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ジョロフ王国最後の都、ヤンヤン②
前回の記事の続き。
ジョロフ王国最後の都、ヤンヤン①

前回、ジョロフ帝国について記述したが、当時の都はThiengueだった。その後、リンゲール近くのOuarkhokhに遷都され、ジョロフ王国38代王の時代に、都がヤンヤンYang-Yangに移された。遷都されたのは1863年~1871年の間だっただろうと言われている。ジョロフ王国は第40代のアルブリ・ンジャイAlboury Ndiaye王まで続くので、かなり後期に遷都されているようだ。ジョロフ王国のかつての都の中でヤンヤンが有名なのは、やはりジョロフ王国崩壊後にジョロフ王に任命されたブナ・アルブリ・ンジャイがおり、また遺跡も残されていたからだろう。その説明は下で。


さて、ヤンヤンに着いた私たちは、ちょうど歩いていた村人に博物館の場所を聞いてみると、村長の家に連れて行ってくれた。この写真はヤンヤン村に入ったくらいの写真だったかな。
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のこのこと村長の家の中庭に入っていき、かくかくしかじかで博物館を見に来たのだと話すと、まずは水を飲んでいきなさいと椅子を差し出され、語り部と化した村長に耳を傾けた。かつてはどのくらい人口がいて活気があったとか、いろいろと興味深かった記憶があるが、内容は忘れてしまった・・・。

その後、村長の案内で博物館や遺跡を訪問させてもらった。


① ジョロフ最後の王、ブナ・アルブリ・ンジャイの家

ブナ・アルブリ・ンジャイBouna Alboury Ndiayeは、ジョロフ王国最後の王であった父アルブリ・ンジャイAlboury Ndiayeの長男である。父のアルブリ・ンジャイは、1875年にジョロフ王国の王となった。セネガルの王国シリーズ:シン王国2にも記述したが、19世紀は外から入ってきたイスラム教やキリスト教への抵抗と、フランス植民地化に対するレジスタンス運動が繰り広げられた時代だった。セネガルのレジスタンス運動の英雄といえばセレール族のLat Diorだが、彼は1886年10月に植民地勢力との戦いで亡くなっている。そして他の民族が植民地政府に同調する中で、最後までレジスタンス派として残ったのが、父アルブリ・ンジャイだった。1890年に植民地軍に攻撃された際、ヤンヤンは火の海となり、彼は同盟を求めて西へ向かい最終的にニジェールへ辿り着いたようだ。そして、ジョロフ王国は終焉を迎えた。

ジョロフ王国が終焉を迎えた当時、息子のブナ・アルブリ・ンジャイはまだ12歳だった。植民地政府のもとに連れていかれ、1894年にチュニジアで教育を受けるために留学したが、体調を崩しすぐにセネガルに帰国。そして1895年、彼が18歳の時、ヤンヤンの再建を行い、翌1896年にフランス政府からジョロフの王として認められた。ジョロフが「王国」として存在していた時代の最後の王は父のアルブリ・ンジャイだが、息子のブナ・アルブリ・ンジャイは王国終焉後にも「王」と認められた、所謂ジョロフ「最後」の王である。

ブナ・アルブリ・ンジャイは植民地政府にも一目置かれるほどの人格者だったらしい。自身の富を求めることはせず、地域の発展に注力し、政治に参加することも拒否し、イスラム教とキリスト教の対話を促すためにヤンヤンに大司教を受け入れたこともある。フランス政府からは勲章を授与されている。1952年に彼がなくなった時、セネガル国外のイスラム教指導者やイマムもお祈りを捧げたと言われている。

さて、ブナ・アルブリ・ンジャイがどういう方か分かったところで、彼の家を眺めてみる。塀に囲われた敷地の中に、かなり古びた植民地時代の典型的な二階建ての建物がある。

入口の門は改修中だった。
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内部には、壊れた陳列ケースが並べてあり、ブナ・アルブリ・ンジャイのお祈り用マットや沢山の写真、レター、新聞記事が飾られている。貴重な資料の山がここにある。
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ブナ・アルブリ・ンジャイの孫がこの家を博物館にしたらしいが、こんなにも訪問者が少ないと、廃れてしまうのは理解できる。シン王国の博物館に行った時も、訪問者は1か月ぶりだよって言われたっけな。。。


② ヤンヤンの王宮跡 (“Tata” de Yang-Yang)

少し小高い丘の上に石垣で囲われた場所がある。長さ100m、幅80mの広さの要塞で、父アルブリ・ンジャイの時に建設されたようだ。かつては高さ6m、幅2.5mの塀に囲われていたらしいが、植民地軍との戦いの際に壊されてしまい、現在残っているのは後日王宮跡を残すために再建されたものだそう。
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③ 王宮のモスクの記念碑

王宮跡のすぐ隣に、王宮モスクの歴史記念碑が立てられている。ムーリッド派の創始者Serigne Toubaも、ガボンから戻ってきてモーリタニアに追放されたのち、トゥバに戻る道のりでヤンヤンに立ち寄り、1904年から1912年まで滞在していたと伝えられている。
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④ ジョロフ王国関係者のお墓

王宮跡の隣には、複数のお墓がある。アルブリ・ンジャイの母Seynabou Diopのお墓や、王女Madjiquère Bassineのお墓などが残されている。
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⑤ フェデルブ総督の軍拠点

フェデルブFaidherbeとは仏領西アフリカ植民地政府の最初の総督である。彼の名がつく要塞がここに建設された経緯を教えてもらったのにすっかり忘れてしまったが、確か彼を受け入れるほどジョロフの王は寛容だったのだと村長が話していた記憶がある。ただ、どのサイトを調べてもこの要塞についての説明がない。。。ああ、すぐに文字に起こしておくべきだったなあ。。。
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それにしても、ここからだと周囲からの攻撃がよく見えるはずだ。
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これらは全てセネガルの歴史建造物に分類されている。保存状態は良くないが、歴史的にとても価値のあるサイトなので、もう少し広報してほしいなあ。


今回主に参考にしたサイトはこちら。
https://www.enqueteplus.com/content/yang-yang-du-tata-d’alboury-au-palais-de-bouna-la-mythique-capitale-du-royaume-du-djolof
https://www.seneplus.com/article/plaidoyer-pour-la-rehabilitation-du-tata-de-yang-yang
https://fr.wikipedia.org/wiki/Empire_du_Djolof
https://fr.wikipedia.org/wiki/Mansour_Bouna_Alboury_Ndiaye

by iihanashi-africa | 2020-04-19 00:02 | セネガル | Trackback | Comments(0)
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