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セネガルの鉄道①:仏語圏西アフリカの鉄道の歴史の原点
セネガルで働いていた2017年からの2年間、地方へ行く度に「鉄道の駅」に立ち寄るのが好きだった。今や道路網の発達で、鉄道はほとんど使われなくなり、形だけの駅舎が残っているのみという場所も多い。ただ、植民地時代の面影があり、哀愁が漂い、100年近く前の活気のある時の残り香を感じるのが好きだった。

そして、セネガルでの私の任期もいよいよ終わる頃に、たまたま立ち寄った本屋でこんな本を発見し、迷わず購入したのだった。かつて賑わっていた頃の写真も掲載されており、とても貴重な本だと思う。

『Gares & Trains du Dakar – Saint Louis』(ダカール=サンルイの駅と列車)
著者:Al Housseynou Ndiaye & Pierre Rosière
出版社:Editions du Centaure

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今はもう使われることがなくなったダカール=サンルイ間の鉄道。実は1885年に仏領西アフリカで最初に建設された鉄道だった。

フランス植民地時代だった19世紀後半、サンルイSaint Louisは仏領西アフリカの中心地。1872年にフランスのコミューンとなりFaidherbe総督が任命され、1895年にはフランス領西アフリカ(AOF)の首都となっている。

詳しくはこの記事を↓。
サンルイ島の植民地時代の建造物群

サンルイはセネガル川の河口に位置する。そのため港付近は浅瀬で着岸が難しい。着岸できずに数週間沖合に停泊することもあったそうだ。フランスからの物資をスムーズに内陸に運ぶことができていなかった。それに加え、この時期、セネガル国内の特にCayor王国のLat Diorがレジスタンス運動で植民地勢力と対立しており、軍事物資をいち早く戦地に届けるという裏のミッションも考えられていた。

1856年、この地域に派遣されていた植民地政府のEmile Pinet Laprade将校が鉄道の建設を提案し、一旦は立ち消えたものの、1863年にFaidherbe総督が再提案し、その後Barière de L’Isle総督の時代に事前調査が始まった。当時、セネガルにおける落花生生産も成功し輸送手段も必要となっていた。

サンルイ=ダカール間の鉄道を敷くには、Cayor王国の領土を縦断する必要があった。そのため、Lat Diorとの度重なる交渉後、1879年にようやく鉄道建設の合意を締結するに至った。1881年に上述のBarière de L’Isle総督の元で調査が開始されている。しかし、その直後別の総督に交代してから、Lat Diorが植民地政府の裏のミッションを見抜き始め、合意文書を白紙に戻した。更に、ラクダやロバを使い落花生の輸送を担っていた商人も、自分たちの商売を脅かす鉄道建設に反対し一時対立が激しくなっていたが、その間も粛々と工事は進められていた。

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http://mbeuleukhe.over-blog.com/2016/03/l-empire-du-djolof.html


しかし、一向に工事への理解が得られないため、植民地政府も軍事力を使った強硬手段に出るしかなくなり、Cayorに攻撃を仕掛け、Lat Diorも隣のBaol王国に逃避することになる。その間に、植民地政府側に加担したSamba Yaya Fallが王国のトップに君臨し、植民地政府と鉄道建設案件を進めることになった。

鉄道建設は、サンルイとダカールの両起点から同時に始まり、最終的に中間地点のNdandeとKebemer間の藪で覆われた砂丘を繋ぐのに苦労したようだが、1885年5月12日に最後の線路が取り付けられ、これまでは道路もなかったサンルイ=ダカール間が鉄道で繋がったのだった。開通式は1885年7月6日に実施されている。下の写真は本に掲載されている写真。
by iihanashi-africa | 2021-07-26 00:24 | セネガル | Trackback | Comments(0)
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