ナイジェリアのイスラム帽子のかぶり方
ナイジェリアの南部はキリスト教徒が多く、北部はイスラム教徒が多い。首都アブジャはナイジェリアのちょうど中央部に位置するが、感覚的にイスラム教徒の方が多そうである。街中を走ると多くのナイジェリア人イスラム教徒は、イスラムの帽子を被っていることに気付く。セネガルでもニジェールでもブルキナでも、もちろんイスラムの帽子を被っている方は見かけるが、こんなに多くの一般人が帽子をかぶっているのは見たことない。帽子をかぶっている人々を眺めながら気付いたことがある。それは、帽子の片側を折っている人が多いということ。

通常はこういう帽子。
c0116370_04025144.jpg
そして帽子の片側を折るとこうなる。
c0116370_04032720.jpg

出張中に出会った方もこうして片側を折っていたので、まじまじと帽子を見ていたら、「帽子に興味があるのか?」と取ってくれた。
c0116370_04031235.jpg

当初は、もともと片側が折られた帽子を売っているのかと思ったが、普通の帽子の片側をこうして折っているらしい。
c0116370_04031229.jpg

出張に同行してくれたナイジェリア人に何か意味があるのか聞いたが、これは単なるオシャレの一つらしい。ナイジェリアではこれが格好いいと思われるのかもしれない。キャップのツバにも曲げ方が色々あるのと同じかな。ただ、こういう折り方は他国ではなかなか見ない、ナイジェリアならではのモードかも。

ちなみに、最近療養に入ったナイジェリアの現ブハリ大統領も片側折りが多い。
c0116370_04032651.jpg

でも珍しくブハリ大統領のこんな折り方も発見した。アブジャでも、片側を折る場合両側を折って真ん中を立たせる場合と二通りの被り方を見かけた。片側を折るケースの方が多いが、両側折もちらほら見かける。イギリスの男性のハットもこんな感じに凹ませることもあったような。
c0116370_04032658.jpg


そういえば、オバサンジョ元大統領も特徴的な帽子を被っていて印象的だったので写真を探してみた。オバサンジョ元大統領はキリスト教徒なので、これはイスラムの帽子ではない。ナイジェリアのヨルバ族の伝統的な帽子らしい。オバサンジョが退任してから10年が経つが、ナイジェリアの帽子に関心を持った今、初めて知った事実。今まで、オバサンジョの帽子についてなんて調べたこともなかった。
c0116370_04032650.jpg
c0116370_04032738.jpg

オバサンジョ元大統領の帽子は余談だったが、ナイジェリア人のささやかなオシャレを垣間見て、なんかものすごく面白い発見をした気分になった。

帽子にこだわるナイジェリア人、1万円近くする結構高級な帽子も発見した。
c0116370_04032728.jpg

[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-26 04:24 | ナイジェリア | Trackback | Comments(1)
ナイジェリアのポップコーン
今の仕事は西アフリカ諸国への出張が多く、毎回出張するたびにセネガル人の同僚にお土産を買ってくる。ニジェールはキリシという干し肉(ニジェール料理一覧)、ガーナはチョコレートかシトという魚粉ベースのトウガラシペースト、ブルキナファソはゴマのお菓子(ゴマの売り子)かドライマンゴーが私にとっての定番土産。私の同僚のリアクションからみて、これまでのヒット土産はニジェールのキリシかな。

でも、ことナイジェリアに関しては昨年の出張中とても悩み、結局何も買って帰らなかった。ピーナッツやカシューナッツ、シアバター製品は西アフリカどこにいってもあるため、あまり特別感がない。

今回こそはナイジェリア土産を買って帰ろうと思い、ナイジェリアに住んでいる日本人の方に聞いたところ、幾つか出てきた候補の中にポップコーンがあった。アメリカに行くとポップコーンがお土産になることがあるが、西アフリカでポップコーンはあまり聞かない。

そういえば、滞在ホテルでグラスワインを頼んだら、つまみがポップコーンだった。他国だとピーナッツが多いのだが、アメリカナイズされてるのかしら?そういえばナイジェリア音楽も最近アメリカのR&Bっぽくなっていたような。。
c0116370_01471046.jpg

それはさておき、早速スーパーに行ったら、あったあった。ポップコーンの陳列棚は結構広い。アメリカっぽいカラフルなポップコーンもあるが、私はキャラメル味とココナッツキャラメル味を購入。
c0116370_01472385.jpg

これが今回のナイジェリア土産。ポップコーンの他に、ナイジェリア版キリシとドライマンゴーも買ってみた。やっぱりキリシはニジェール、ドライマンゴーはブルキナにはかなわないかなあ。
c0116370_01474166.jpg

[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-23 02:08 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
誕生日に贈られた母からの手紙
前回の記事に続き、ナイジェリアの記事をアップしようと思ったのだが、今日ちょうど弟に頼んでいたものがメールで送られてきたので、まずはこの記事をアップしようと思う。

5月13日は双子の弟と妹の誕生日だった。二人の誕生日になるといつも思い出す記事がある。2008年の二人の誕生日に母から送られた手紙。この手紙を、当時弟が自分のブログでアップした。弟のブログは既に閉鎖されてしまったため今は読むことができないが、どうしてもこの記事は私のブログでも掲載しておきたいと思い、弟に探してもらった。

弟のブログに掲載されたものをそのままアップすることにしよう。

***********************

2008・05・16(金)

母からの手紙

5 月 13 日はぼくたちの誕生日でした。 ぼくたちと書いたのは、ぼくは双子だから。
男と女の双子。十数分早く生まれたので、一応、ぼくが兄とい うことになっています。
そんなぼくたちに、母親が誕生日に送ってくれたメールに、親 のすごさを感じました。

メールはそのまま載せます。
光秀がぼく、さつきは妹、久美子は姉です。

---------------------------------------------------------------------------------------

今日は2人のお誕生日です。
無事28歳まで成長しました。おめでとう!
22歳以降はすべて自分の力で成長している2人に感服です。
充実した毎日ですか。
自分の選んだ道を歩んでいることが一番うれしいし、安心しています。

1980 年5月13日15分差で生まれてきました。 光秀が勢い良く生まれた後の15分は長く、
帝王切開も覚悟し ましたが、
助産師さんたちがガンバレガンバレとしぼり出してくれました。
仮死状態で泣かないさつき、泣くまでの3分くらいの医者のあ
わてる様子が今も鮮明に思い出されます。「ふぎゃーーー」と小さく泣いたとき
は大泣きしました。
そのとき部屋にいた実習生も一緒に泣きじゃくってくれま した。

2か月で職場復帰、その後はお母さん1人で奮闘しました。職員宿舎にいたので
お昼は帰って掃除洗濯、夕方迎えに行き、光秀は動くのでおぶり、さつきは抱いて、
久美子は大型のショッピングカーに入れて買い物、お風呂は全部鍵かけて1人ずつ、
脱がして洗って着せてを3回。食事もみんなつばめのように口あけて待ってるので
ほ乳瓶は座布団で固定して。

少し大きくなるといたずらも半端じゃなくて。今考えるとみんなよく考えたなあと
いういたずらばかり。お姉ちゃんの指示なのか「調味料を部屋中にふりかけ」
「お風呂の栓をぱっくんぱっくん水がなくなっちゃった」「口 紅を体中に塗ってお化粧」
いろいろと楽しい毎日でした。

一度しかない人生、今を大切に。体だけは自分で守って充実した毎日を。



---------------------------------------------------------------------------------------

さっちゃんから「初めて聞いた」と好評をいただいたので、
第2弾をつれづれなるままに書いてみます。

保育園がまだ9時から4時の保育時間で、3歳未満児はまだ預からない時代でした。
個人の家を職場の方に教えてもらい、韮崎のおばあさんにお姉ちゃんを預かっても
らっていました。2か月の小さな小さな赤ちゃんを預けるのは不安で不安で泣きながら
職場に向かいました。

「やめようか」と何度考えたことか。
そのたびに職場の先輩から「この時期誰もが経験すること、絶対にやめちゃだめだよ」
と励まされてきました。先輩の、特に、看護婦さんたちにはいろいろ
教えてもらい本当に感謝感謝です。

双子が生まれるとわかったのは4か月の時でした。
強烈な腹痛とともにかなり出血したので「もうだめか」と泣きながら医者に言ったら
当時はまだ先進的だった超音波でおなかを診てくれ
「おお!ふたついる、大丈夫心臓が動いてるよ」
と映像を見せてくれました。
ぴくぴく動く二つの物体に目が点になって見入ってしまいま した。
お陰で早くから注意をすることが出来ました。

預かってくれているおばあさんに相談したら、3人は無理ということになって
それから保育時間の延長を市(当時は町)にお願いしに通いました。

職場の人にお願いし署名も集めました。
県の担当にもお願いし保育大会にも参加してお願いしました。
1年かかって8:30~17:00になりました。
久美子を保育所に預けて2人はおばあさんにお願いしました。
そしてまた1年かかって1歳児の保育が実現し、11かげつのふたりは
特例で OK され、3人が保育園へ。5時に間に合うように迎えに行き
病院につれてきて残業しました。
だから病院の人は3人をよく 知っています。

車の中で寝ていたり、2人が2歳過ぎたころは
庭で3人で遊んでいて、皆さんにかわいがってもらいました。



-----------------------------------------


「上手いから載せた」の言葉に気をよくして第3弾


子育てで目指したのは『自立』
明日私がいなくなっても何とか迷惑をかけずに『生きていく力』
幼稚園で掃除、小学生で食事洗濯、中学生ですべてをマスターすること。

朝忙しいから3人に分担してもらいました。
お姉ちゃんは掃除機、光秀は玄関周りと外掃き、さつきは食事の運搬係と決めたのですが、
掃除機のお姉ちゃんがなんと、1週間ごとのローテーションを組んで、
いつの間にか当番が変わっていました。さすが年長組さん。
毎朝外をはいているので、近所の方から『偉いね』とほめられて気分よく続いたみたいです。
掃除機は光秀が上手でした。やっぱり男の子は器械が好きなのかなと思いました。

小学校では炊飯器をすぐに覚えてくれて、
私が外から「3合炊いておいてね」と電話をしても「オッケイ」なのでとても助かりました。
高校では「自分のお弁当は自分で」と願ったのですが・・守れたのはお姉ちゃんでした。
お姉ちゃんは料理が好きで、高校ではみんなのお弁当を手伝ってくれました。
あまりに盛りつけがきれいなので朝お弁当の写真を撮ったこともありました。

3人がそれぞれにスポーツ少年団に入ったので
洗濯機を回しておいてくれるのは助かりました。
スポ少の役員を引き受けて、父も母も本当に楽しい時間を過ごせました。
子どもがばらばらになった今、おばさんグループは「大親友」となり
食事や旅行先からそれどれの子どもに電話して「ママだよ」と
ふざけています。

職場の先輩ママさんが「手伝ってくれるのは小学校までだよ」と言っていたので、
小学校卒業までに一人前にしたいと焦ったのですが
確かに中学、高校では、朝練、課外、遠征など、
こちらがみんなの時間に合わせざるを得ないほど3人とも忙しく、
今になると先輩の助言に本当に感謝しています。

手抜き母の子育ては「自分でやらなければやってくれない」と
子どもが悟った結果かもしれないね。
「自立」と「力」は付いた、ので
早く子育てを体験して欲しいな・・・と願う母より。


*************************


やっぱり母は強い。

兄弟の中で、私は一番母に似ていると自分でも思うのだが、これほどの行動力とエネルギーは受け継いだだろうか。




[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-18 06:23 | 日本 | Trackback | Comments(2)
アブジャの街並み
2回目のナイジェリア出張から帰ってきた。
ナイジェリアといっても行き先は巨大都市ラゴスではなく首都のアブジャ

ラゴスには行ったことがないのだが、都市圏内の人口は3千万人と言われており、アフリカ最大の都市なので、きっと混沌としていて、殺伐ともしているのだと思う。15年前にカメルーンにいた時、ラゴス経由でカメルーンに来られた出張者が、空港を降りた瞬間から雰囲気が違い怖くて緊張したと話していたのを思い出す。また、セネガル人の同僚はナイジェリアにだけは出張したくないという。イメージが先行しているかもしれないが、実際に犯罪被害にあった方もやはり多く、このネガティブイメージはなかなか払拭されない。

私が初めてナイジェリア人とゆっくり話す機会を得たのは、2015年の秋。研修で来日していたナイジェリア人公務員3名の農家支援活動計画の作成をサポートした。この研修では、ナイジェリアを含むアフリカ7、8ヵ国から公務員が参加していたのだが、20名近い研修員の中で、ナイジェリアの3名が最も癒し系だった。私の中でも、犯罪の多いナイジェリア、気性が激しいナイジェリア人、ずる賢いナイジェリア人というイメージしかなかったため、最初に出会ったナイジェリア人が皆、笑顔で愛嬌があり、おっとりと話す方々で、ナイジェリアのイメージが大きく変わった。この癒し系ナイジェリア人と最初に出会っていたことで、1年前の初めてのナイジェリア出張もそれほど身構えずに済んだ。

そして、今回、2回目の出張。

2億人近い人口がいれば、様々な方がおり、癒し系の男性もいれば、バリバリ働く頭の切れる女性もいれば、偉そうな態度をとる人もいれば、ユーモアのある人もいる。それはきっとどの国も同じ。だからナイジェリアもそれほど特別な国には感じない。ただ、他のアフリカ諸国と少し違うのは、車の運転が強烈に荒いこと。日本と比較したら、アフリカはどこへいっても運転が荒いが、私が知っているアフリカの国々の中でナイジェリアの運転は格段に荒い。怖いと思うことが1日に何度もある。でも、滞在中に一度も交通事故を見たことがなく、接触事故は頻繁にありそうなのにそれが起こらない彼らの運転技術にあっぱれである。

さて、今回から少しナイジェリアの話題をアップしようと思うが、まずはアブジャ市内の写真から。
c0116370_02380947.jpg
c0116370_02382108.jpg
c0116370_02383138.jpg
c0116370_02384268.jpg
c0116370_02385348.jpg

こちらは建設中の新空港ターミナル。中国企業が建設しているみたい。1年前も建設中だったが、今もなお開港しておらず。
c0116370_02390312.jpg

こちらが現在の空港。
c0116370_02391526.jpg

人工的に作られた都市アブジャの中心部は、とても整然としている。が、もちろんそうでないところも。
c0116370_02392581.jpg
c0116370_02393708.jpg
大きなナショナルモスク。モスクの記事はまた別途。
c0116370_02394770.jpg

今回宿泊したシェラトンホテル。セキュリティーはしっかりしている。
c0116370_02461675.jpg



[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-16 02:49 | ナイジェリア | Trackback | Comments(0)
バオバブジュースの材料
セネガルで一般的なローカルジュースといえばビサップジュースだが、Jus de Bouyeと呼ばれるバオバブジュースも広く一般に飲まれている。

こういう白い濃厚なジュース、、、という写真をアップしようと思ったら写真がなかったので、これは後日。

このバオバブジュースは、バオバブの実から作られる。この実は、フランス語でPain de singeと呼ぶ。バオバブの実は割るとこのように白い果実が詰まっていて、酸味以外はほぼ無味のラムネのようである。甘さは全くない。白い塊をなめ終わると中から黒い種が出てくる。
c0116370_01390848.jpg
c0116370_01391772.jpg

実をつける時期になると、こうして果実が売られている。
c0116370_01384706.jpg
これは種を取り除いて細かくしてあるもの。
c0116370_01385830.jpg
パウダー状のもの。
c0116370_01412432.jpg


バオバブジュースを作る際は、白い果実を軽く洗って汚れを落とし(入念に洗うと溶けてしまうので要注意)、湧かしたお湯に入れ、数分後に溶けてきたら濾して雑物を取り除く。そして、パウダーミルクを加えて混ぜ、砂糖、バナナジュースやパイナップルジュースなどのフルーツジュースも加えて出来上がり。

バオバブの実は、様々な形があるのだが、セネガルでよく見かけるのは、丸い実と楕円の実。私自身は木のいで立ちからは区別できないのだが、これが丸い実のバオバブ。
c0116370_01392894.jpg
c0116370_01404557.jpg

こちらが楕円の実。
c0116370_01405607.jpg
c0116370_01410896.jpg
ちなみに、マダガスカルのバオバブの実はもう少し大きくて、果実も少し異なる。でも味は同じ。
ペプシバオバブ


[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-10 02:18 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルのキリスト教とニアニアンの教会
セネガルはイスラム教徒が9割を占めると言われている。しかし、私の友人のキリスト教徒のセネガル人は、いやキリスト教徒は1割以上いる!と主張する。セネガルは、南部のカザマンス地方にキリスト教徒が多く、私はこの地域に行ったことがないので分からないが、カザマンスの人口の大半がキリスト教徒だとすると、数字は大きく変わってくると思う。ただし、ガンビアより北にいる限りは、イスラム教徒9割というのは肌感覚では間違っていないと感じる。


セネガルにおけるキリスト教は、15世紀のポルトガル人の来航から始まるが、戦略的な布教はフランスの植民地時代に行われた。既にイスラム教が浸透していた地域と海岸沿いのイスラム教と戦っていた地域とで布教戦略を変え、キリスト教の浸透を図っていった。

まずは、1819年にフランス領西アフリカの首都だったサンルイ。クリュニー修道院のシスターたちが学校と教会を設立する。クリュニー修道院については以下の記事を。
サンルイ島の植民地時代の建造物群

1822年にはゴレ島に修道女たちがやってきて、教会が建てられる。

1850年にはPetite Côteと呼ばれるダカールから南の海岸沿いでキリスト教が布教され始める。まずは、Ngasobilという町、そしてファディウート、ジョアル、ポポンギンへと広がり、1886年には南部のジゲンショールへと広がっていく。ファディウートのキリスト教については以下の記事をどうぞ。
貝とキリスト教の島、ジョアル・ファディウート

クリュニー修道会以外にも、マリストブラザーズ、ドミニコ会、聖心会、ベネディクト会などが各地に教会や修道院を設置しているが、その中で聖心会は20世紀になってニアニアンNianiangという町に、学校や教会を建設している。


そして今年2018年2月、ニアニアンに新しい教会Eglise Sainte Epiphanieが建設された。
フランスのNGOの支援によるものらしいが、高さ15メートルでドーム型の円天井が5層に重なったユニークな形をしている。建築家によると、ニアニアンの町が位置する海岸沿いは貝採取で有名で、貝で生計を立ててきた人が多いことから、貝をイメージして作られたそう。

ネット記事の写真を見た時に面白い形だなあと思い、先日ちょうど近くを通ったので立ち寄ってきた。
c0116370_04191203.jpg
c0116370_04242684.jpg
c0116370_04202716.jpg

にほんブログ村 海外生活ブログ アフリカ情報へ
にほんブログ村


アフリカランキング


[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-07 19:32 | セネガル | Trackback | Comments(0)
カオラックにピラミッド?
さて、このピラミッドは何でしょう。
c0116370_02422561.jpg


少し近づくと分かるかな?
c0116370_02425410.jpg


もう少し近づいたら分かる?
c0116370_02442388.jpg

これでも分かりにくいけれど、正解はラッカセイの殻の山。セネガルの落花生栽培については、以前記事を書いたのだが(落花生の脱穀 in Senegal)、こうして殻を取り除き、山がいくつも出来上がっている。さて、この殻はどうするのだろう。。。
c0116370_02415403.jpg
ここから市場に出荷されるが、直接業者が買い付けに来ることも多い。
c0116370_02450820.jpg



[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-03 02:27 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルのモンドセレクションのビール
セネガルでよく飲むビールにガゼルというビールがある。私はビールの味を表現できないので、一口飲んでディテール表現ができるムッシュSUZUKIの言葉を借りると、「変な甘さがなくて大人向きのビールで、軽いけれどビールらしい苦みがあるところがハートランドに似てる」らしい。
c0116370_08204348.jpg
先日、友人とこのビールを飲んでいて、友人がモンドセレクションのマークに気が付いた。これまで何度となく飲んでいたのに全く気が付かなかった。
c0116370_08192833.jpg

c0116370_08195703.jpg


何が驚きって、日本でしか知られていないとも言われる「モンドセレクション」を、セネガルの会社が取得しようと思ったところ。モンドセレクションが日本の製品ばかりということが分かりやすく記述されているこの記事によると(↓)少し前の数字ではあるが、出品数の87%が銅賞以上を受賞していて、受賞した商品の8割がアジア。そして審査対象品の5割が日本からの出品らしい。アジアが多いのは、日本人をターゲットにしたい商品が多いからかも。審査料15万円を出せば、8割の確率で何かしらの賞を受賞できるらしい
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4208.html


セネガルのガゼルビールが受賞している2017年の受賞リストを見てみると、JAPANからの商品が多すぎて驚く。
http://flipbook.monde-selection.com/201756142/mobile/index.html#p=1


ただ、その中でアルコール、とりわけビールだけはアフリカの製品が結構受賞している。2017年の受賞ビールをリストップしてみた。こうやって並べると、セネガルのガゼルビールの銀賞獲得!という特別感が薄れる(笑)。

【金賞】
ベナンのラ・ベニノワーズ(la Beninoise)ビール
ブルンジのアムステルロワイヤル(Amstel Royale)ビール
カメルーンのカステル(Castel)ビール
コンゴ共和国のスターク(Stark)ビール
エチオピアのアンバー(Amber)ビール
エチオピアのカステル(Castel)ビール
エチオピアのワリア(Walia)ビール
ガーナのスター・ラガー(Star Lager)ビール
ケニアのピルスナーラガー(Pilsner Lager)ビール
ケニアのタスカ・ラガー(Tusker Lager)ビール
マダガスカルのゴールド(Gold)ビール
ウガンダのナイル・ゴールド(Nile Gold)ビール
ウガンダのナイル・スペシャルラガー(Nile Special Lager)ビール
ウガンダのベル・ラガー(Bell Lager)ビール
ウガンダのタスカ・モルツラガー(Tusker Molt Lager)ビール

【銀賞】
アルジェリアのボーフォール(Beaufort)ビール
カメルーンのボーフォール・ラガー(Beaufort Lagar)ビール
コンゴ民主共和国のンコイ(Nkoyi)ビール
コートジボワールのボック・ソリブラ(Bock Solibra)ビール
ケニアのバロジ・ラガー(Balozi Lager)ビール
マダガスカルのTHBピルスナー(THB Pilsener)ビール
南アフリカ共和国のカーリング・ブラックラベル(Carling Black Label)ビール
セネガルのガゼル(Gazelle)ビール
タンザニアのピルスナーラガー(Pilsner Lager)ビール
タンザニアのセレンゲティ・プレミアムラガー(Serengeti Premiun Lager)ビール
タンザニアのサファリ・ラガー(Safari Lager)ビール


食品や健康食品、コスメなどの分野ではアフリカ製品がほぼ皆無なのに対し、ビールだけは豊富なのはなんだろう。ビールのモンドセレクション獲得は今ブームなのかな?セネガルで、モンドセレクションのマークを見て「お!!!」と思うのは日本人だけのような気もするのだが、ビールについては世界的なステータスになってきたということかな?まあ、アフリカのビール会社とはいいつつも外国資本で、モンドセレクションを獲得しようと考えること自体に、アフリカ以外の外国人の見方が少し入っている気がする。

ちなみに、ケニアのタスカ・ラガー(Tusker Lager)ビールは、モンドセレクションの中でも、最高金賞を3年連続で受賞するともらえる賞、International High Quality Trophyを受賞している。これだけ突出して特別っぽい。で、この話を、ケニアに長く住んだことのある方に話したら、「いや~~、それはないだろう!!」と話していた。やっぱり賞をとっているからと言って、それが自分の好みに合うとは限らないみたい。


2017年の受賞リストを眺めていて、マダガスカルのCaprice Bonbon AnglaisというジュースやJudor Cocktailというジュースが金賞を受賞していることに驚いた。マダガスカルにいたことのある方なら、え、なぜこの二つが金賞?????という疑問が頭の中を旋回し続けるのだが、全く回答が見つからない。こんな人工的な味のジュースがなぜだろう??受賞の基準はなんなのだろう。




[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-05-01 03:01 | セネガル | Trackback | Comments(4)
セネガル女性の結婚祝い、チュライとビンビンとベーチョ。
最近「女性」をテーマにした記事を続けて書いたので、もう一つだけセネガル女性の秘密をご紹介。

先日、久しぶりに会ったセネガル人の同僚の肝っ玉母さんのような女性が、第一声で「もう結婚したんでしょ?」と話しかけてくれた。結婚してからもう数か月経ち、あれ?そんなに会っていなかったかなと一瞬思い返しながらも、そうですよと答えようとしたら、その返事をする間もなく間髪入れずに「じゃあ、チュライとビンビンとベーチョを買ってあげるわ」と続けた。姪っ子でも結婚したかのようにルンルンとテンション高めで、自分のオフィスからチュライの瓶を持ってきて私に香りをかがせてくれた。

チュライビンビンベーチョ

この3つは、パートナーを喜ばせるグッズとして結婚する女性にプレゼントされるらしい。この話を聞いて、ふと思い出したのが、女性博物館で上映されていた映画『Dial Diali(ジャルジャリ)』。一つ前の記事で紹介したAnnette Mbaye d’Ernevilleの息子で映画監督のOusmane William Mbayeが、1992年に作成した短編映画。少し時代を感じる映像だが、これからパートナーとの夜を迎える女性が、周囲の女性たちのアドバイスを聞きながら準備する様子は、おそらく今も変わっていないと思う。

(映画はR-15指定になっています)


3つのグッズのうち、チュライThiourayeは以前ご紹介した。寝室に男性を喜ばせる香りを充満させるためのお香である。
セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ


ベーチョBéthioとは、スカートの下につけるペチコートのようなセクシーな布。上の映画でも、7分30秒あたりからベーチョが出てくる。


そしてビンビンBine bineは、腰の周りに身につけるビーズの飾り。別名ジャルジャリDial Diali。上の映画のタイトルである。ビーズにも大きな玉と小さい玉とあり、大きいものはフェールferr小さいものをビンビンと呼ぶ。小さいものはプラスチックのビーズだが、大きいものはチュライのお香などを練りこんだ粘土で作ったものもある。またジャルジャリにはお守りとしての効果もあり、映画の中でも10分あたりから登場する女性がジャルジャリの意味を説明している。ビーズの色によっても効用が異なるようだ。生まれたばかりの子どもにも魔除けとしてつけることもあり、若い年ごろの女性もおしゃれの一つとして身につけている。
c0116370_19391419.jpg
c0116370_19400403.jpg
c0116370_19375146.jpg
c0116370_19405547.jpg
c0116370_19383075.jpg

映画の中では、この3つのグッズ以外にヘナも登場する。ヘナという植物を使った染料で、髪のカラーリングなどにも使用し、アラブ系の国々では手足にヘナタトゥーをする女性も多い。私も昔、モロッコに旅行した時に、ヘナタトゥーをしてもらったことがある。タトゥーといっても肌に色を染み込ませるだけのものなので2~3週間で消えてしまう。以前は西アフリカでも、上の映画の最初でも出てくるように、ヘナで足を染色する女性を見かけたが、最近はあまり見ない気がする。


さて、同僚からチュライとビンビンとベーチョを買ってあげると言われてから2週間が経ち、未だプレゼントはもらっていないのだが、使うかどうかは別として、滅多にもらうことのない代物なので、ちょっと期待して待っている。




[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:46 | セネガル | Trackback | Comments(0)
魅惑の小道具チュライの記事を更新しました
以前書いた「セネガル人女性の魅惑の小道具チュライ」という記事に、チュライのお香の原料の写真を加えました。



[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-24 07:22 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』
先日、ダカールのアンリエット・バティリ女性博物館を訪れた際、仏語圏のアフリカ女性雑誌のパイオニア『AWA』についての特別展が開催されていた。
c0116370_07080094.jpg
c0116370_07082072.jpg

アフリカでも19世紀から民間の雑誌が発行され始めた。リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアなどでは早くから植民地主義に対抗する民間雑誌が存在していたらしい。仏語圏アフリカでは、植民地時代はフランス人たちとフランスで教育を受けた一部のアフリカ人エリートが幅を利かせていたため、民間雑誌の発展は少し遅れて始まったようだ。

独立前後は、パンアフリカの議論やその他様々な議論の場を提供するための雑誌が増え、イラストや写真が多くなり、アフリカ以外の流行も取り入れたものが多くなってきた。『Bingo』『l’illustré africain』は、1953年にフランスの投資家Charles de Breteuilの支援を得て発行された雑誌で、アフリカで名声を得ていった。『Drum』はその少し前の1951年に南アフリカで発行が始まり、ルイ・アームストロングやモハメド・アリなど多くの有名人を起用したり、文章を短くするなどして一般大衆の目をひく流行雑誌となっていった。同時に、より知識層向けの『Présence Africaine(1947)』や、ナイジェリアの『Black Orpheus(1957)』、ウガンダの『Transition(1961)』なども発行部数が多くなっていった。
c0116370_07083111.jpg
c0116370_07084258.jpg

この流れの中で、1964年に初の女性雑誌『AWA』の発行が始まった
c0116370_07085292.jpg

創設者のAnnette Mbaye d’Erneville(下の写真)は、パリでジャーナリズムを勉強し、セネガルで最初の女性ジャーナリストといわれている。セネガル・テレビラジオ局(ORTS)のディレクターになり、ラジオで女性向けの番組「Jigeen ni degluleen(女性たちよ、聞いて!)」というウォロフ語の番組を始め、「Tata Annette(アネットおばさん)」という愛称で人気を博した。AWAを発行する前には、Présence AfricaineやBingoで記事や詩を書いていたことがあった。90年代にはセネガル女性組合の連合会長となり、前回の記事で紹介したアンリエット・バティリ女性博物館の創設者でもある。
c0116370_07081078.jpg

AWAの前に発行が始まった多くの雑誌が外国資本だったのに対し、AWAは完全にセネガル資本だった。第1号の発行はセネガルの資本家がサポートしてくれたようだが、その後は購読料、会費、雑誌の売り上げから全てやりくりしていた。しかし、発行開始2年後に資金難に陥り、6年間発行が中断する。Bingoの支援をしていたフランスの投資家Breteuil氏が、AWAの救済を申し出たが実現せず、彼自身は今現在も人気の女性雑誌『Amina』を発行することになる。AWAは1972年に発行が再開されるが、翌年73年に再度発行が停止する。


AWAは多くの作家や詩人を起用しており文学的にも価値のある雑誌と評されており、2017年に全ての雑誌がデータ化された。それを以下のサイトで無料で見ることができる。

https://www.awamagazine.org/

[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-20 07:16 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アンリエット・バティリ女性博物館
ダカールの海沿いのコルニッシュ大通りに、アフリカ・メモリアル広場(Place de souvenir africain)というイベント広場があるのだが、そこに知る人ぞ知るアンリエット・バティリ女性博物館(Musée de la Femme Henriette Bathily)がある。
c0116370_03525142.jpg
c0116370_03553632.jpg

建物は二階建てで、1階は特別展、2階は常設展となっており、常設展では、セネガルでこれまでに活躍した女性たちの紹介、セネガル社会におけるかつての女性の捉え方、女性の服装、仕事道具、宗教行事、等々の展示がされている。2階の一角にはシークレットゾーンもあり、女性たちが服の下に身につけるアクセサリー類なども飾られている。受付の方が一つ一つしっかりガイドしてくれ、とても分かりやすい。また、3月に訪れた時は、特別展でAWAというアフリカ初の女性雑誌の変遷が紹介されており、これがまたとても興味を引いた。
c0116370_03545159.jpg


アンリエット・バティリ女性博物館のサイト
mufem.org/

アフリカ・メモリアル広場のサイト
http://www.placedusouvenirafricain.sn/


女性博物館は、1994年にゴレ島に建設され、2015年に現在のメモリアル広場に移築された。博物館は、作家でもありセネガル初の女性ジャーナリストでもあるAnnette Mbaye D’Enervilleの構想で、博物館の名前にもなっているアンリエット・バティリは、生涯を通じて女性の地位向上に貢献する活動をした女性として人々の信頼を得ていた方なのだそう。彼女が亡くなった1984年4月4日は、通常であれば独立記念日の式典が行われるナショナルデーなのだが、国民が喪に服す日として式典は中止となったらしい。最大の国家行事が中止になるくらいセネガルにとって重要な人物だったことが分かる。もともとはフランスで保育士の勉強をし、帰国後にラジオ・マリの局長に就任、その後ラジオ・セネガルの局長に就任した。ソラノ国立劇場の発展にも貢献したほか、1964年から1984年に亡くなるまでフランス文化センター長でもあり、当時開催した「セネガル女性の地位と役割」というテーマの展示会が、この女性博物館の前身ともいわれている。

一つ前の記事で紹介したドキュメンタリー映画はこの博物館で上映されていた映画。
セネガル独立に貢献した母たちを描く映画

次回の記事では、とても面白かった特別展についても書いてみよう。

そうそう入場料は1000fcfa(約200円)。
c0116370_03564934.jpg





[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-18 04:10 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガル独立に貢献した母たちを描く映画
先日、ダカールにある女性博物館に行ったのだが、そこでとても興味深いドキュメンタリー映画が上映されており、チラ見するだけのはずが、その場でずっと見続けてしまった。途中から見たので全ては見られなかったが、こうやって歴史から女性たちの活躍は消されていくのかと知って愕然とした。

セネガルの歴史、特に植民地から独立する際に、活躍した女性たちがいる。彼女たちは、「男性たちが記述した」歴史の教科書から忘れ去られ、今日まで脚光を浴びることはなかった。脚光を浴びないだけならまだしも、独立後にセネガルを率いた政治家たちから無下にされ、不当な扱いを受けてきた過去がある。この映画は、17名の闘った女性たちを紹介し、本人たちの証言をつなぎ合わせながら物語が進む。



『Les mamans de l’indépendance(独立に貢献した母たち)』
監督:Diabou Bessane
2012年、53分、セネガル


(この動画は途中から止まってしまいます・・)




1950年代、女性たちは、女性と子どもの人権尊重と地位向上のためにUnion des Femmes du Sénégal(UFS:セネガル女性連合)を設立する。当時各地で行われていた独立運動では、最前線でプラカードを掲げながら「即独立!」を訴えており、治安部隊に催涙弾を投げられて、逃げ回ったこともあった。当時のフランスのドゴール大統領がセネガルを訪問した際にも、大統領の目の前で「平等!」を訴えるプラカードを振りかざした。

1958年にベナンで西アフリカのエリート政治家たちが集まって会議が開催されているのだが、この会議のことを調べると、その後各国の大統領など政治の中枢を担うことになる「男性」政治家の参加者しか記述されておらず、参加者の中に勇敢な女性がいたことなど、どこにも記されていない。この会議にセネガルの政治家と共に参加したUFSの代表Rose Basseは、エリート政治家たちが「独立」に向かうことに尻込みしている中、「あなたたちが独立に向かうことに怯えているなら、私たち女性が向かいます!」と男性たちに喝を入れるように発言したそうだ。UFSは、彼女をベナンの会議へ送るための費用を自分たちでなんとか集めて工面している。

かつて存在したセネガルの政党Le Parti africain de l'indépendance(PAI)も、Majmout Diopが作ったかのように歴史には記載されているが、実際は、女性活動家Arame Thioumbé Sambが投獄されることも覚悟で、政党立ち上げのために闘っている。

しかし、独立後、政治家は彼女たちを共産主義者と呼び、平等を訴えることを禁止し、違反したものは投獄するとした。3月8日の女性デーを祝うことを禁止した。政治家は、女性活動家たちが世論を動かすことを危惧し、早い段階での火消しを行った。

これまでこうして人の手によって歴史から消されていた女性たちの活躍を、この映画がしっかり描いてくれている。


以下のサイトから一部引用。
https://www.xibar.net/JOURNEE-INTERNATIONALE-DE-LA-FEMME-LES-MAMANS-DE-L-INDEPENDANCE-DE-DIABOU-BESSANE-Dix-sept-passionarias-sur-une-longue_a47916.html


[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-14 07:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
モーリタニアのビスケット
最近ブログアップペースが早いが、「暇」なのではなく、書きたいことがありすぎて週末や帰宅後に書き溜めている。こうやって仕事と関係ない記事を毎日のようにアップしていると、仕事をしていないように見えてしまうかもしれないので、ちょっと自己防衛(笑)。ちゃんと仕事もしています。


さて、先日、セネガル北部に出張した際、モーリタニアとの国境を接するロッソという町の近くで、一緒に出張したセネガル人が、「モーリタニアのビスケット」を買いたいので止まってほしいと車を止めた。このセネガル人がそう呼んでいるだけかと思ったら、運転手も買いたいと言い、露天の売り子に「モーリタニアのビスケットを欲しい」と言ったら、このビスケットを持ってきた。モーリタニアにもビスケットは沢山種類があるだろうに、セネガル人にとって「モーリタニアのビスケット」といえばこれらしい。
c0116370_06493234.jpg

10個入りで1000fcfa(約200円)。
c0116370_06492198.jpg
BRAVOというビスケット。材料は、小麦粉とベジタブルオイル、砂糖、塩、ミルクパウダー、重曹、重炭酸アンモニウム、香料、着色料、保存料。少し食べさせてもらったが、素朴なごく普通の味の奥に保存料のような化学的な味があり、なかなか食べ進めることができなかったが、セネガル人には親しみのある味らしい。運転手はミルクをかけて少しふやかして食べるそうだ。
c0116370_06494241.jpg




[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-13 05:25 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの王国シリーズ:シン王国2
前回の続き。


②イスラム教との闘い

12世紀頃からセネガルでもイスラム教が台頭してきた。北部のワロ王国、カヨール王国、フタ・トロ王国は早くにイスラムに改宗したが、南部、とりわけセレール族は伝統宗教を重んじ、イスラム教改宗に最後まで抵抗した歴史がある

1443年、シン王国は23代王Diogo Gnilane Dioufの時代に、イスラム教のマラブMamadou Koungoの軍と戦争になったが勝利し、1867年には48代王Coumba Ndoffene Fa Maak Dioufの時代に、かの有名な(という修飾語をつけていたが私ももちろん知らず)ソンブの戦いで、マラブMaba Diakhou Baの軍を破っている。余談だが、この戦いでは、伝統信仰の占いで雨を降らせたことで勝利に導かれたとされており、この占いの儀式は現在も続いているそうだ。特に農期が始まる前に豊作を祈って行われるこの儀式は、現在セネガル国内の文化遺産となっている。

19世紀は、イスラム教への抵抗、キリスト教への抵抗、そしてフランスの植民地化へ抵抗が重なり、各地でレジスタンス運動が繰り広げられていた。帰宅後にこの時代の歴史を調べながら、セネガル人の映画巨匠ウスマン・センベーヌの『Ceddo』という映画を思い出した。この時代の社会を描いたフィクションで非常に興味深い映画なのだ。これは後々紹介しよう。


③階級社会の始まり

王国が形作られてから、これまで全員平等だった社会に階級が導入された。鍛冶屋、グリオ(口誦詩人)、織物師など、それぞれ居住区も分けられていった。下の写真はかつての王宮の図で、丸く囲われた部分が王宮で、王や妻たち、長老などの住まいがあるが、王宮の外に書かれている地区の名前は、それぞれの階級が住む地区を表しているのだそうだ。
c0116370_19452932.jpg


④王や女王のお墓

王宮やチウパン女王宮の敷地内に、王や女王のお墓がある。全てのお墓が現存しているわけではないが、誰のお墓か判別できるものは修復されて名前が書かれている。

これはシン王国最後の王Mahécor Dioufのお墓。1924年に先代の王を継ぎ、1969年に亡くなられるまで君臨した。
c0116370_19441120.jpg

奥にある太鼓はDjoundjoungと呼ばれる。王が関わる場面でしか使われない太鼓で、現在もこうして王を見守っている。
c0116370_19443458.jpg

下の写真の左の方が、シン王国最後の王Mahécor Diouf。右のDjoundjoungを持っている男性は、王専属のグリオ。
c0116370_19453835.jpg

2代前の王のお墓。1897年~1924年まで統治したCoumba Ndoffene Diouf王
c0116370_19444582.jpg


バオバブの木の下にある四角いお墓が、王宮の敷地内に点々としている。お墓の形はないが、このバオバブの下にも数名の王が眠っているらしい。
c0116370_19445743.jpg


女王宮の敷地内のお墓。
c0116370_19451083.jpg


⑤王国の終焉

フランスの植民地化が進んだことが、王制の廃止に大きな影響を及ぼした。フランスはセネガル側に共和制の導入を義務化し、その間に当時存在した王国と協議の場を設け、王族の特権の廃止に向け動いた。シン王国の最後の王Mahecor Dioufとの協議はカオラックで行われ、王族特権を放棄するかわりに、ジャハオ州の州知事になることを提案し、合意された。しかし、セネガル独立後も、1969年にMahecor王が亡くなるまでは、象徴としてシン王国の王として存在し続けた。


*********************

一か月も訪問者がいなければ博物館を管理する方も予算を付けられないのだろうが、展示物は埃が被っており、周囲の金網は一部が壊れており、このままでは日の目を見ないまま葬られてしまいそうだ。ものすごく貴重な歴史を伝える博物館なだけに、もう少し広報すればせめて外国人は集まる気がする。おそらく、こういう歴史は全て口承で伝えられてきたもので、文字に起こすのは大変な作業だったと思う。微力だが、こうしてブログで広報することで訪問者が増えるといいなあ。関心のある方はご連絡をいただければ、鍵の所有者の連絡先をお教えします。





[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-11 03:57 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの王国シリーズ:シン王国1
セネガルには、かつて7つの王国が存在した。

ジョロフDjoloff
ワロWaalo
カヨールKayoor
フタトロFuta-Toro
バオルBawl
シンSine
サルームSaloum

の7つである。

正確にはジョロフ王国が他の6つを封建下に置いていた時代もあったが、最終的に各王国が独立して存在している。他にも小さな王国は複数存在したが、主な王国はこの7つ。

その後、1960年にセネガルが独立してからは、王国が徐々に消滅していったが、その名残は今でも残っている。

先日その一つの王国であるシン王国(Royaume de Sine)のかつての中心地ジャハオを訪れた。偶然、2014年にジャハオ・エコミュージアムEcomusée de Diakhaoがオープンしたという記事を発見して行ってみたくなり、ちょうど近くに長期出張している方をお誘いし、一緒に行ってきたのだ。一緒に言った方に「選択が渋いね」と言われたのだが、まさにその通りで、こんな田舎町の小さな博物館を訪れるためにダカールからわざわざ週末を潰して一緒に行ってくれる方はなかなかいない。しかし、長くセネガルに関わっている方もなかなか知らない歴史でとても興味深いのだ。

c0116370_19435642.jpg

観光するにあたり、博物館の開館時間を事前に知りたかったのだが、どう頑張って探しても分からない。ジャハオが属するファティック州にも観光案内所はなく、どこに電話していいかも分からない。もうこれはとにかく行ってみるしかない。日曜は開いていない可能性が高いので、土曜に訪問できるように予定を組んだ。

****************

当日、ジャハオの町に入ったところで、通行人に博物館の場所を聞いてみた。Googleマップにはまだ博物館は載っていない。一人目は分からなかったが、二人目が場所を教えてくれ、なんとか到着。しかし、閑散としており誰もいない。鍵が締まっており中にも入れず、警備員がいる様子もない。そして周囲にも誰もいない。さて誰に聞いてみたら分かるのかと考え、市役所に行ってみることにした。この日、市役所は通常誰もいないはずなのだが、4月4日の独立記念日のイベント前の会議で、幸運にも関係者が集まっており、市長の第一秘書という方と話ができ、なんとも運よくこの方が博物館の鍵を持っており、会議の後に案内してくれることになった。「ここ1か月以上誰も来ていなかったよ」と話しており、相当渋い選択だったことを再確認した。

        博物館内の写真。
c0116370_19460022.jpg

c0116370_19461112.jpg

****************

シン王国は、1185年にMaysa Waly王から始まった。

もともとMaysa Waly王は、マリ南西部からセネガル南東部、ギニアビサウとギニアの一部を統治していたガブ王国(Kaabu、Kabou、Gabouと様々な呼び方があるらしい)の子孫なのだが、当時本国で戦が絶えなかったことから、一族の全滅を危惧した当時の王が子孫をお付きのものたちと共に逃がし、王国がないところで王国を設置するよう言い渡した。

マリから移動してきた彼は、セネガルのMbisselという村に腰を下ろした。ジョアルとフィムラの間にあるMbisselはセレール族の村だったが、Maysa Walyが醸し出す一族を率いる者としての尊厳を評価し、住民も彼らを受け入れ、ガブの女性とセレール族の男性を政略結婚させることで、彼を王様と認め、シン王国が成立した。

こうしてカブ王国のマンダン族とシンの土着のセレール族をルーツとするゲルワGuelwarが誕生した。ゲルワは民族区分ではなく、シン王国(サルーム王国も含むが)の王族血統のことを指す。セネガルでは、ゲルワもセレール族の一つとみなされており、セレールの言葉を話すようだ。

カブ王国の統治図。現在の国境がないため位置関係が分かりにくいが、ところどころ分かる地名から、セネガル南部と南東部が中心に描かれていることが分かる。後のシンSine王国は左上に書かれている。
c0116370_19451941.jpg


ちなみにカブ王国の創設者は、マリ帝国の創設者Soundiata Keitaの軍曹だったらしく、この記事も思い出した。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画


初代王が王国を設置したMbissel村から最終的にジャハオが首都になるまでに8回都が変わっている。Ndiol Mangane村、Ndiongolor村、Somb村、Sanghaïe村、Mbimor村、Bicole村、そして八代目の王Wassila Fayeがジャハオに首都を移し、その後57代続く王たちは、この地を中心に統治したそうだ。


①女系の王位継承

シン王国には、「王宮」「女王宮」が別々の場所にあり、現在王宮跡には王族の子孫が住みながら代々の王のお墓を守っており、女王宮跡は博物館として囲われ、女王たちのお墓が守られている。王と女王と訳すとややこしいのだが、英語でもKingとQueenであり、日本語でどう訳していいのか良く分からない。王の正室とも違うのだ。これを理解するにはまず王位継承の仕組みを理解しなければならない。

マダガスカルでもブルキナファソでもそうだったが、シン王国でも女系優位だったようだ。特に王位継承権は、ブルキナファソのロビ族の遺産相続権(ロビ族の国、ガウア旅行序文~ロビ族とは)と同じだ。王位の継承権は、王の子どもではなく、王の姉妹の子どもにある。つまり、王の妻が産んだ子が本当に王の子かは立証できないため継承権はないが、王の姉妹が産んだ子は確実に王族の血を受け継いだ子だと言えるため継承権がある(王族血統の妻をもらった場合は例外)。当然男兄弟の子どもは継承権がない。

王が亡くなると、Grand Jaarafと呼ばれる現在でいう首相のような役割の長老が、姉妹の子どもたちの中から王位継承者の男性を任命する。必ずしも女兄弟の中の長女の長男が継承するというわけではないらしい。継承者に相応しい人をGrand Jaarafが見極めるそうだ。

この女系優位の社会が女王宮の存在意義を高めた。ウォルフ語では女王のことをLingeerリンゲールと呼ぶが、シン王国において「リンゲール」は王の母であり姉妹であり母方の叔母であった。特に18世紀頃から、「リンゲール」の地位を正式に設けており、各王が母、姉妹、叔母の中から最も信頼できる人を「リンゲール」に任命している。王の正室の位はリンゲールよりも低い。この女王宮は別名「Thioupaneチウパン」という。土地の名前かと思ったら、リンゲールの宮殿の呼称らしく、この言葉そのものに意味があるのかはよく分からなかった。リンゲールの写真。
c0116370_19454952.jpg
長くなってしまったので、2回シリーズに分けることにしよう。
次回に続く。

[PR]
# by iihanashi-africa | 2018-04-10 04:06 | セネガル | Trackback | Comments(0)