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私が今勤務するオフィスはダカールの中心街から少しだけ離れたところ位置する。街中のように外国人が多い地域ではない。そのため、食事処といえばセネガル現地食のレストランかピザやハンバーガーのようなファストフードしかない。10年前にセネガルで働いていた頃は、毎日のように、こってりセネガル料理を食べていたのだが、最近は健康にも気を遣い、油と塩分少なめの料理を選ぶようになっている。着任してからオフィス周辺にあっさり野菜が食べられるところがないか探し、行きついたのがSaveur d’Asieというアジア系料理のテイクアウト。ダカールに何件もあるチェーン店である。買ってきてオフィスで食べるのがいつものパターンとなっている。
Saveur d’Asieのパッケージ。 ![]() いつもの昼食セット。 生春巻きと揚げ春巻き。 ![]() この揚げ春巻き、フランス語圏ではネムと呼ばれることが多いが、ダカールでは一般市民にも浸透した食べ物となっている。セネガルではPain chinois(中国パン)と呼ぶ人も多く、「ネム」といっても分かってもらえないこともしばしばだが、ものを見せるとすぐに分かる。 このネムがなぜオリジナルのベトナムからセネガルにわたり、ここまで浸透するようになったのか。この歴史について書かれた興味深い記事を、以前友人から共有してもらった。 「How spring rolls got to Senegal」 http://roadsandkingdoms.com/2016/spring-rolls-got-senegal/ 読んでいただければ詳しく分かるが、背景も付け加えて簡単に要旨を書いてみる。 1945年、ベトナムは80年に及ぶフランスの支配を覆し独立したのだが、その後まもなく再支配をはかるフランスとの間に第1次インドシナ戦争が始まる。1954年、この戦争の停戦を定めたジュネーブ協定により国土が南北に分断された。第2次インドシナ戦争、所謂ベトナム戦争が始まるのは、その数年後である。 第1次インドシナ戦争でのフランス軍の介入には、5万人を超えるアフリカ兵が歩兵隊として送られている。日本ではあまり知られていない事実かもしれないが、1960年にアフリカ各国が独立するまでの植民地時代、フランスが関連した戦争に多くの仏語圏アフリカの方々が兵士として送られた。拉致のような形で強制的に送られた人も多いと言われている。各国アフリカの兵士の中でもセネガル人兵士は、Tirailleurs sénégalais(セネガル狙撃兵)と称され、有名になった。 ベトナムに送られたセネガル兵の中には、戦地ベトナムで妻を見つけて一緒にセネガルに帰国するものもいた。こうして第1次インドシナ戦争中にセネガルの地を踏んだベトナム人女性は100人ほどいたらしい。ベトナムの家族や社会には受け入れてもらえずセネガルにやってきたが、セネガルでも現地の言葉を覚えるまでは受け入れられず大変な思いをしたようだ。 更に、植民地下の兵士の給料など微々たるもの。女性たちは自分たちが持ち合わせている技能を活用して生計を支えなければならなかった。その中で、ダカール市街の中心にあるケルメルマーケットで料理をする人もいた。 記事に登場するJean Gomisの母もこうしてネムをよく作っていたが、Jean Gomis本人も母から作り方を習っていた。セネガルでは、今でも男性が家族のために料理をするのは珍しいが、当時はなおさら奇妙に見られただろう。しかしGomisは誇りをもって料理をしており、彼の料理の様子を近くで見ていた若者Pierre Thiamは、今やニューヨークで有名なセネガル料理のシェフとなっている。 私が毎日のように利用しているテイクアウトSaveur d’Asieは、ベトナム移民女性の息子が始めたらしい。 現在、セネガルでネムはストリートフードとなり、油でギトギトのネムが手に入り、本場ベトナムの味ではなくなったが、売っている本人がネムがベトナムから来たことすら知らないほど、ダカール市民の間に浸透する食べ物となった。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-29 02:19
| セネガル
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2か月ほど前、私は苗字が「鈴木」に変わった。 今まで同じ苗字の方に出会うことなど皆目ない生活をしてきた私にとっては大きな転機で、日本では超平凡な苗字に新鮮さと若干の戸惑いを感じていた。日本の病院で「鈴木さ~ん」と呼ばれ、ん?これは私なのか?と周囲を見渡す状況は初めての体験だった。 セネガルに戻ると、休暇中に結婚することを事前に伝えていた同僚たちが私のオフィスに来て祝福してくれたのだが、苗字が「SUZUKI」に変わったことを話すと、「Oh~~~、SUZUKIか、今度はマダム・スズキと呼ばせてもらうよ」という冷やかしがあったり、「SUZUKIは、日本ではBig familyなんだろ?その仲間入りだな」と言われたり、なんと反応が良いことか。なんかとても由緒ある家に嫁入りしたような感覚になった。まあ、もともとKUMIKOと呼ばれていたので、わざわざSUZUKIに呼び名を変えていただく必要はないのだが、そう呼びたいようなので、あえてツッこまないことにした。 つい先ほど、出張でニジェールに到着したのだが、今回の出張が鈴木姓のパスポートを使う初めての旅となった。経由地のワガドゥグに到着後、乗り継ぎ便の搭乗券を受け取ったら座席が通路側だったので、窓側に変えてほしいとお願いしたところ、カウンターのブルキナファソ人のおじさんに「おまえはSUZUKIなのか。SUZUKIを何台も持ってきてくれたら変えてやる(笑)」と迫られた。「次回立ち寄るときに何台でも持ってくるよ」という私の返答に、「よし、ずっと顔を覚えているからな」と。こういう会話を通して相手と打ち解けることで、たまに複雑になる単純な物事もスムーズに進む。 ニジェール出張に先立って、同僚たちの話を夫にしたら、「今度は、SUZUKI、HONDA、MITSUBISHI、って言われるようになるよ」ということだったが、早くもやってきた楽しいシチュエーション。 日本にいると何も特別感を感じないこの「SUZUKI」という名前が、アフリカでは複雑な状況を脱出する助けになってくれるかもしれないと、少し楽しみになった。 ***************** 実は、この話、後日談がある。 2週間後にニジェール出張を終え、往路同様にブルキナファソ経由でセネガルに戻った。経由地のワガドゥグで、飛行機のタラップを下りたところに、ワガドゥグが最終目的地の乗客用とトランジットの乗客用のバス2台が停留してあり、タラップの下で係員が下りてくる乗客に、「ダカールの方はあちらのバスへ、ワガドゥグの方はあちらのバスへ」と誘導していた。私も前の乗客に続いてタラップを下りると、係員が「SUZUKIは向こうへ」とトランジットのバスを指した。私も驚いて係員の顔を見ると、なんと往路でSUZUKIのくだりのやり取りをしたブルキナファソ航空の方だった。 よくぞ分かりにくいはずのアジア人の顔と名前を憶えていてくれたと感心しっぱなしで、次回ブルキナファソに出張するときは、SUZUKIのくだりの進展を考えておかねばと思ったのである。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-23 01:48
| セネガル
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パンヤノキと呼ばれる木がある。 学名Ceiba pentandra、英語でKapokカポック、フランス語でFromagerと呼ばれる。アフリカや中南部アメリカが原産だが、現在はインドネシアやタイでかなり栽培されているようだ。 Wikipediaによると、「カポックの実から採れる繊維は、糸に加工するには不向きで、燃えやすいという難点がある一方で、撥水性に優れ軽量である。枕などの詰め物やソフトボールの芯として使われている他、第二次世界大戦頃までは救命胴衣や救難用の浮き輪にも利用されていた。今でも、競艇業界や海上自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいる」そうである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF 私が初めてカポックの木を見たのはマダガスカル。それ以前にも見たことはあったのかもしれないが、たぶんその存在を知らずに通り過ぎていたかも。 上記の通り、カポックの木はフランス語でFromagerと呼ぶ。マダガスカルでカポックを見たときは、「カポック」と教えられたため、Fromagerという呼び名を知らなかった。セネガルに来てから、あるガイドにToubacoutaの近くのMissirahという村に、セネガル一大きいFromagerがあると聞き、セネガル一大きい「チーズ工場」とはどんなもんかと見に行ったことがある。フランス語でFromage(フロマージュ)はチーズ。Fromagerはチーズ製造業者を意味する。この時は、ほんとにMissira村に到着するまでチーズ工場を見に行くつもりだった(笑)。 到着してから、村の人々にFromagerはどこかと聞くと指さして教えてくれ、辿り着いたのがここ。大きな木だった。ここに着いてもなお、木の向こう側にチーズ工場があると思っていた。 そして「あの木の横にFromagerのガイドがいるよ」と聞き、なんかよく意味がわからず色々質問するうちに、やっとカポックの木のことをFromagerと呼ぶことが判明。なぜFromagerと呼ぶのかは未だ不明。もちろんチーズの味がする訳ではない。木が柔らかくチーズのように切れるからという説もあるようだが、本当のところはよく分からない。 Missirah村のカポックは本当に大きい。よく見る大きさのカポックの木の根元は、こんな感じで地を割るように根が生えている。 それに比べ、Missirah村のカポックは巨大である。近くから見ると、いで立ちといい形といい、とても神秘的な感じがする。 枝も大きなのこぎりの歯のように四角く薄っぺらい。こんなカポックの木は見たことなかった。 このカポックの木は、研究者によると樹齢約900年だという。Missirahが村として出来上がる以前に、Ansoumana Ndourという人がこのカポックの木を植えたと言い伝えられており、現在に至るまで、その子孫によって守られている。多くの神話や伝説があり、村人から聖なる木として崇められている。 よく見ると、とげがなくなっている部分があるのだが、実は、この辺りでは子どもが生まれると、カポックのとげをネックレスにして子どもにつけ魔除けとするらしい。このとげは、木が大きくなるにつれてなくなっていく。これがまた不思議である。
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by iihanashi-africa
| 2017-10-21 03:10
| セネガル
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2010年、私はマダガスカルにいた。定期購読していたJeune Afriqueというアフリカ情報誌の表紙が、この年の4月3日にセネガルで除幕されたモニュメントだった。まさかこんな大きなモニュメントがセネガルにできるとは想像もしなかったため、最初は合成写真かと思ったほどだった。 ![]() 高さ52メートルの銅像。高さはニューヨークの自由の女神の1.5倍あるらしい。上半身裸の男性が左手に子どもを抱え、右手で女性を支え、子どもが指さす方向に向かって今にも飛び立とうとする雰囲気を醸し出している。奴隷や植民地という暗闇から這い上がって光の方向に向かって進むアフリカをイメージして建設されたそうだ。子どもが指している方向は北西。まさにニューヨークの自由の女神がある方向である。 モニュメントは当初、ルーマニア人彫刻家のVirgil Magherusan氏により構想され、その後、セネガル人建築家Pierre Goudiaby Atepa氏が引き継いた。とても社会主義を連想させるモニュメントだが、それもそのはず、北朝鮮政府のプロパガンダ銅像を建設しているMansudae Overseas Projects(万寿台創作社)が手掛けたものなのだ。 Mansudae社は、1959年にピョンヤンに設立された社員4千人の会社。北朝鮮の様々な銅像を建設してきた。金正恩や金正日の巨大な銅像を手掛けたのもMansudae社である。なぜ北朝鮮の建設会社がセネガルの銅像を建設するに至ったのか?理由はいたってシンプルで、低コストだったからである。すでにアフリカの18か国で似たような銅像を建設している。 ![]() 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mansudae-Monument-Bow-2014.jpg モニュメント建設は2006年に、当時の大統領Abdoulaye Wadeが始めた。そして2010年、セネガル独立50周年の年に除幕式が行われた。アフリカ19か国の大統領が出席する盛大な除幕式だった。建設費の合計は2700万USドル。すべて現金で支払われたそうだ。 完成後、ワッド大統領はモニュメントの観光収入の3分の1を知的財産権として自分が受け取ることを主張し、多くの国民から反発を受けた。その後、憲法改正、汚職、選挙での不正など、様々な疑惑がかけられ、2012年の大統領選挙でも敗退した。 建設時に様々な議論があり、国民の納得のもとに建てられたモニュメントではないが、今となっては観光地の一つになっている。 モニュメントの入口。 入口を入るとまず奴隷解放や人種差別で戦った世界の英雄たちの展示がある。フランス語と英語でガイドがつく。 到着するのは男性の頭の部分。男性の頭にハチマキを巻いたように一周しているのが展望台の窓。 展望台からはダカール市内が見渡せる。 で、ふと見下ろすと女性の顔が。 上から見る女性の顔って斬新。ちゃんと頭の上に避雷針もついている。 ![]() このモニュメント、エレベーターの他に階段もあるそうだが、普段はこうして閉められている。 夜も綺麗にライトアップされる。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-19 05:46
| セネガル
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先週木曜日の10月12日に、このブログの「ファマディアナ~死者を敬う」という記事へのアクセスが急激に増えた。8年も前に書いた記事のアクセス数が増えるということは、またTVで紹介されたに違いないと思い検索したら、クレイジージャーニーという番組で、奇怪遺産の写真家、佐藤健寿(さとうけんじ)さんが「死体を掘り起こす儀式」と称してマダガスカルのファマディアナを紹介したらしい。 ありがたいことに、ファマディアナと検索するとこの記事がトップに近いところに出てきており、このブログ開設以来、1,2を争うアクセス数になっている。 かつて、「タイガーナッツ」を道端アンジェリカさんがTVで紹介した後に、「タイガーナッツという豆」という記事がものすごいアクセス数に達したが、今回はそれ以上のアクセスだ。 いつもマニアックな記事しか書かないため、普段のアクセス数はかなり限定的なのだが、今回は平均訪問者数の30倍。いやあ、テレビってすごい。 さて、肝心のテレビ番組の内容だが、「死体を掘り起こす」という飾り文句がどうかとは思ったものの、最終的には死者を弔う素晴らしい儀式と紹介されていたようでよかった。私も実際に見た時にそう思い、ブログの記事にも書いたのだが、数年に1度、亡くなった最愛の人に会えると思うと、嬉しいかもしれないし、自分も逆の立場だったら嬉しいかもしれない。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-16 08:23
| マダガスカル
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9月に休暇で日本に戻っていた時に、面白そうな本を見つけて買って帰ってきた。1週間前に読み始めたのだが、読み始めから興味をそそり、読み終わるまでは毎日続きが気になり、帰宅して読むのが楽しみになっていた。 『アルカイダから古文書を守った図書館員』 西アフリカ・マリ共和国中部のトンブクトゥの図書館員の実話である。 ![]() 以下、本の中の文章(主に訳者あとがき)を引用しながら紹介。 トンブクトゥはサハラ砂漠の南縁に位置し、町全体が世界文化遺産に登録されている。12世紀初頭に交通の要衝として開け、15世紀末から16世紀にかけては黄金時代を迎えて栄華を極めた。とくに学問の都としての名声は世に鳴り響き、自由で開放的な文化が息づくことでも知られた。 1964年、ユネスコの代表団がトンブクトゥで会議を開いた。ユネスコの歴史家は、かつてこの地を訪れたふたりの旅行家の文章を読んでいた。ふたりとも中世で最も有名な旅行家で、14世紀から16世紀にかけて現在のマリにあたる地域を旅行している。どちらも、トンブクトゥでは写本制作と書物収集が盛んに行われていたと記している。かねがねヨーロッパ人の歴史家や哲学者は、アフリカの黒人は「文盲」で「歴史をもたない」と主張してきた。ところが、トンブクトゥの古文書は正反対の事実を告げている。膨大な数の歴史書や詩集、医学書や天文学書が、かつて図書館や市場に、そして自宅に誇らしげに飾られていた。 しかし、そうした書物は、町がその後様々な国に支配されるにつれて地下へと潜ることになる。代々個人の手で密かに何世紀も守り継がれたものもあれば、略奪や破壊の憂き目をみたものもある。隠され、埋められ、その過程で所在不明になったものもある。このトンブクトゥの古文書にふたたび光を当て、失われた伝統を蘇らせるべく生涯をささげているのが、主人公のハイダラである。 あるとき、ハーバード大学の教授一行がトンブクトゥを訪れた。ハイダラはトンブクトゥにおける古文書の歴史を話して聞かせた。14世紀にトンブクトゥにサンコーレ大学が誕生し、当時は2万5千人もの学生がおり、傑出した学者を綺羅星のごとく輩出したこと。黄金時代には12の名家がトンブクトゥの写本の大半を集めたこと。16世紀末にモロッコ軍の侵略によって古文書のほとんどは地下に潜ったものの、収集家の子孫の手で400年のあいだ守り伝えられてきたことも説明した。ハーバード大学の教授はこう表現している。「人生であれほど感動した日はそうありません。古文書を手にして、胸が震えました」 ハイダラは散逸した古文書の発掘と保護に涙ぐましいまでの努力を傾け、古文書図書館の設立にも尽力する。そうした活動の甲斐あって、トンブクトゥはアラビア語の古文書保存の世界的な中心地のひとつとして復興をとげていき、町全体で約38万冊が収蔵されるまでになった。しかしそのころ、町の北に広がるサハラ砂漠にイスラム過激派が進出する。最終的にトンブクトゥは過激派の手に落ち、市民は厳しい統制下におかれる。テロリストたちは町の図書館に侵入して、古文書を燃やした。ところが焼失したのはごく一部で、ほとんどは無事だったことがのちにわかる。危険を察知したハイダラが、命を賭けて一大救出作戦に打って出ていた。この作戦が臨場感あふれる文章で書かれている。 ******************** トンブクトゥの古文書の存在とその重要性を知るだけでもとても貴重な本なのだが、実は私にとってそれ以上に興味深かったことがある。それは、サヘル地域で活動するイスラム過激派のAQIMやアンサール・ディーンとそれを率いるリーダーたちの背景、2013年にあわやマリ全体が過激派の手に落ちるかもしれないと危機感を募らせていたときのフランス軍の介入など、調査やインタビューを重ねて事細かに記述されていたことである。 本のタイトルからすると、ハイダラの古文書救出作戦がメインだと思いきや、実に本の5分の4はイスラム過激派とマリ北部の戦闘の描写に割かれている。 2013年1月、フランスの軍事介入が始まったころ、私はブルキナファソの首都ワガドゥグで、自分の家の上空を飛び交う軍用機の爆音を聞いていた。そのころに、マリ北部のイスラム過激派の記事を書いた。この本を読んだ後に自分の記事を読み返すと、知識がいかに浅かったかが分かる。 マリ北部のイスラム過激派グループとは このあたりの情勢に興味がある方には、とてもお勧めしたい本である。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-11 04:43
| マリ
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『Place à la révolution』 (革命の出番だ) 監督:Kiswendsida Parfait Kaboré 84分、ブルキナファソ 2014年10月31日、ブルキナファソでは反政府デモをきっかけに27年間続いたコンパオレ政権が崩壊した。コンパオレ元大統領は1987年に当時大統領だったサンカラが殺害された後、クーデタで政権を奪った。その後、1991年、1998年、2005年、2010年に行われた大統領選で、4度にわたり再選している。ブルキナファソの憲法は、2000年に改正されており、大統領の任期を2期までに制限し(憲法第37項)、任期も7年から5年に短縮されているが、一度はコンパオレ大統領自身も合意して決めた憲法第37項を、再度改正して3選目を目指そうとしていた。これに反対した国民と野党が2013年から繰り返しデモを行い、2014年10月に大統領退陣まで追い込んだ。 当時のデモの写真。 ![]() 当時の記事 ↴ ブルキナファソ:憲法改正反対デモ アラート:ブルキナファソで大統領退陣か? ブルキナファソ:大統領辞任 クーデター or 革命? 実は、この反政府デモの裏に、「Balai Citoyen」という運動があったのをご存知だろうか。Balaiとはフランス語で掃除用などのホウキを意味する。つまり「市民のホウキ」。政府の汚職などを市民がホウキで掃いてキレイにするという意味を込めてつけられている。だから、運動を起こすときは、皆、シンボルであるホウキを振りかざして訴える。 ![]() http://outhere.de/outhere/smockey-pre-volution-le-president-ma-moto-et-moi/ より 私自身もまさに2014年10月はブルキナファソで仕事をしており、Balai Citoyenの話は聞いてもいたし、新聞でも読んでいた。しかし、周囲のブルキナファソ人の友人たちは、反政府デモには参加していたものの、Balai Citoyenに参加するという意思を持っていたわけではなかった。そのため、Balai Citoyen運動がどこまで影響力があったのか、正直よく分からなかった。しかし、このドキュメンタリー映画を見て、やはり彼らの扇動があったからこそ大統領退陣まで追い込むことができたのだと改めて感じた。 Balai Citoyenは、2013年の夏、レゲエのミュージシャンSams’K Le JahとヒップホップのミュージシャンSmockeyの二人を中心に始まった。 Sams’K Le Jahは、若いころからサンカリストと呼ばれるトマ・サンカラ前大統領の信奉者でもあり、Radio Ouaga FMの自分の番組でも、政治的な発言をしており、表現の自由を訴える歌を歌ったりもしていた。これらの発言から、殺害の脅しを受けたり、Sams’K Le Jah自身の車に火をつけられたこともあった。 トマ・サンカラの死から29年(その1) トマ・サンカラの死から29年(その2) Smockeyは、ブルキナファソ人の父とフランス人の母の間に生まれたハーフ。ブルキナファソで生まれ育ったが、20歳の時にフランスに移住して学業を続け、同時に音楽にものめりこみ、1999年、28歳の時にシングルを出した。その後、音楽では成功をおさめ、様々な賞を獲得している。2001年にはブルキナファソに戻って音楽スタジオを設置した。2008年頃からサンカリストを公言するようになり、政治的な曲を歌うようになっている。 下の写真の中央右がSams’K Le Jah、中央左がSmockey。 ![]() http://www.aib.bf/m-6724-burkina-le-mouvement-%AB-balai-citoyen-%BB-presente-un-prix-au-president-kabore.html より この二人が、Balai Citoyenを結成し、その後どのようにデモを扇動していったのかが、このドキュメンタリー映画で描かれている。 2014年10月31日のあの日、どうやってデモ隊が国会議事堂に入ったのか、前線では何が起こっていたのか。初めて見る映像に私自身も目が釘付けになった。 映像を見ながら、SmockeyよりもSams’K Le Jahの方が活動家であり弁が立つと感じた。セネガルの「Y’en a marre」運動を起こしたKeurguiもそうだったが、信念があって、弁が立ち、カリスマ性のある人には周囲はついてくる。 当時、国民の多く、特に都市部の人々は、現政権に対する不満が非常に大きかった。私の友人たちも都市部で働くホワイトカラーたちは、SmockeyやSams’K Le Jahを傾倒していたわけではなかったが、コンパオレ大統領が次の大統領選に出馬することをどうしても阻止したいという思いはあった。そのため、市民も野党も同じ目的を持っていた者たちは、Balai Citoyenが扇動したデモに乗ったというのが、当時の状況だったのだと今になって思う。 ****************** 上映後に、Balai Citoyenの理事をしている方がコメンテーターとして話をしてくれた。 実は、Balai Citoyenはセネガルの「Y’en a marre」運動に非常に大きい影響を受けているそうだ。2013年6月にブルキナファソで開催されたCine Droit Libreで「Y’en a marre」運動のドキュメンタリー映画が上映され、運動の中心となったミュージシャンKeurquiが招待されていた。私もその場におり、彼らにとても魅了された一人なのだが、実はその時、会場の後ろにはSmockeyが座っていた。質疑応答の最後にKeurguiのメンバーThiatが、「今ブルキナファソでも、まさに同じように戦おうとしている同士がいる。ぜひ応援したい」と話して、Smockeyに向けて会場の観客が拍手をしたのを鮮明に覚えている。この2日後にBalai Citoyenは誕生したという。 この話を聞いた時、なんかとても歴史的な場所に私はいたんだと思いなおして、鳥肌が立った。 当時の映画の記事 ↴ Cine Droit Libre3:セネガルの「Y'en a marre!」運動 今、お隣のトーゴでは、2014年のブルキナファソと似たようなことが起きている。大統領が引き続き立候補することに対する反対運動が起きている。そして、市民たちが「Front citoyen」というグループを設置し、「Togo Debout(トーゴよ、立ち上がれ)」運動を始めた。つい2週間前の、9月22日のことである。セネガル、ブルキナファソに続き、国民が声を張って政治を変える時が来ている。 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-07 03:17
| ブルキナファソ
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Cine Droit Libre Dakar 3 :カメルーン北部のボコハラム対策と位置付けた警察の横行 日本にはダルクDARC(Drug Addiction Rehabilitation Center)という薬物依存症回復施設がある。日本で最初に開設された、民間薬物依存症リハビリテーションセンターである。私の両親は、山梨ダルクを2008年の設立当初から支援しており、その関係で何度かセミナーに参加し、私自身もそのたびに多くを学んできた。依存症に対する考え方がセミナーに参加するたびに変化していったのが自分でも分かるくらいポジティブに影響を受けている。 先日、セネガルにもダルクのような依存症回復施設があることをこのドキュメンタリー映画を通して初めて知った。22分の短いドキュメンタリーだが、セネガルにおける薬物依存の現状をしっかりと表現した興味深い映像である。 『Harm Reduction:The Senegalese Experience』 Osiwa 22分、2016年 2014年12月、CEPIAD(Centre de prise en charge intégrée des addictions de Dakar)というセンターが首都ダカールのファン病院の中に開設された。西アフリカで初めて設置された薬物依存症回復センターである。 日本同様、セネガルでも薬物依存は犯罪として刑罰が下る。しかし、欧米諸国ではドラッグコート(薬物専門裁判所)が設けられ、刑務所「犯罪→矯正」ではなく、薬物依存プログラム「病気→治療」にシフトした対応が施される。依存症というのは病気である。薬物依存でもアルコール依存でもクーラー依存でも依存度が高くなればそれは依存症という病なのである。しかし、頭では理解しているつもりでも、残念ながらいまだ日本では精神論が根強い。(一部は山梨ダルクの代表の記事より) セネガルの話に戻ると、依然として薬物使用は犯罪と捉えられてはいるものの、一方で2014年から、より前向きなイニシアティブもスタートした。CEPIADの開設である。2011年の調査で、ダカールだけで1300人の薬物使用者がいることが分かり、まずは彼らの元へ出向いて信頼関係を構築するところから始めている。CEPIADが開設したからといって、彼らの方から来ることはまずないからである。当初は、自分たちを逮捕しに来たのではと警戒する人が多かったそうだ。地道な活動を続けて、2016年3月現在で、128人の依存症患者を受け入れている。 施設では主にダカールに住む薬物依存者が依存症に適した医療・社会サポートや、社会復帰のためのサポートを受けられる。先生が一人ずつ依存症患者の話を聞く。2時間患者さんは自由に話ができ、普通の医者のような診察はない。グループサポートセッションもある。患者さんが自由に話せるミーティングだ。センターの庭には野菜畑や養鶏所もあり、アートセラピーセッションとして絵画やバティック布の作成方法を習うこともできる。セネガルでは仕事に就けない若者が多く、社会復帰のためには職業訓練も並行して行わなければ効果的ではないようだ。 セネガルでは、注射器をみんなで使いまわしたりするため、薬物依存症患者のHIVや肝炎の感染率は平均よりも高いという。センターは薬物を購入することを強制的に止めることはできない。しかし、一緒に話をし、リスクを減らしていく方法を考え、彼ら自身が自分や仲間を守ることができるように導いていくとスタッフは話す。 映画の中で、こういう印象的な言葉があった。 男性患者:「この10年間で初めて家族と食事をとることができたよ」 女性患者:「バティック布の仕事が好きで毎日欠かさず来るようになりました。依存症になる以前よりも働いています」 男性患者の母親:「以前の息子は、私のクローゼットの服を盗んで売っては薬物を買っていました。攻撃的になったり一日中ベッドで寝転がっていることもありました。息子は私から全てを奪い、友達もいなくなってしまいました。当時は、神に、息子が治らないならもう連れて行ってくれとお願いしたほどでした。でもCEPIADに通い始め少しお金を稼げるようになってからは、毎日朝早くでかけ、稼いだお金を家に持って帰ってくるようになったのです」 このテーマも、セネガル国内でもう少し注目されるといいなあ。 ![]() にほんブログ村 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-03 08:12
| セネガル
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そういえば、少し前に10年経っていました。 2007年5月にブログを書き始めた時はブルキナファソにいました。当時アメリカにいた弟が最初にブログを始め、毎日「元気です」というメールを書くわけでもない家族に普段の無事を伝えるいい手段だなあと思い、始めたのがきっかけです。これが意外と私の性に合い、投稿ペースは開設当初より減ったもののマイペースに個人的に関心を持った記事を書き続けています。今や趣味の一つかもしれません。 当初からできるだけ日記形式は避けて、テーマを決めて記事を書こうと決めていました。仕事をしていると特に毎日ブログに書くような出来事が起こるわけでもなく、ネタがなくて困って、ああ更新しなきゃというストレスがあると続かないと思っていました。このスタンスが、持続性に繋がったのかなあと。 記事を書くときは、テーマによってはかなり調べてから書きます。そのため、帰宅後の短い時間を使って数日かけて記事を書くこともあります。気分が乗らないと、タイトルだけ書いて数週間、あるいは数か月も放っておくこともあります。で、こうしてお蔵に入ったまま日の目を見ないテーマも。結構マニアックなテーマもありますが、同じように関心を持って読んでくださるコアな読者の皆さんに本当に感謝です。 もう一つ念頭に置いていることは、可能な限り自分が見て体験して感じたことを書くこと。それがいつまでできるかは分かりませんが、できるまでは引き続きマイペースで続けたいと思います。 そして、とても久しぶりに10年前の初投稿を読み返してみました。10年も前だとやはり文章が若々しく、読むのはとても恥ずかしいので、自分でもこの頃の記事はあまり読み返さないのですが、久しぶりに読んでみて、当時の思いは今でも変わらないなあと改めて思いました。 ブログのタイトルの「思いやり」は父のモットーです。仕事においても、全ては相手を思いやることから始まるという父の言葉を借りてタイトルをつけました。これからも、アフリカに「思いやり」。 ![]() にほんブログ村 ■
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by iihanashi-africa
| 2017-10-01 03:31
| アフリカ全体
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