ワガドゥグの街並み2
以前、飛行機から撮ったナイジェリアの首都アブジャの街並みを載せたら、アブジャに行ったことがない方から「アブジャってあんな感じなんだね」という反応があり、行ったことのない方にとっては街並みの写真も結構面白いのだと分かった。ということで、先週のブルキナファソ出張で撮ったワガドゥグの街並みをどうぞ。この時期は既に雨期に入っており、緑が濃く、緑の草が地面を覆っているのが特徴。

以前も街並みの写真を載せたことがあるが、乾期の終わりの5月の写真でかなり茶色かった。滑走路の両脇の地面にご注目。5月は茶色。今回の7月の写真は青々としている。


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# by iihanashi-africa | 2018-07-16 06:36 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
毎日新聞「女の気持ち」:オウムの子たち
7月上旬、母が毎日新聞に投稿し、全国紙に掲載されることになったと連絡がきた。そして昨日、掲載された記事の写真が送られてきた。なるほどこのことについてだったか。

当時、上九一色村を管轄する保健所で働いていた母は、何度も足を運んで話をしようとしていたとも聞いていた。人一倍正義感の強い母は、いろんな思いが巡り、どうしても子どもたちに幸せになってもらいたいという思いが強かったのだと思う。

https://mainichi.jp/articles/20180714/ddm/013/070/013000c

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# by iihanashi-africa | 2018-07-16 06:06 | 日本 | Trackback | Comments(0)
パリダカのゴール、ラックローズと外国人労働者
セネガルの観光地の一つに必ず入るのがラックローズLac Rose。ダカールから45kmと近く、半日で十分に楽しめるので、時間のない方にはゴレ島やンゴール島に次いでお勧め。正式名称はレバ湖Lac Retbaだが、「レバ湖に行こう!」と言ってもおそらく誰も分からない。ラックローズがセネガル人も含め皆が分かる共通名称となっている。英語だとピンクレイク。その名の通りピンク色をした湖だ。しかし、なかなかピンクにならないことでも有名である。ラックローズに行った人には、まず「ピンクだった?」と聞くのがお決まり。私は、これまでに3回ラックローズに行っているが、1回目は薄暗いピンク、2回目は濃いオレンジ、3回目はどこにでもある普通の湖の色だった。雨期中はなかなかピンクにならないらしい。ライブビデオみたいなものを設置して、ネットで今日の湖の色を確認できればいいのにと思ったりもする。

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1回目。
薄暗いピンクのラックローズ。
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2回目。
濃いオレンジ色のラックローズ。


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3回目。
全く色のないラックローズ。

3回目の湖が紺色だった日、水が枯れていた湖の端の部分がほんのりピンクだった。
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1970年以前、ラックローズは海と繋がっていたそうだが、その後切り離されて湖となった。そして、ある時突然朝起きたらピンクになっていたらしい。ラックローズは世界で最も塩分濃度の高い湖の一つで、1リットルの水から350gの塩をとれる。体が浮くことで有名な死海でも1リットル275gだそう。ピンク色になる詳しい理由は分からないが、この濃度の高さに起因する。
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ただし、すぐ横を掘ると淡水が湧き出てきて魚も泳げる。
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ピンク色になればとても美しい湖らしいが(私は綺麗なピンクを未だ見たことがないので・・・)、実はラックローズは過酷な労働が行われている場所でもある。

ラックローズは西アフリカでも有数の塩の採取場所である。毎年6万トンの塩が採取され、セネガル国内やアフリカ域内、ヨーロッパにまで流通している。
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ラックローズの塩は粒の大きさにより3種類に分けられる。大粒中粒の塩はそのまま販売され、小粒は食用としてヨード加工されて販売される。大粒の塩は昔からの慣習で、妊婦さんや年配の女性が長時間の車移動で足がむくんだ時にお湯に溶かして足を浸けると、むくみがとれると言われているそうだ。ラックローズの泥もまた美容のためのマスクとして使われるらしい。
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今、ラックローズで作業する人々の大半は、ギニアやマリ、ギニアビサウからの外国人労働者だ。かつてはセネガル人がほとんどだったが、2000年頃から外国人が増え始め、身体的にも過酷な労働をセネガル人は放棄し始めて、現在はほぼ全員が外国人労働者という環境にある。ただ、労働は過酷だが稼ぎはよく、一か月で30万セーファー(約6万円)稼ぐ人もいる。セネガルの平均収入と比べたら高い。
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湖に入る前に、男性たちはシアバターを全身に塗り、長い靴下とぴったりとしたズボンを身につける。肌を守るために念には念を入れる。皮膚病だけでなく、脱水や肺の病気を引き起こすこともある。塩の採取作業そのものが過酷なのではなく、塩水の熱さと肌の炎症に耐えることなのである。ラックローズ運営委員会は、週に3日を超える作業を禁止しており、女性が湖の中に入ることも禁止されているが、厳守されていない。むしろ、外国人労働者ということで労働者の保護を後回しにされているのが実態である。彼らもよりよい環境の働き口をいつも探しており、労働者のほとんどは2、3年仕事をして程度貯蓄できたら自分の国に戻って新たなビジネスを始めたりするそうだ。
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こういう話を知ると、ラックローズの観光が少し複雑な気持ちになる。

この記事を一部参照。
http://www.jeuneafrique.com/mag/340296/societe/senegal-lac-rose-forcats-sel/

ラックローズの塩は湖から運び出したものばかりのものはピンク色をしている(写真の右側の山)。しかし数日たつと左のように色がなくなってくる。
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一方で、ラックローズはパリ・ダカールラリーの終点地としても有名だ。パリダカ世代にとっては、ラックローズがピンク色でないと分かっていてもパリダカの聖地に行ってみたいと思うらしい。パリダカは、1978年に始まってから毎年コースが変わり、アルジェリア、チュニジア、リビア、モロッコ、マリなどを通るルートなど様々だったが、ほぼ全てのレースの終点はダカールだった。2007年頃からサヘル地域の治安が不安定になり、ダカールラリーという名前は残したまま南米開催に変更になったが、ラックローズの海岸沿いでは今も時々様々なラリーが行われているようだ。ラックローズでは、パリダカのコースだった海岸沿いの砂丘をピックアップやバギーで走ることができる。砂丘をバギーで走るのは、スリルもあって結構楽しい。
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パリダカが始まって50年の年に、創設者のティリー・サビン氏Thierry Sabineを讃えて設置された記念碑。
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1993年のパリダカのハイライト。



様々な顔を持つラックローズ。いろんな知識を持っていくと更に興味深く楽しめるかも。


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# by iihanashi-africa | 2018-07-15 08:16 | セネガル | Trackback | Comments(0)
カーボベルデ旅行4日目:ミンデロからプライアへ
4日目:ミンデロからプライアへ(ほぼ最終日)


カーボベルデ旅行1日目:シダーデ・ヴェーリャ
カーボベルデ旅行2日目:ミンデロとセザリア・エヴォラ
カーボベルデ旅行3日目:サント・アンタン島のトレッキング


この日はお昼頃のフライトでミンデロへ移動だったので、午前中はミンデロの街がよく見える高いところに行こうと思って宿泊先のマダムに相談したら、車で連れて行ってあげるよと提案してくれた。
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ミンデロはこういう給水タンクが屋上にある家が結構ある。やはり水の確保が厳しい島の特徴。
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港の近くの高台に1852年に建設された要塞がある。1930年には刑務所になり、その後廃墟となっている。イギリスの会社が土地を購入しホテル建設の話があるようだが、まだ始まっていないそうだ。ここからの見る街並みも素晴らしい。
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ミンデロからプライアへ。
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ミンデロの港にも座礁した船が二隻放置されていたが、この辺りは座礁船が多い。
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プライアのあるサンティアゴ島も相当乾燥している。ただ、7月か8月から雨期が始まると一面が緑になるらしい。そういう景色も見てみたいかもなあ。
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プライアのホテルに到着したのが15時半過ぎ。そこからプライアの街を観光し始めた。プライアは半日あれば十分に観光できると書いてあったが、確かにそうかも。大統領府も、裁判所も財務省も、なにからなにまでとってもこじんまりしており、人口50万人の国はこういう感じなのか。
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プライアにいくつかある博物館のうち、考古学博物館に行ってみた。考古学という名前だが展示物は15世紀から18世紀の間のヨーロッパからの船やアフリカ、アジアからの沈没船から発見されたもの。スペイン王国の硬貨や貴重な羅針盤やラム酒などが展示されており、ここに展示されているものは、この博物館に隣接される研究所と協力して発見されたものらしい。しかし、発見されたものがオランダのオークションで高値で買い取られる映像もあり、お宝発見を試みる民間のダイバーもいるようだ。
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スーパーに立ち寄ったらトウモロコシや豆のコーナー発見。カーボベルデの伝統料理カチューパCachupaの具材。ブラジルにも似たような料理があるらしく、まさにミックス文化の賜物。肉や野菜も加えたごった煮だ。これが結構時間がかかる料理らしい。朝食で食べることが多い。ホテルの朝食でも出てきた。
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最初にカーボベルデを発見したと言われるポルトガル人のディオゴ・ゴメス。銅像には何の説明書きもないため、ガイドブックをみないと誰なのか分からない。大統領府の裏手にあり分かりにくく、知らないとここまでたどりつかないかも。
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カーボベルデ旅行最後を締めくくるビール。ポルトガルのビールらしい。
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5日目はセネガルに戻るために朝から空港へ向かったので、旅行記はこれで終わり。

今回の唯一の心残りはカーボベルデ音楽をライブで聞けなかったこと。ミンデロでもプライアでもライブを聞きながら夕食をとれるレストランがあったのに、この時期はハイシーズンではないのか、ミンデロは金曜と土曜しかやっておらず、ほぼ毎日ライブがあるはずのプライアのレストランQuintal da Musicaも、残念ながら1か月のバカンス。それだけは心残りだが、ダカールの自宅で哀愁のあるカーボベルデ音楽をYouTubeで聴きながらワインでも飲むことにしよう。


カーボベルデのお土産たち。
実は今回行けなかった火山の島フォゴ島はブドウ栽培が盛んで、ワインを作っている。ものは試しでハーフボトルを購入。そしてムッシュの同僚にはラムの小瓶。赤い缶はカーボベルデのツナ缶。そしてピンクペッパーとピンクペッパー風味のオリーブオイル。
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いい旅だった。


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# by iihanashi-africa | 2018-07-09 03:45 | カーボベルデ | Trackback | Comments(2)
カーボベルデ旅行3日目:サント・アンタン島のトレッキング
3日目:ミンデロからサント・アンタン島へ日帰り旅行


カーボベルデ旅行1日目:シダーデ・ヴェーリャ
カーボベルデ旅行2日目:ミンデロとセザリア・エヴォラ


カーボベルデ旅行で最も楽しみにしていたのがサント・アンタン島のトレッキング。旅行したことのある方から、サント・アンタン島はミンデロから日帰りで行けると聞いていたので、ホテルを変えるのも面倒だし日帰りで行くことにしたのだが、やはりホテルを変えてでもサント・アンタン島に泊まった方がよかったかも。フェリーの時間を気にしながら観光するのはせわしないし、もう少し滞在時間が長ければ、あと一ヶ所くらいはトレッキングできたかもしれない。ヨーロッパからは6日間のトレッキングに来る方もいるようで、それだけの見どころはあるようだ。

サント・アンタン島は、カーボベルデの島の中でサンティアゴ島に次いで大きい島。といっても南北24km、東西43kmほどだが、この小さい島に標高1500~2000mの山が7つもあり、どれも険しい。興味深いことに、島の北部は湿気があり緑も多く、水も豊富なのだが、南部はサン・ヴィンセンテ島と同じように乾燥しており全く緑がない。ちょうど東西に標高の高い山脈があり、それを境に北と南で自然環境が違うのかもしれない。

サント・アンタン島は、13世紀にはポルトガル人に発見されていたものの、人が住み始めたのは16世紀に入ってから。お隣のサン・ヴィンセンテ島と異なり水は豊富にあるのだが、平坦な土地が全くなく渓谷から次の渓谷に移動するのが大変だっただろう。19世紀になってから道路建設が始まったそうだが、よくもまあ斜面を削って石畳の道路を作ったものだ。島の南のポルト・ノボに港建設が始まったのは1960年になってからだそうだ。北部の街ポンタ・ド・ソルには小さな空港も建設されたのだが、2012年に安全性の問題で飛行機が飛ばなくなり、島にたどり着く唯一の手段はフェリーとなった。だたし、新空港建設も計画中らしい。

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ミンデロの港までホテルから歩いて数分だった。30分前に到着してチケットを購入。フェリーは朝に2本(8時と9時)、夕方に2本(4時と5時)しかない。私たちは9時のフェリーで向かい、5時のフェリーで戻ってくることにした。

真剣に港の方を見る女の子がかわいらしかった。
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ミンデロからサント・アンタン島のポルト・ノボまでは、フェリーで1時間。事前に友人から酔い止めを飲んだ方がいいと聞いており、持参した薬を飲んでおいたので問題なかったが、やはりこの辺りは風が強く、船が揺れる。こうしてビニール袋も配られ、具合が悪くなる方も結構いるみたいだ。


1時間後にポルト・ノボに到着。ポルト・ノボ側の山は緩やかな斜面ではあるが、それでも海からすぐに山になるのが良く分かる。
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サント・アンタン島では、時間も限られるので、ミンデロのホテルで紹介してもらったドライバーと英語のガイドをお願いした。しっかり連絡がされており、皆との出口で待っていてくれた。そこから早速こういう石畳の道をひたすら車で上り続ける。
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ここまで上るとポルト・ノボの街とお隣サン・ヴィンセンテ島がよく見える。こうしてみると、サン・ヴィンセンテ島も山がちだなあ。
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突然山の上に緑が見えてくる。これは植林かな?
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急斜面の段々畑で畑仕事をしている方がいた。
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山の上から眺めたポールという町。写真だと感動が伝わらないが、この景色が突然現れた時は感動なのだが、同時に足がすくみそうになる。
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これからこの山の反対側に回ってあそこを歩いて下りるよと指さしたのが、斜面に見えるジグザグの山道。まさか、、、これは転がり落ちるのか??!!
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コバCovaというクレーターに到着し、トレッキングはここから出発する。
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水を汲みに来ていた給水車。水が豊富な証拠。
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このトレッキングコースは、上りはほんの少しで、あとはひたすら下る。だから初心者でも全く問題ない。ただ、下りだから楽というわけではなく、これが半端なく急なので、途中から膝が笑ってくる。それも乾燥していて砂地は滑るため、石の上を慎重に歩かなければならない。翌日には膝から太ももにかけてが筋肉痛になり、やはり相当踏ん張って歩いていたみたいだ。
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これでどれだけ急斜面なのかが分かるかな。
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写真を撮っていいか聞いたらポーズを取ってくれた農家さん。絵になる。
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段々畑はサトウキビばかり。
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日陰でドライパパイヤとコーヒーを売る女性。ここで購入したドライパパイヤは、その後の空腹を助けてくれることになる。
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サント・アンタン島は、Grogueと呼ばれるローカルラム酒の製造で有名である。トレッキングで下りきったポールという町に、ラム酒製造所があると聞き立ち寄らせてもらった。こうしてサトウキビを絞る。
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これは一昔前の手作業の絞り機。
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それを数日間寝かす。
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そしてこうして熱し、蒸気を冷やして蒸留ラムが出来上がる。
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15分くらいでこの容器が一杯になるそうだ。
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もちろん味見して、小さなラムを購入。ムッシュは日本に持ち帰って一人で家でちびちびと飲んでいるようだ。この日、ガイドをしてくれたカーボベルデ人の男性は、実は数年前までアルコール依存だったそうだ。折角英語の習ったのに、その後数年間は飲み屋で昼間からアルコールを浴びる生活をし、仕事もしていなかった。しかし数年前に人生の伴侶となる女性に出会って一念発起し、家族のために英語を活かして仕事をすることにしたそう。カーボベルデはGrogueというこの40度以上あるラム酒の製造所が点在しており、安く手に入るようで、こうしてアルコールにはまってしまう人が結構いるようだ。昨日のセザリア・エヴォラもそうだった。こういう環境はリスクが高いなあ。。。
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トレッキングの終点のポールという町が岩山とカラフルな家々のコントラストの素敵な場所だった。
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北部のポンタ・ド・ソルに到着。
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ここで、カーボベルデで有名な伊勢海老を食す。これまで二度食べた赤ハタには負けるが、これも味付けが美味しい。


リベイラグランデ近くの渓谷。
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水が豊富なサント・アンタン島。湧き水の出る箇所がいくつかあり、汲みに来る人もいるらしい。
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島は海からいきなりこのような岩がとびだしている。港町ポルト・ノボから島の反対側のポンタ・ド・ソルまで行くには、これまで朝通った石畳の山道しかなかった。標高0メートルから1200mくらいまで一気に登るため大きく蛇行しており、もちろんスピードは出せない。そのため90年代から海側を周回するアスファルト道を建設するプロジェクトが始まった。建設に10年近くかかったらしい。ニューロードと呼ばれるこの道路には二つのトンネルがあるが、それを見ると時間がかかったのが良く分かる。
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フェリー出発の15分前にギリギリ到着し、ミンデロに帰ってきた。
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夜はビールとこれ。Moreiaという魚のフライ。隣のテーブルの方が食べていておいしそうだったので、何かわからず注文した。柔らかくて竜田揚げみたいでとても美味しかったのだが、ブログを書くにあたり、Moreiaを調べたらウツボだったことが判明。ウツボって私食べたことあったかな。

さて、明日はお昼頃に首都プライアへ移動する。


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# by iihanashi-africa | 2018-07-08 06:20 | カーボベルデ | Trackback | Comments(4)
カーボベルデ旅行2日目:ミンデロとセザリア・エヴォラ
2日目:プライアからミンデロへ


午前中にBinterというカーボベルデの国内線で、プライアからサン・ヴィンセンテ島のミンデロMindeloへ移動する。
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ちょっとだけ残念な日本語シリーズ。お・し・い!



1時間もかからずにサン・ヴィンセンテ島のセザリア・エヴォラ国際空港に到着。
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そして空港の前で、セザリア・エヴォラの銅像がお出迎え。セザリア・エヴォラはカーボベルデの国民的歌手で、グラミー賞も受賞している。サン・ヴィンセンテ島に行ったらセザリア・エヴォラ博物館だけは行きたい!と決めていたが、この日は偶然にも他の博物館でもセザリア・エヴォラ展示会が行われており、図らずもセザリア・エヴォラな一日になる。
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サン・ヴィンセンテ島は、東西25km、南北17kmの小さな島。耕作できる土地は全体の2%しかないというカーボベルデの中でも特に乾燥している島である。山がちではあるものの、これだけ乾燥していると水の確保に苦労するもので、海水淡水化プラントが建設されるまでは、隣のサント・アンタン島からタンカーで水を運んでいたらしい。
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水の確保はサン・ヴィンセンテ島だけの問題でもなく、首都プライアのあるサンティアゴ島も同じ。カーボベルデ産のミネラル?ウォーターBonAquaも淡水化された水らしい。これが意外と普通に飲めて美味しい。


ミンデロの魚市場。ダカールで見る魚よりもずっと新鮮に見える。
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ミンデロの街から見える岩山。男性が上を向いているように見える岩らしい。そう言われると、額の傾き加減といい、まつ毛といい、目のくぼみといい、鼻のまるみといい、喉仏といい、男性の顔にしか見えなくなる。
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ミンデロでは、B&Bタイプのホテルに宿泊した。多くのホテルは街中で景色があまりよくなさそうだったのだが、ここはBooking.comでもロケーションと景色の評価がとても高かった。ミンデロはビーチと街並みが素敵と聞いていたので、綺麗なビーチが見えるホテルにしてみた。
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午後にミンデロの街を散歩する前に、ビーチの近くにあるレストランCaravela Mindeloで、また赤ハタを食す。カーボベルデでは魚を食べるに限る。ほんと美味しい。


カーボベルデの数ある島の中でも、サンティアゴ島はアフリカ色が強く、サン・ヴィンセンテ島はヨーロッパ色が強いと言われている。サンティアゴ島は16世紀の奴隷貿易の中心地として長く栄え、その間に多くの奴隷が逃げ出し、彼らが作った村もある。その後、奴隷を中心にサンティアゴ島の人種が形成されていったため、アフリカ色が強いらしい。一方、サン・ヴィンセンテ島は、水の確保の問題もあり19世紀半ばまでほとんど人が住んでいなかった。その後、サント・アンタン島から水を運ぶことで住める土地になり、また大きな船舶が寄港するのに十分な水深があることから、一躍大西洋航路の補給港として栄えることになった。これがヨーロッパ色の強い混血文化の街となった所以だ。

この混血文化が、サン・ヴィンセンテ島に音楽、ダンス、絵画、文学などの多くアーティストを生み出すことになる。毎年2月にはカーニバルも開催され、リオのカーニバルに劣らない華やかさらしく、写真を見るととても行ってみたくなる。

ミンデロの街は、夫に言わせると地中海を思わせるらしい。こぢんまりとした港に小さなヨットが沢山停泊していて、海沿いの通りにはカラフルな家が立ち並び、その奥には岩山がそびえる。The 地中海のイメージにピッタリはまったみたい。それに加えて、ちょっとだけレトロな感じがあり、何とも言えない魅力が心を躍らせる。
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下の写真のパステルピンクの建物は、かつてのポルトガル総督の宮殿。19世紀半ばに建設され、独立後は裁判所として使われた時期もあったが、2015年にミンデロ市に移管さされ、現在は文化イベント会場として使われている。私たちが訪問したこの日は、西アフリカ芸術展とセザリア・エヴォラ展が開催されており、両方見学したらお腹一杯になってしまった。西アフリカ芸術コレクションも素晴らしかったが、やはりセザリア・エヴォラという人を深く知ることができたことがミンデロ散歩の大きな収穫。
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セザリア・エヴォラという人


セザリア・エヴォラCesaria Evoraは、1941年にミンデロで生まれる。父はギタリスト、母は白人宅の料理人をしていたが、兄弟も多く裕福な家ではなかった。子どもの頃に教会の孤児院で過ごした時期に、エヴォラはコーラスを習い、日曜日になるとサックス奏者の兄と街の広場で歌を歌っていたそうだ。

16歳の時、船乗りでギタリストのEduardoに出会い、彼からモルナMornaなどのカーボベルデ音楽の伝統スタイルを学び、ホテルやバーで歌い始め、その頃から「モルナの女王」と呼ばれるようになっていった。20歳ころには、カーボベルデ全土で有名になっていたが、海外での認知度はまだ低かった。

1975年、カーボベルデはポルトガルから独立する。この頃すでに彼女の名声は高かったが、依然として財政的には厳しく、独立後のカーボベルデの政治的・経済的困難も相まって、歌っても家族を養えなくなり、その後10年間歌うことをやめてしまう。この間、アルコール依存になってしまい、依存症と戦うことになる。

そしてカーボベルデの独立10周年記念の折に、説得されてポルトガルでアルバムを収録し、それから少しずつ歌を再開し、アルコールからも脱却していく。

その更に7年後、リスボンで彼女の歌を聞いたフランス人Jose da Silva(母親がミンデロ出身)が、彼女を説得してパリでアルバムを収録した。そのファーストアルバムが『La Diva aux pieds nus(裸足の女神)』である。昔から裸足で歌うのが彼女のスタイルで、そこからタイトルが付けられている。その後も何枚かアルバムをリリースしているが、1992年のアルバムに含まれる『Sodade』という曲が世界的にヒットする。1999年には『Vos D’Amor』でグラミー賞のワールドミュージック最優秀アルバム賞を受賞した。

『Sodade』の動画






2011年、健康上の都合で引退を発表したが、その数か月後の2011年12月17日にミンデロのホテルで生涯を閉じた。カーボベルデ政府は、3日間の追悼を発表し、国葬が行われている。そして2012年には、ミンデロの空港が、セザリア・エヴォラ国際空港と命名された。セザリア・エヴォラの自宅も政府が買い取り、セザリア・エヴォラ博物館となっている。小さいけれど、説明書きが詳細で、彼女の音楽も聴けるし、昔の映像も見られる。私たちが行ったときはのんきに玄関を掃除中で、しばらくのどかにその掃除を眺めることになる。
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セザリア・エヴォラは、動画や写真を見ると、垂れ目で声も柔らかく、動作もゆったりしているので、とても穏やかそうに見える。でも彼女の人生を深く知ると、一時はアルコール依存になり、ヘビースモーカーで、さらに金のアクセサリーが好きなど、意外と豪快で荒れた人生だったのかもしれない。偏見かもしれないけれど、魅力的なミュージシャンには結構こういうやさぐれ感を持った人が多く、こういう方が年を重ねると達観した落ち着きがあり、さらに魅力的になる気がする。

下の写真は、ポルトガル総督の宮殿で行われていたセザリア・エヴォラ展の写真。これはセザリア・エヴォラの親しい友人だった方のコレクションらしいのだが、プライベート写真が多く、博物館とは異なる面白さがある。
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この日は終わってみれば、セザリア・エヴォラがメインの一日だったかも。芸術の島サン・ヴィンチェンテ島ならではの楽しみ方で、充実感たっぷり。

そして最後はビールを一杯。
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明日は、楽しみにしていたサント・アンタン島のトレッキングへ。



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# by iihanashi-africa | 2018-07-04 08:02 | カーボベルデ | Trackback | Comments(2)
カーボベルデ旅行1日目:シダーデ・ヴェーリャ
世間はワールドカップ一色で、しかもセネガルと日本が同じグループでヒートアップしているというのに、セネガルにいる私は、この日、海外旅行に出かけた。もちろん結果は気になるので、旅行中も携帯で経過を確認していたが、サッカーはライブで見ていると心臓に悪いし、携帯で確認するくらいが私にとってはちょうどいい。で、あとから得点シーンだけ見て楽しむ。ということで、サムライブルーをおいて、旅行を楽しんできた。

セネガルに滞在している間に一度行きたかった国、カーボベルデ。日本からわざわざこの国を目指して旅行するには遠すぎるが、セネガルからだったら飛行機で1時間だし、行ったことがある方は誰もが口を揃えてよかったと語るので、どうしても行ってみたかった。日本から相棒もやってきた先週、4泊5日で旅行してきた。

カーボベルデを旅行するにあたり、ガイドブックを探したが日本語のものは存在しない。英語と仏語のガイドブックも購入したが、文字ばかりで読むのが疲れてしまう。あとからこれらのガイドブックもかなり役に立ったのだが、最初にカーボベルデのイメージをざっくりとつかむのに、様々な日本人旅行者のブログがとても参考になった。なので、私もこれから旅行する方々の参考になるように少し旅行記っぽく書いてみようと思う。

アフリカ大陸の最西端はセネガルなのだが、その更に西にカーボベルデという島国がある。アフリカ諸国の中でもっとも西に位置する国である。
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カーボベルデの国旗に黄色い星が10個描かれているが、カーボベルデが10の島からなる列島であることを意味する。興味深いことに、それぞれ自然環境が異なり、住む人々や島の文化も変化に富んでおり、島を移動するたびに新しい発見をする。
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今回は、3つの島を訪れることした。首都プライアのあるサンティアゴ島芸術の島サン・ヴィンセンテ島緑豊かで岩山のような島サント・アンタン島。この他にも火山とワインの島フォゴ島や、美しいビーチに囲まれた島サル島など時間があれば行ってみたいところは多かったのだが、今回はサント・アンタン島のトレッキングとフォゴ島火山の登山とを天秤にかけて、トレッキングを選んだ。最初に書いておくと、私にとってのカーボベルデの最大の魅力は、海からにょきっと出た岩山と、深い谷間と、急斜面に作られた砂糖キビやトウモロコシの段々畑と、その自然の色の中に映えるカラフルな家々のコントラストかなあ。それを楽しむにはやっぱりトレッキングがいいと思った。時間があったらもう少しサント・アンタン島にいたかったかも。
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1日目:ダカールからプライアへ

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セネガルの首都ダカールとカーボベルデの首都プライアは、週に3便直行便が飛んでいる。TransAirというセネガルの航空会社。チェックインする際に窓側の席をお願いしたら、「このフライトはFree sittingです」という。アフリカでも15年くらい前は自由席のフライトはまだ結構存在したが、最近はなかなか見かけない。それも国際線で自由席などこの時代なかなかない。と、こんな会話を夫としながら搭乗券を受け取ったらシートナンバーが書いてあるではないか。自由席と言いながら良く分からない。私たちは結局シートナンバー通りに座ったが、そうでない人もいたようでやっぱり自由席というのは正しかったみたい。


ダカールからプライアまでは1時間ほどのフライト。
着陸直前に首都プライアの街がちょうど綺麗に見えた。
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プライアの中心街プラトー地区は高台にあると書いてあったが、それがとてもよく分かる写真が撮れた。
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空港に着いた瞬間から、普段サブサハラアフリカ諸国で感じるなんというか騒々しいガヤガヤした雰囲気がなく、建物や機材がキレイでタクシーもキレイで、なんか「アフリカ」ではないと感じる。

実はこの旅行の2日前、友人とカーボベルデのビザの話題になり、もしかしたらカーボベルデ出発前に大使館でビザを取得しなければならないのではないかという不安にかられた。帰宅後もう一度ネットで調べ、やはりon arrivalでも取得できることは確認しながらも、ちょっとだけ不安は残っていたが、到着後、空港で一人25ユーロを支払い、全く問題なくon arrivalでサクサクっと取得できた。ほっ。

あと空港のパスポートコントロール後に、黄熱病のイエローカードも確認された。最近セネガルでも空港でイエローカードを確認するようになり、夫に黄熱病の予防接種を受けてきてもらったのだが、セネガル入国時には結局チェックされず、やっぱりいらないんじゃないみたいな話をしていたところに、まさかのカーボベルデ入国時にチェックされるというサプライズ。ここで必要だったかー。受けてきてもらってよかった。おそらくヨーロッパから直接来る人は必要ないのだろうけれど。。

この日は日曜日。市内は開いている店などなく閑散としているということだったので、ホテルで少し休んで、昼からプライアから車で30分ほどのシダーデ・ヴェーリャCidade Velhaに行くことにした。
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到着後、まずは腹ごしらえ。
プライアのホテルのレセプションで教えてもらった魚が美味しいレストランTereru di Kulturaの店頭でまずは魚を選ぶのだか、どれが美味しいか分からないため、お勧めと言われた赤ハタ(Garoupa)とタコを注文した。
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そして料理されたハタが出てきて驚き。ものすごくふんわり柔らかく、みずみずしい。こんなに美味しい魚はセネガルで食べたことがない。ダカールも同じように魚がとれるはずなのに、この新鮮さの違いはどこからくるのだろう。
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料理が出てくる前に、女の子が売っていたトウモロコシの揚げパンのようなものも食べたのだが、これも噛むとトウモロコシの甘い味がしみだして結構おいしかった。なんという食べ物なのだろう。。。


さて、シダーデ・ヴェーリャを観光する前に、カーボベルデの歴史を少し知っておく必要がある。多くの歴史的書物には、カーボベルデは1444年にポルトガルの冒険家が発見したと記述されている。それまでは無人島だったらしい。しかし、アラブ人の冒険家がその前に来ているとも、アフリカ大陸のウォロフ族やレブ族が来ているともいわれ、本当のところは良く分かっていないようだ。

1462年、ポルトガル人がサンティアゴ島に到達し、リベイラ・グランデという都市を創設した。現在のシダーデ・ヴェーリャである。16世紀には黒檀、綿生地、砂糖キビの商業が発展しだし、加えて奴隷貿易の中継地として栄えることとなる。ヨーロッパとアフリカとブラジルの三角貿易がこの頃発展するのだが、この歴史を知ると、カーボベルデにラテンの雰囲気を感じる理由が分かる。アフリカでもないけれどヨーロッパでもないこの雰囲気は何だろうと不思議に思っていたのだが、様々な混血の人々やカラフルな建物やサルサに近い音楽など見聞きすると、様々な面でラテンを感じることに気付く。無人島だったところに3つの大陸の文化が混ざるとこうなるのかと、新たな発見だった。

さて、少し脱線したので話を戻すと、1770年に首都がプライアに移されるまで中心地だったリベイラ・グランデ(現シダーデ・ヴェーリャ)は言ってみればカーボベルデ最古の都市である。海賊に何度も攻撃された経緯もあり、城塞跡や大聖堂、奴隷マーケット跡は、当時ほとんど破壊されてしまったが、ユネスコの世界遺産に登録されたことで、城塞の再建や教会の修繕などが行われている。

Nossa Senhora do Rosario教会
シダーデ・ヴェーリャで最も古い現存建築物。1495年に建設されている。サブサハラアフリカでは珍しいゴシック様式なのだそうだ。
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ペルリノPelourinho広場のさらし台
16世紀の奴隷貿易が盛んだったころ、この広場は奴隷マーケットとなり、命令に背いた奴隷をさらし刑に処す場所でもあった。知らないと見過ごしてしまいそうな小さな大理石の塔なのだが、シダーデ・ヴェーリャを語る上でとても重要な建造物で、最初に修復されたのだそう。
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大聖堂跡
西アフリカ最初の大聖堂として1556年に建設が始まったが、教権支持派と王制側の関係悪化で建設が滞り、完成したのは1700年になってかららしい。しかし、完成したのもつかの間、度重なる海賊の攻撃ですぐに衰退してしまった。
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シダーデ・ヴェーリャの街から見上げると、崖のすぐ上にレアル・デ・サン・フィリペ要塞が見える。
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この要塞は、1585年のイギリス人海賊の攻撃を受けて、街を守るために建設が始まった。水を溜めるタンクや階級分けされた兵士の部屋の跡、奴隷の部屋などが今でも分かる。この要塞にはきれいな英語を話せるガイドがおり、この説明がとてもいい。説明がないとなんのこっちゃ分からないドームも、とても貴重なものに見えてくる。
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奴隷の部屋の跡。
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要塞のすぐ下はシダーデ・ヴェーリャの街。こうしてみると、海からの攻撃を発見しやすい環境にあったのがよく分かる。大砲も当時のもの。
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当時要塞は、海側にしか壁がなかった。海賊は皆、海から攻撃をしてくるのが常だったから。しかし、その裏をかいたのが、フランスの海賊ジャック・カサールだった。彼らは陸地に入り込み、要塞を裏から攻撃し、要塞はもちろんのこと街全体が崩壊した。この裏側の壁は修繕工事で新たに建設されたのだそう。
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シダーデ・ヴェーリャの当時の名前リベイラ・グランデは、ポルトガル語で大河という意味。これがその名前が付けられた所以。相当大きな河だったのだろう。
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崖をよく見るとこうして横に線が入っている。これは浸食防止のためアロエベラが植えられているそう。
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これが植えられたアロエベラ。
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反対側の高台に大きなヤシの木が一本立っていた。これ、携帯の電波塔らしい。景観を乱さないようユネスコの提案でヤシの木を模した形になった。他にも、中学校が高台に建設されたり、ホテルは街中から少し離れたところに建設されたりと、世界遺産となった街が当時のまま残される形になっている。

シダーデ・ヴェーリャの街中は、道路も家も石がベースで、とても風情がある。歩いて散歩するだけで気持ちがいい。特にバナナ通りと呼ばれる小道があり、かわいらしい。
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人々の生活ものどかだ。
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ほんの3時間程度の外出だったのだが、見どころ盛り沢山だったなあ。

夜は夕食ともとらずにホテルで爆睡。
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明日はサン・ヴィンセンテ島へ移動する。



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# by iihanashi-africa | 2018-07-03 08:21 | カーボベルデ | Trackback | Comments(0)
アブジャのナショナルモスク
ナイジェリアの首都アブジャは計画都市である。1976年に、首都を南部のラゴスから中部のアブジャに移動する決議がくだされ、その後からアブジャの都市開発が始まり、最終的に1991年に正式にアブジャが首都として機能し始めた。

アブジャは地図を見るとナイジェリアのちょうど中心に位置するのだが、かつては広い意味で「北部」と捉えられていたらしい。そのため、首都の移動は、キリスト教徒の多い南部とイスラム教徒の多い北部の調和を促すどころか、ムスリム色を強めて亀裂を深めてしまう恐れがあった。現に、新しく建設された国会議事堂はモスクのようなドーム型の形をしており、当時は多少なりイスラム色を強めてしまったと表現されている。

政府はなんとかイスラムとキリストの融和を都市計画に反映すべく、意図的に中心部にナショナルモスクとナショナル教会を建設している。モスクと教会は、アブジャ市内を南北に走る大通りを挟んで、モスクが北側に教会が南側に位置するように建設されている。モスクのミナレットと教会の鐘楼はほぼ同じ高さになっているらしい。

前回のナイジェリア出張中は、モスクしか訪問できなかったので、とりあえずモスクの写真のみ。サウジアラビアのファイナンスで建設されたらしいが、かなり大きい。人が写っている写真だとその大きさが分かるだろうか。

女一人で訪問したので、入場拒否されないかちょっとドキドキしたが、しっかりスカーフを巻き、イスラム女性になりきって管理人に話しかけたら、快く案内してくれた。もともとイスラム教徒でなくても入場可能という情報は入手していたが、やはり入るまではドキドキする。
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教会は、週末にイベントが多く、見学は不可ということで、遠くからの写真のみ撮影できた。平日なら見学できるみたい。次回は行ってみたいな。
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# by iihanashi-africa | 2018-06-22 07:57 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
ナイジェリアの現代アート
ラゴス市内は人工的に作られた都市のため、観光できるような場所は少ない。5月の出張では、飛行機の関係で土曜日が1日空いたので、どこかに行こうと思い、様々なワードを組み合わせてネット検索し、唯一興味を持てたのがThought Pyramid Art Centreというミュージアム。2017年11月にオープンしたばかりの新しいミュージアムだそうだ。
http://thoughtpyramidart.com/
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全ての作品にアーティストの名前が書かれていなかったのが残念なのだが、とても素敵な絵画が多々あった。
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帰り際、入口近くの本棚をあさっていたら、たまたま手にした『Zaria Art Society』というタイトルの画集に釘付けになった。買おうか迷ったが、さすがに重すぎると断念。後で調べて、ナイジェリア現代アートに大きな影響を与えたアーティストグループであったことが分かった。ナイジェリア北部のザリアという都市の大学の学生16人により、1955年に形成されたザリア・アート・ソサイエティ。これよりもずっと前からナイジェリアアートの歴史は始まるが、このグループにより、西洋美術に影響されないナイジェリアアートのイデオロギーが確立されたと言われているらしい。このグループは数年後に、ナイジェリア各地のアーティストと協議の場を持ち、全国組織となるThe Society of Nigerian Artists(SNA)が設立された段階で解散している。

ナイジェリアアートは本当に奥深い。私自身は、ナイジェリアのマスクから関心を持ち始めたが、絵画も底知れない奥深さである。

宿泊したホテルにも素敵な絵画が飾られていた。写真だと大きさが分からないが、かなりの大きさなので、実際はとても迫力がある。
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# by iihanashi-africa | 2018-06-21 06:17 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
祖母の生涯
祖母が静かに息をひきとったと連絡がありました。

1ヶ月くらい前から入院しており、数日前に会話が難しくなったと連絡が入っていたので、もう長くはないかもしれないと覚悟はしていたのですが、やはり息をひきとったと聞くと、胸が熱くなります。

何が悲しいって、こういう時にすぐに帰れる国で働いていないこと。入院していた時も会いに行けないし、葬儀にも出席できない。悲しいというよりも悔しいという思いで涙が出てきます。


祖母は98歳でした。

1か月前に入院するまで、週3回デイサービスに通っていました。昔から足腰は強く、シルバーカーを押しながらゆっくりと転ばないように気を付けながら自分の足で歩いていました。最後の最後まで寝たきりにならず、そしてしっかり会話をもでき、私と同じくらいの食事の量をしっかりととり、本当に元気な祖母でした。

さっきから過去に遡って祖母の写真を眺めているのですが、とても印象的な写真がありました。2014年の写真で、祖母は当時94歳。算数や漢字の問題を解いていました。デイサービスのアクティビティらしいのですが、祖母はそれにはまり、私が夏に帰省した時も冬に帰省したときも熱中していました。祖母のすごいところは、ボケないように、歩けなくならないように、自ら自分に課題を課すところ。こういう演習問題もそうですが、毎日1回必ずシルバーカーを押しながら駐車場を何周するとか、はあはあ言いながらも実行していました。尊敬に値する意志の強さでした。
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祖母が93歳の時、昔の話を詳細に聞き、簡単な自叙伝をブログにアップしました。ほぼ全て祖母の言葉をそのまま使って書いたのですが、今読み返すと93歳がここまで語れるってすごいなあと改めて感動です。
祖母の自叙伝1:誕生~蚕業学校
祖母の自叙伝2:教員時代~青年学校時代
祖母の自叙伝3:満州~父誕生


祖母は、料理が上手な人でした。
祖母のきゅうちゃん漬けは、一人暮らしの時にいつも持って帰っており、レシピを母が書いてくれていたので、それを見ながら2、3回作ったのですが、祖母のような味にはならず、まだまだ今後も修行が必要です。

祖母は、慎重な人でした。
私が東京へ戻る時、必ず「忘れ物はない?」と聞いてくれました。車に乗るときは、ほんの1kmの距離の運転でも、必ず「大丈夫?気を付けてね」と、やめた方がいいよくらいの勢いで言ってくれました。慎重すぎて若い頃は鬱陶しく思ってしまうこともあったのですが、最近はそれが愛情だと思えるようになっていました。


家族に長生きという希望を残してくれた祖母。
小さい頃からこれまで本当にありがとう。
祖母の魂はセネガルまで会いに来てくれるかな。



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# by iihanashi-africa | 2018-06-17 10:20 | 日本 | Trackback | Comments(2)
ラマダン中とラマダン明けの食事
今日はラマダン明けの休日だった。

今年セネガルでは5月17日に断食が始まり、昨日6月14日がラマダン最終日となった。そして今日はラマダン明けの祭り。

ラマダンの話はこれまで何度も記事にしており、読み返してみると年々情報に深みが増すのが分かる。2007年の記事を読むと、あ~この頃はこんなことも知らなかったかと若々しさを感じてしまう。

セネガルにおける今年のラマダン明けの日付の決め方(2017年のラマダンの話)
ラマダン前日の月(2017年)
ラマダンが明けましておめでとうございます(2012年)
断食明けの祭り(2007年)

セネガルでの私の勤務先は、周囲が全員セネガル人で、外国人は私だけ。普段のランチはアジア系のテイクアウトをオフィスで食べるのだが、ラマダン中はさすがに同じ空間にいるイスラム教徒の同僚の前では食べにくい。だからといって近くにレストランはない。そのため、私もプチ断食を決行。朝出勤前にいつもよりもしっかり朝食をとり、オフィスでは食事をせず(水だけは飲んでいたが)、帰宅後すぐに食事をするという、イスラム教徒にとってみればエセ断食。イスラム教徒でない私がこんなことをして神を冒涜しないか考えたが、興味本位で断食している訳ではなく、同僚へのささやかな配慮なので、大丈夫かなと勝手に納得している。それに、一緒に断食していると、セネガル人も「Tu nous accompagnes!(合わせてくれているのね)」と喜んでくれるのもちょっと嬉しい。

**********

ちょうど2週間前の週末、ラマダン中にプレゼントするパニエ(食材を詰めだカゴ)を持って友人宅を訪問した。友人の家の前に簡易なサッカーコートがあるのだが、ラマダン中は夜中にこのコートに集まって走る若者が大勢いるらしい。へーー、ラマダン中はやっぱり夜になって元気な時にサッカーするのかと思ったら、お腹に入れたものを早く消化させてもっと食べるために走っているのだそうな。

ラマダン中は、日没後すぐに食べる食事を「朝食」と呼ぶ。セネガルではンドグNdogouと呼ばれる。まずは、ほぼ世界共通だと思うがデーツ(ナツメヤシの実)を食し、その後はその国々の食習慣で違うようで、セネガルはフランスパンにチーズやハムやソーセージ(もちろん豚肉ではないもの)を入れて食べるのが慣習らしい。ラマダン中は、午後4時頃からパン屋に行列ができる。

2週間前、友人宅に行くために電話をしたとき、来るならンドグの時間に合わせておいでといわれ、夕方5時過ぎに到着した。

まず、デーツを食す。
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そして、ンドグの時間。まさに普段の朝食のように、コーヒーあるいは紅茶とパン。外が暗い中での朝食はとても不思議な感覚になる。
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私はこの後帰宅したが、彼らは午後7時半に朝食をとり、その後午後10時か11時頃にしっかりとした食事をとる。そういえば去年のラマダン中はこの遅い食事を一緒にとったので、その時の写真をアップ。私の最も好きなセネガル料理、白いチェブジェン。
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ラマダン明けの今日は、朝起きるとまず、デーツを奇数数食すそうだ。そしてお祈りをしてから、食事が始まる。私は、午後1時くらいに友人宅に到着し、まず「これは前菜だから」といって出されたのが、これ。どう見てもメイン。
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その後、メインはいつ出てくるのかと心待ちにしながら、一緒にワールドカップの試合を見たり、雑談をしていると、あっという間に午後6時。結局夕食の時間になり、やっとメインかと思ったら、前菜とほぼ同じメニュー笑。でも羊のグリルがナイフなしで割けるほどに柔らかく美味だったので、もう一回食べたいくらい。
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さて、今年のラマダンも終わり。来週からいつもの食スタイルに戻ることにしよう。


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# by iihanashi-africa | 2018-06-16 10:23 | セネガル | Trackback | Comments(0)
守られない分刻みのアポ
これまでダカールには車検を行えるセンターが一ヶ所しかなかった。毎日、結構待っても数センチしか動かないような渋滞が発生しているこのダカールで、である。一説には30万台の車がダカール市内を走っていると言われるが、車検センターが一ヶ所しかないというのがダカールの車所有者の悩みの種だった。単純計算すると、1日500台以上の車検を行わなければならない形。まあもちろん、車検を受けない車も多く、500台が一気に集まるわけではないが、ハン地区にある唯一のセンターは、毎日早朝から車検を待つ車の渋滞ができており、予約なしでセンターに行くとどれだけ待たされるか分からない。

しかし、今年1月に、ダカールのンバオ地区に二つ目の車検センターが設置された。この二つのセンターが、大都市ダカールの車全てをカバーできるかというとそれも甚だ疑問で、2か所設置された現在もなお、センター横の長蛇の列は完全には解消されない。ただ、1ヶ所よりは2カ所あった方がもちろんありがたく、加えて全てのタクシーと8年以上の車は、ンバオの車検センターに行かなければならないという規則ができたため、少しだけ待ち時間が減った。


さて、先日、仕事で使用する車の車検を行うために、ハン地区の車検センターにアポをとった。電話をしたアシスタントが、「アポは今週金曜日の10時24分になりました」という。「は?24分???」ときょとんとした私に、アシスタントは「私も間違いかと思ったのですが、確認したらやはり10時24分と言われました」と話す。こんな分刻みのアポは初めてである。

24分という時間を設定してくるからには、どれほど分刻みの仕事をしているのかと思いきや、案の定、運転手は1時間待つ羽目になる。まさかセネガルで24分ぴったりには始まらないとは思ったが、最近は会議も時間通りに始まることもあるし、もしかしたら車検も10分くらいの遅れで始まることもあり得るかもという期待は多少あった。だが、大いに期待を裏切ってくれ(笑)、余裕の1時間の遅れ。分刻みのアポは一体何の意味があるのだろう。。。


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# by iihanashi-africa | 2018-06-14 05:37 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ダカール・ビエンナーレ2018
最近書きたいネタが列をなしており、時間が全然足りない。
ナイジェリアの話題も終わってないのだが、忘れないうちに一つダカールネタを。

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5月3日から6月2日までアフリカ現代アートのビエンナーレBiennale Dak'Artが開催されていた。今年で13回目。1990年に実施された第1回は文学に特化していたが、1992年の第2回に現代アートに限定され、1996年からアフリカ現代アートの祭典となったらしい。


初代セネガル大統領のサンゴールは作家でもあり、芸術に造詣が深く、多くの芸術家に奨学金を与えたと言われている。彼が大統領の時代に、一度アフリカンアートの祭典Festival Mondial des Arts Nègresを開催したが、長続きしなかった。その後、アブドゥ・ジュフ大統領の時代に芸術家が声を上げ、やっと1989年に開催が決定した。

毎年テーマが決められるのだが、今年は『L’heure Rouge(red hour)』。2008年に亡くなったマルティニーク出身の詩人エメ・セゼールの詩の表現で、「自由」を意味する。

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ダカールのビエンナーレには「IN」「OFF」があり、INはコンペに出展されたり招待された芸術作品が委員会の予算で展示され、今年は6カ所が公式会場となっていた。OFFは登録するだけで特に予算支援はないものの、様々な芸術家たちが自身のアトリエやその他の場所で作品を展示する。今年、INは33か国から75名のアーティストが参加しており、OFFは250の会場で行われていたらしい。


現代アートは、説明がないとあまり良く分からないものもあり、会場に入って何の説明もなく「はい、感じてください」みたいに放り出されても、う~~~んと数分考えてやっぱり何も感じられないこともあり難しい。それでも、見た瞬間に「あ、私これ好き」とどこか自分の感覚とぴったりはまるものもある。

私は、全ての会場に足を運べたわけではないが、コメントくださったDiawさんのお勧めも聞きながらいろいろと回ったので、撮りためた写真をアップしよう。

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# by iihanashi-africa | 2018-06-13 06:41 | セネガル | Trackback | Comments(2)
アフリカ文学の父、アチェベの『崩れゆく絆』
以前、チママンダ・アディーチェの『アメリカーナ』という本を紹介した。アディーチェはナイジェリア出身。この記事の中で、英語アフリカ文学の父、チヌア・アチェベについてちらっと触れたが、ナイジェリア出張するにあたり、またナイジェリア気分になろうと、アチェベの本『崩れゆく絆』を本棚から取り出した。以前も読んだのだが、少し経つと内容をすぐに忘れてしまう私。ナイジェリアの知識が少しだけついた今、もう一度読んでみようとカバンに入れ、出張の往復の飛行機で読み終わった。

ものすごく素朴で簡潔な文章なので、すんなりと読み切ることができ、とても読みやすい。シンプルなのだが奥深い小説である。主人公オコンクウォは努力家で野心家で責任感があり、皆から一目置かれる存在。しかし口下手で家族にも思いをうまく伝えられず、時に怒りがコミュニケーションのツールになってしまう。それが威厳を保つ手段ともなるのだが、家族は主人の気持ちを察して行動する。昔の日本の俺の背中をみて育て的なまっすぐなおやじとちょっと重ねてしまったが、置かれている社会が違うとこの実直さと野心が悲劇を呼ぶ。
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訳者でもあるアフリカ文学者の粟飯原文子さんの前書きと解説も興味深いので、引用しながらご紹介。

チヌア・アチェベは『アフリカ文学の父』と呼ばれ、彼の小説『崩れゆく絆(Things Fall Apart, 1958)』はしばしばアフリカ近代文学の原点、あるいは起源として位置づけられてきた。むろん、アチェベが文字通りの意味でのアフリカ文学の創始者ということではない。アチェベ以前や同時代には、重要な作家や詩人が多く存在した。[・・・] ではなぜ、1958年のアチェベの小説がアフリカ文学の「誕生」と結び付けられるのか。

 たしかに、世界の至るところでこれほど読まれ、論じられ、影響力をもち、名声を勝ちえたアフリカ文学作品は『崩れゆく絆』をおいてほかにないため、このことは当然のようにうけとめられがちである。しかし実のところ、ここにこそアフリカ文学を語る際に立ち返るべき根本的な問いがある。すなわち、「いかにアフリカを書くのか」、「アフリカの文学はどうあるべきか」という文体や形式、主題にかかわる問題であるが、アチェベが「アフリカ文学の父」たるゆえんは、まさしく彼こそがそれまでの揺らぎと迷いに対して決定的とも言える方向性を示しえたからだと言える。小説と言う西洋近代の表現形態、いわばアフリカにとって外来のジャンルを用いてどのようにアフリカの歴史過程に応えるか、というひとつの道筋を創り出し、アフリカ人作家による文学を「アフリカ文学」たらしめる礎を築いたのが、ほかでもないアチェベであったのだ。」

「アチェベが大きな情熱と怒りをもって取り組んだのは、作られた「暗黒大陸」というイメージに対する文学での批判的応答、言い換えるなら、小説という手段をつうじて、暴力的にはく奪されてきた歴史と人間性をアフリカに取り戻すことだった。と同時に、植民地支配のもとで、アフリカ人自らが忘却し、喪失してしまった「過去」を、ふたたびアフリカ人に呼び覚まそうとする試み―アチェベ自身の言葉で言えば「再教育」と「再生」―でもあった。

 しかしそれは、単に古き良き時代の社会と文化を賛美して、失われた過去と理想郷を哀悼する態度ではない。たとえばオコンクウォは悲劇の主人公ではあっても、多くの欠点をもつ人間であり、同じく、ウムオフィア社会もあらゆる問題を抱えている。[・・・] それは過去への挽歌である以上に、アフリカ独立の時代の前夜に、きたるべき未来を見つめる新たなアフリカの想像力となったのだ。」

アチェベは、1960年代のビアフラ戦争の際に、ビアフラ側のスポークスマンだった。この中央政府からの分離を掲げた戦争を契機として、アチェベの信念が大きく揺らぎ、その後20年間小説を書かなかったらしい。「再度小説に取り組むにはーナイジェリアとは、国家とはなにか、という重い問いにもう一度正面切って向き合うにはーかなりの時間を要したのだろう」







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# by iihanashi-africa | 2018-06-02 05:53 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
エグシメロンの畑
5月初めにナイジェリアの農家さんの畑を訪問した際、ちょうど雨期が始まったばかりのこの時期に、播種したばかりの畑を見かけた。
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こういう光景を見て、まず思い浮かぶ作物は、トウモロコシソルガム(モロコシ)ミレット(稗)の畑。これはサヘル地域の畑ばかり見ている私の感覚。
ソルガムの写真:穀物の収穫時期(男性の仕事)
ミレットの写真:穀物の収穫時期(女性の仕事)

サヘル地域は、最初の雨が降るとこうして穀物を播種する。これはブルキナファソ北部の写真。
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       偉大な伝統農法


ナイジェリアの畑もトウモロコシか何か穀物だろうと思っていたら、実はエグシメロンの畑だった。


前回、ナイジェリア料理一覧の記事でエグシスープを紹介したが、そのエ・グ・シである。エグシも穀物と同じような間隔で播種するらしい。

これがエグシメロンの実。昨年の7月に撮った写真。
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どう見てもメロンにしか見えない。色も形もメロンで、違いと言えば少し小さいくらいだろうか。中身は、白くて乾燥している。メロンのようにみずみずしく甘い果肉はない。このエグシメロンは、中の種を食べるために栽培されるのだ。種はメロンよりもずっと大きいく、どことなくカボチャの種に似ている。
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この種をつぶして、ペースト状になったものを様々な味付けをしてスープにする。とてももったりしていてお腹にずしっと溜まるが、とても美味しい。スナック感覚でポリポリと食べることもあるらしい。ナイジェリア以外に、ベナンやガーナ、カメルーン、トーゴでも食べられるらしいのだが、カメルーンでは食べた記憶がないなあ。
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ナイジェリアはエグシメロンを40万トン弱生産している。ナイジェリアの人口からしたらそれほど多いとはいえないが、重要な家庭の食材の一つとなっている。

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# by iihanashi-africa | 2018-06-01 06:24 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
ナイジェリア料理一覧
これまでのナイジェリア出張で出会ったローカルフードをまとめてみることにする。私のナイジェリア知識は全て短期間の出張から得られてものなので、実際はもっとずっと奥深いと思うのだが、とりあえず私の知る範囲でリストアップしておこう。

今までの各国料理記事。
ブルキナ料理一覧
ニジェール料理一覧

ナイジェリア料理は、基本的に「辛い」
ライスもソースも何もかもが基本ピリ辛。セネガル、ブルキナ、ニジェールの料理は、もともとのベースはほとんど辛くなく、横にトウガラシがついている。みなさん意外と辛さが苦手だったり、健康のためにトウガラシを食べていないという方もいる。しかし、ナイジェリア料理はベースから辛いため、ちょっとの辛さも苦手な方には拷問かも。ただ、ベースは激辛ではなく「ピリ辛」なので、プラスアルファでトウガラシを入れない限り、十分に美味しく食べられる。

ナイジェリアで最も多く食されるベースの食材はイモ類とコメ、それとプランテンバナナ。特にイモ類の豊富だ。ナイジェリアのカウンターパートと食事をした際に、「あなたもスワロを食べるか?」と聞かれた。何のことかと思ったら、英語のSwallow、つまりたやすく飲み込めるものということで、全てのPounded thingsを総称してスワロと呼ぶらしい。正確にはPoundedしたものではないアマラやガリも含めるのだが、餅みたいに喉越しよく飲み込めるものは「スワロ」らしい。スワロの大半はイモ類とプランテンバナナである。

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「フフ Fufu」
蒸かしたヤムイモやキャッサバ、プランテンバナナを餅のようについたもの。様々なソースと共に食べる。これは西アフリカ諸国で広く食べられており、ブルキナではフトゥと呼ばれていた。


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「アマラ Amala」

見た目はフフと似ているが大きな違いは、フフは餅のようについて出来上がり、アマラはドライヤムあるいはドライキャッサバ、ドライプランテンバナナから作るということ。ドライしたものに熱湯を加えて練り込む。乾燥させると黒く変色するため、見た目も黒っぽい色になる。写真はキャッサバのアマラ。ヤムイモやプランテンバナナよりも粘り気が強く、発酵しているため酸味がある。もちろん、様々なソースと共に食べる。



「ガリ Garri」
キャッサバを乾燥させ粉状にし、2、3日かけて発酵させた後、大きな鍋で傷める。その後お湯と混ぜてもちもちっとしたペースト状のガリが出来上がる。


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「モイモイ Moi-Moi」
私がナイジェリアで食べた料理の中でベスト1に近いローカルフード。蒸かした豆の皮を取り除いてペースト状にし、タマネギやパームオイル、スパイスを混ぜて、バナナの葉に包み(左下の写真)、それを蒸かす。細かく刻んだドライフィッシュやゆで卵が入っていることもある(右下の写真)。オレンジ色をしているのはパームオイルの赤い色。様々なソースと共に食す。


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「ジョロフライス Jolof Rice」
ガーナからナイジェリアにかけて食べられている炊き込みご飯。イモ類に匹敵するくらい、よく食べられる。どちらかというとチャーハンのような食感。セネガルのジョロフ王国の料理、つまりセネガルの国民食チェブジェンがルーツと言われている。ナイジェリアでは、パーボイル米を食べる習慣があり、ジョロフライスもほとんどパーボイル米。白米より料理に時間がかかるが、こういうしっかりとした食感も悪くない。多くの場合、ジョロフライスは肉や魚や野菜と共に食べる。



「ペペスープ Pepper soup」
牛肉やヤギ肉、魚、トウガラシ、ナツメグなどを煮込んだスープ。同僚がPepper soupを綺麗な英語発音で注文したら、paperが出てきたのを思い出す(笑)。レストランでコピー用紙注文する人ってなかなかいないでしょうに。ここではペペと発音するのがベストらしい。


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「エグシスープ Egusi Soup」
ナイジェリア料理で最も有名な料理の一つ。他国ではみられない特有料理だと思う。エグシメロンという小型のメロンの種をつぶして料理のベースとする。エグシメロンは、所謂フルーツとしての果実の甘いメロンではなく、種を食べるために栽培するメロン。私はとても好きな味である。この料理は別途記事を書いたので、こちらをどうぞ。
エグシメロンの畑


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「アフォンスープ Afang Soup」
ナイジェリア南部のイビオビオ族のオリジナル料理だが、現在ナイジェリア代表するスープの一つとなった。アフォンの葉やwaterleavesという葉がベースで、それに肉や野菜、ドライフィッシュなどを加えたスープ。


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「オクラスープ Okra soup」
写真はジョロフライスと共に食すオクラスープ。これは西アフリカ全般で食され、ナイジェリアも例外ではない。とろっとしたまろやかなピリ辛味はやはり食べやすくで安心する味。


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「エフォリロ Efo Riro」
ヨルバ族の伝統料理。ほうれん草のようなEfinrinという葉とEfo sokoという葉を、トマトやスパイス、肉、魚などと共に炒めたもの。他のソース同様、スワロやライスと共に食す。


「プランテン煮込み Plaintain Porridge」
プランテンバナナと豆の煮込み。プランテンバナナの代わりにヤムイモのこともある。パームオイルたっぷりだけれど、とても美味しい煮込み。



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「ドド Dodo」
揚げたプランテンバナナ。熟したプランテンバナナなので甘くておいしい。様々な料理の付けあわせで選ぶナイジェリア人が多い。


「アカラ Akara」
朝食や小腹がすいた時にスナック感覚で食べる豆の揚げパン。タマネギやスパイスも加えられて、やっぱりピリ辛。南部ではアカラと呼び、北部ではコサイKosaiと呼ばれることが多いらしい。


「スヤ Suya」
ハウサ族の料理なので、ナイジェリア北部やニジェールがオリジナルだが、今や全国各地で食べられるらしい。カメルーンの北部に旅行した時も食べたような気がする。通常は羊肉のグリルで、ナイジェリアの特徴は、やはりトウガラシやピーナッツパウダー、ショウガなどを混ぜたピリ辛スパイスをつけてグリルすること。


写真がない料理は、まだ食べていないが食べたいと思っている料理。次の出張で、もう少し充実させられるかな。


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# by iihanashi-africa | 2018-05-29 09:16 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)