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「アフリカのピノチェト」2:3か国で告訴
[前回の続き]
「アフリカのピノチェト」1:イッセン・ハブレという人


1990年にハブレ政権が打倒された後、AVCRP(Association des Victimes de Crimes et Répressions Politiques au Tchad)という被害者団体が組織され、792人の犠牲者に対する残虐行為で、被害者と犠牲者の家族がハブレ前大統領の提訴を試みる。そして、調査委員会も裁判を行なうよう政府に勧告して、被害者団体を後押しした。しかし、チャド政府は、セネガルに亡命したハブレ前大統領の引渡しを求めることもせず、またチャドに留まる共犯者を起訴しようともせず、何の行動も起こさなかった。

1999年、チリのピノチェト大統領の告発を機に、チャドの人権保護団体ATPDH(Association Tchadienne pour la Promotion et la Défense des Droits de l’Homme)が、Human Rights Watchにハブレをセネガル司法の元で告訴するための支援をして欲しいと要請し、様々な国際人権団体と協力して調査が始まった。


2000年1月25日、セネガル地方裁判所に7人の被害者と被害者団体AVCRPが、ハブレ前大統領を告訴した。書類は予審判事Demba Kandji(デンバ・カンジ)の元へ送られて審議され、原告もセネガルへ赴き証言した。審議は非常に早いスピードで行なわれ、9日後の2月3日には、ハブレを人道的犯罪と残虐行為で保護観察下に置いた。

しかし、数週間後、政治的圧力がかかることになる。ダカール高等裁判所の控訴院弾劾部に、ハブレの審議取り止めの申し立てが提出され、これまで裁判に肯定的だった判事たちも態度を一転、新たにセネガル大統領に就任したアブドゥライ・ワッド大統領(当時)も「ハブレ氏がセネガルで裁かれることはない」と宣言した。そして、デンバ・カンジ判事は異動となった。

被害者団体は、「国連協定によれば、このような残虐行為に対し、セネガルは裁判を行なうか、犯罪当事者を本国へ送還しなければならない」と主張したが、2000年7月4日、高等裁判所は「外国で犯した犯罪をセネガルの裁判所が裁くことは不可能」として、ハブレの審議を取り止め、ハブレは自由の身となった。


2000年10月26日、17名の被害者が拷問の直接の実行者であるDDSのメンバーを、チャドの裁判所に告訴した。デビー大統領も原告団を支持し、2001年5月、裁判が始まった。そして、さらに十数名の被害者が告訴した。しかし、その後原告や原告側弁護士に対する圧力がかかる。2001年6月11日には、弁護士Jacqueline MoudeïnaがかつてのDDSメンバーによる手榴弾の破片で負傷した。原告の中には、職を失ったものもいる。Moudeïna弁護士は2002年4月にジュネーブで人権保護に関する賞を受賞している。この裁判は、2008年に決着を迎えることになる。

実は、2000年の報告書で、アメリカがハブレ政権への武器支援だけでなく、DDSにも資金面・物資面両方での支援が行なわれており、DDSメンバーがアメリカで研修を受けていることも分かった。しかし、その後これについてはなんら議論がないため、ここでは触れないでおく。


セネガルでハブレの審議中止が決定される前、別の被害者(21人、内3人がベルギー国籍を取得している)も同じように国際被害者団体の支援を得てベルギーでハブレを告訴し、ハブレのベルギーへの送還を要請した。ベルギーでの判事はDaniel Fransen。当時ベルギーには、「犯罪者の国籍あるいは犯罪が行なわれた場所に限らず、人権を甚だしく脅かす行為に対する刑事裁判は行なえうる」という法律が存在した。2003年8月、アメリカ政府の圧力によりこの法律は廃止されることになるが、臨時の条項が制定されハブレの裁判は続けられた。


2001年4月、ワッド・セネガル大統領は、ハブレに1ヶ月以内にセネガル領土から離れるよう勧告した。これに対し被害者団体は、国際法が軽視されている国へ逃亡する可能性があるとして、国連へ嘆願書を提出。国連はセネガルに、ハブレを国外へ追放せず、セネガル国内へとどめるよう要請、2001年5月、ワッド大統領は要請を受け入れた。



最終章へ続く。


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by iihanashi-africa | 2012-08-28 07:20 | チャド | Trackback | Comments(0)
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