を評価し、住民も彼らを受け入れ、ガブの女性とセレール族の男性を政略結婚させることで、彼を王様と認め、シン王国が成立した。

こうしてカブ王国のマンダン族とシンの土着のセレール族をルーツとするゲルワGuelwarが誕生した。ゲルワは民族区分ではなく、シン王国(サルーム王国も含むが)の王族血統のことを指す。セネガルでは、ゲルワもセレール族の一つとみなされており、セレールの言葉を話すようだ。

カブ王国の統治図。現在の国境がないため位置関係が分かりにくいが、ところどころ分かる地名から、セネガル南部と南東部が中心に描かれていることが分かる。後のシンSine王国は左上に書かれている。
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ちなみにカブ王国の創設者は、マリ帝国の創設者Soundiata Keitaの軍曹だったらしく、この記事も思い出した。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画


初代王が王国を設置したMbissel村から最終的にジャハオが首都になるまでに8回都が変わっている。Ndiol Mangane村、Ndiongolor村、Somb村、Sanghaïe村、Mbimor村、Bicole村、そして八代目の王Wassila Fayeがジャハオに首都を移し、その後57代続く王たちは、この地を中心に統治したそうだ。


①女系の王位継承

シン王国には、「王宮」「女王宮」が別々の場所にあり、現在王宮跡には王族の子孫が住みながら代々の王のお墓を守っており、女王宮跡は博物館として囲われ、女王たちのお墓が守られている。王と女王と訳すとややこしいのだが、英語でもKingとQueenであり、日本語でどう訳していいのか良く分からない。王の正室とも違うのだ。これを理解するにはまず王位継承の仕組みを理解しなければならない。

マダガスカルでもブルキナファソでもそうだったが、シン王国でも女系優位だったようだ。特に王位継承権は、ブルキナファソのロビ族の遺産相続権(ロビ族の国、ガウア旅行序文~ロビ族とは)と同じだ。王位の継承権は、王の子どもではなく、王の姉妹の子どもにある。つまり、王の妻が産んだ子が本当に王の子かは立証できないため継承権はないが、王の姉妹が産んだ子は確実に王族の血を受け継いだ子だと言えるため継承権がある(王族血統の妻をもらった場合は例外)。当然男兄弟の子どもは継承権がない。

王が亡くなると、Grand Jaarafと呼ばれる現在でいう首相のような役割の長老が、姉妹の子どもたちの中から王位継承者の男性を任命する。必ずしも女兄弟の中の長女の長男が継承するというわけではないらしい。継承者に相応しい人をGrand Jaarafが見極めるそうだ。

この女系優位の社会が女王宮の存在意義を高めた。ウォルフ語では女王のことをLingeerリンゲールと呼ぶが、シン王国において「リンゲール」は王の母であり姉妹であり母方の叔母であった。特に18世紀頃から、「リンゲール」の地位を正式に設けており、各王が母、姉妹、叔母の中から最も信頼できる人を「リンゲール」に任命している。王の正室の位はリンゲールよりも低い。この女王宮は別名「Thioupaneチウパン」という。土地の名前かと思ったら、リンゲールの宮殿の呼称らしく、この言葉そのものに意味があるのかはよく分からなかった。リンゲールの写真。
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長くなってしまったので、2回シリーズに分けることにしよう。
次回に続く。

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by iihanashi-africa | 2018-04-10 04:06 | セネガル | Trackback | Comments(0)
二足ジャンプするヤギ
木に登るヤギといえばモロッコが有名で、「木に登るヤギ」で検索すると、アルガンオイルが採れるアルガンの木に登るヤギの衝撃的な写真が見つかる。私はモロッコに旅行したことはあるものの、この衝撃的な情景は見たことがない。ただ、サヘル地域のジャンプするヤギは何度も見たことがある。サヘル地域では、乾期の終わりになると草がなくなる。唯一の食事はニームのような常緑樹の葉である。

先日、セネガル北部で再びジャンプするヤギに出くわした。ニームの木の葉を食べるヤギ。
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バラニテスの木に飛びつくヤギ。
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ジャンプすることになれているのか、相当足腰が強そうだ。









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by iihanashi-africa | 2018-04-06 07:24 | セネガル | Trackback | Comments(2)
バラニテス油の需要増とバイオディーゼルの今
バラニテスの記事を書いていて、ふと思い出した会社がある。

もう5年近く前だがブルキナファソのある会社を訪問したことがある。当時モードだったバイオディーゼルの原料となるジャトロファの栽培から事業を始め、その後加工工場を建設していた。その会社が、バラニテス油を海外に輸出しているという話をしていたのを思い出し、写真を探してみた。

バラニテス、ニーム、モリンガの搾油を行っていた会社だが、特にバラニテス製品の需要が高いらしい。ヨーロッパやアジアから大量の注文が入っていた。でも、これ5年前の話。

バラニテスの実は入手しやすく、価格は40~50FCFA/kg。左はきれいに洗ったバラニテスの種。右はそれをパウダー状にしたもの。
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バラニテスの搾油残渣は家畜の餌となる。
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この会社はジャトロファ栽培とバイオディーゼル精製を行っていたので、ついでにご紹介。


ジャトロファは、播種後9か月から1年で実をつけ始める。収穫時期は主に7月~8月と12月の年2回。人工的に潅水すれば年中実を付ける。
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これがジャトロファの実(左)と種(右)。
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ジャトロファの種からまず1回目の搾油で粗油が出来、更に精製されるとバイオ燃料となる。その過程で副産物としてグリセリンが出来る。
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ジャトロファの実は当時高騰しており、かつては60FCFA/kgで購入できたが、100FCFA/kgに値上がりしていた。時期や場所によっては、200FCFA/kgを超えることもあった。収穫時期が7月~8月と雨期の真最中で、また農繁期でもあるため、収穫する農家もそれなりの見返りを求めていることが価格高騰の原因の一つだったと記憶している。

バイオ燃料の価格は最低でも850FCFA/リットル。これ以下で販売すると利益が出ない。粗油の段階で販売する場合は600FCFA/リットル。ガソリンの価格が560FCFA/リットルと考えると、割高であることが分かる。そのため、わざわざこの価格で燃料を購入する顧客はいない。採算が合わず活動は停滞ないし縮小ぎみだった。

2007年頃だったか、バイオ燃料のためのジャトロファ栽培は、食糧用の農地にとって代わってしまうのではないかという懸念からかなり批判的な議論があった。でも、それ以前に全く採算が合わない状況を知ったのが5年前だった。今はどうなっているのだろう。。。


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by iihanashi-africa | 2018-04-04 04:46 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)