5月28日から30日にかけて、第4回TICAD(アフリカ開発会議)が横浜で開催されます。ソマリアと西サハラを除くアフリカの52カ国が招待されており、その内45カ国の首脳が参加する予定になっています。それに先立ち、閣僚級準備会合が、3月20日、21日と、ガボンの首都リーブルビルで開催されました。
この会議に関し、興味深い考察が、あるメーリングリストに流れていました。それをここに紹介します。メールを流した方は私も知っていますが、このコメントを書いた方は匿名希望だそうです。かなり長いので3部立てにします。 <以下引用> ================================================= TICAD、あるいは日本外交の緩慢な死についての省察 =1990年代のアフリカ開発を支えたイニシアティブの命脈は尽きたのか?= ================================================= -------------------------------------------------------------------- 古いものは死に絶えようとしているが、新しいものが生まれる可能性は見えない。このような空白の時代にあっては、実に様々の病的な兆候が生まれる。 =アントニオ・グラムシ -------------------------------------------------------------------- 3月20~21日の二日間、中央アフリカに位置するガボン共和国の首都、中央アフリカの宝石といわれるリーブルヴィルで、第4回アフリカ開発会議(TICADIV)閣僚準備会合が開かれた。サハラ・アラブ民主共和国を除くすべてのアフリカ諸国が閣僚やそれに準じる高官を派遣し、あらゆる国際機関・国連機関が顔をそろえたこの会議で、TICADIV本会議で採択される予定の「横浜宣言」草案と、この宣言を実体化した「行動計画」が提案された。 二日間の会合でなされた公式発言の多くを、日本のアフリカへの貢献と「横浜宣言」草案への賛辞が占めた。高村外務大臣は初日を締めくくるレセプションで、「TICADがアフリカ開発の新しい時代を切り開いた」と、日本のイニシアティブを自賛した。アフリカ諸国の高官たち、国連官僚たちは、「横浜宣言」・「行動計画」草案の内容の薄さ、国際的な政策潮流との乖離への驚きにゆがんだ表情、しかめた眉を、得意の外交的言辞によってたくみに覆い隠した。最後のセッションでいくつか表明された注文、意見は、あわただしいスケジュールの中でうやむやにされた。共同主催者の一つを構成する日本政府は記者会見で曰く「多くの参加と率直な意見交換がなされ、会議は成功裏に終わった」。 波乱なく、ただ終わることを「成功」とするならば、これはたしかに比類なき「成功」と言えるだろう。様々なトラブルが予測される中央アフリカ地域で、これだけの規模の会議を大過なく開催できたのだから。しかし、それが、アフリカ開発において現在直面している大きな問題を見過ごし、日本がなしうる多くの可能性を摘んだ上で実現したものだとしたら、私たちはそれを成功と呼ぶことが出来るのか。後世から振り返ったときに、TICADの命脈を最終的に絶ったのは、日本外交が世界に羽ばたく可能性を終わらせたのは、あのガボン会議だったといわれる可能性すらあるというのに。 --------------- TICADの栄枯盛衰 --------------- 過去を振り返れば、TICADはその15年の歴史の中で、いくつかの宝石を生み出している。 第1回TICADが開催されたのは1993年、冷戦の終了によってアフリカの資源大国をソ連に取られる心配がなくなった欧米諸国が、自分が庇護した独裁者たちを放り出し、アフリカへの資金を大幅に削減した時期だった。それは「援助疲れ」と名づけられた。この状況下で、誰がアフリカ開発の担い手、進行役、行司役となるのか。手を上げたのが日本だった。TICADは日本の主導権の下でアフリカ開発の方針を形成するための多国間のフォーラムとして組織され、いくつかの重要な原則を生み出した。 その原則の一つが、アフリカ開発の担い手はアフリカ諸国であり、アフリカの「オーナーシップ」が尊重されるべきであること、そして、ドナー国や国連機関・国際機関などは、その「オーナーシップ」を支援する「パートナー」であるべきとの考え方であった。TICADはその後、5年に1回開催される「プロセス」となり、日本はこのプロセスの担い手として、アフリカへの援助を増額、90年代中盤には、いくつかの国におけるトップドナーとなるに至った。さらに、1998年に開催されたTICADIIにおいては、冷戦終了からグローバリズムへの過渡期において多くのアフリカ諸国が破局に直面する中で、アフリカの人間開発・社会開発の重要性をうたい、具体的な課題と数値目標、達成期限を定めた画期的な「東京行動計画」が定められた。この「東京行動計画」は、その2年後、国連ミレニアム総会に向けて別の形で練り上げられ、「ミレニアム開発目標」へと結実する。 TICADプロセスが開始された90年代は、欧米主導の構造調整政策と人間開発・社会開発軽視の風潮が跋扈する時期であった。この時期に、TICADはアフリカのオーナーシップを掲げ、アフリカの人間開発・社会開発を中心におくことを構想した。これは2000年のミレニアム宣言以降の、世界のアフリカとのかかわりを先取りするものであり、TICADは時代の先駆者であったといっても過言ではない。 この輝かしい歴史は、しかし2000年以降に失速する。日本の財政危機は、ODAの継続的な削減に帰結した。一般会計予算におけるODA額は、2008年には最盛期の60%にまで減少した。アフリカ向け援助の減少は、これよりもさらに急なものであった。このODAの急減は、日本政府の援助にかかわる意欲や革新性を減退させた。 もう一つの問題は、日本政府のアフリカ支援に関わるイデオロギーの不明確さである。TICADプロセスはそもそも、アフリカ開発におけるアフリカ諸国の「オーナーシップ」を称揚するものであった。ところが、日本政府は2003年のTICADIIIにおいて、この「オーナーシップ」を「自助努力」と翻訳した。ここにおいて「オーナーシップ」は、特殊に日本・アフリカ関係の文脈においては、主権と自己決定権という尊厳の要素を失い、単なる「セルフ・ヘルプ」へと転落したのである。日本政府が90年代末に新たに確立した援助の理念である「人間の安全保障」も、援助の具体的なかたちとなるに至らなかった。理念としての「人間の安全保障」は、プロジェクト案件形成の具体的な文脈において、小規模な分野統合的コミュニティ開発プロジェクトの別名として矮小化され、人々の安全と尊厳とをより広い範囲で守り育てるための、プログラム・レベルでの規模拡大を、多国間援助も含めた形で実現していくには至らなかったのである。 こうした援助額の減少とイデオロギー的な不明確さにより、TICADIIIは全く具体性のない会議へと転落した。何ものをも生み出さなかったこの会議をもって、TICADは終わるのではないかともささやかれた。しかし、そうはならなかった。すでにわが国には、古くなったイニシアティブを廃止し、新しいものに置き換える力が残っていなかったのである。かくしてTICADIVは、新たな理由付けを得て2008年に実施されることとなった。 -------------------------------------------------------------------- ≪第2部に続く≫
by iihanashi-africa
| 2008-04-03 14:35
| 日本
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