カンボジア旅行2日目:クメール・ルージュの爪痕2/2
カンボジア旅行前の気分を高めるために
カンボジア旅行2日目:クメール・ルージュの爪痕1/2

2日目 午後

キリング・フィールド

プノンペンから15kmのキリング・フィールドは「チュンエク大量虐殺センター」とも呼ぶ。前回の記事にも記述した通り、343の処刑所(キリング・フィールド)の一つである。ここも音声ガイドがあり、とても丁寧な説明がある。

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入口からは、犠牲者の遺骨が保存されている慰霊塔が正面に見える。


c0116370_0561579.jpg慰霊塔のすぐ横に大きなタマリンドの木があるが、嘗てはここに写真のような小屋があり、トゥールスレンからトラックで運ばれてきた人々が押し込められていたらしい。当初は週に2~3回だったのが、ポルポト政権最後の頃は毎日のようにトラックがやってきた。


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殺戮には、化学薬品が使われることもあった。土壌から化学薬品の反応があり、その一部がこうして囲われている。


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遺骨が発見された場所の一部を囲ってあり、お祈りの場所となっている。


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カンボジアの方々に限らず、上座仏教の国ではミサンガのお守りを手首に巻いているのを見かけるが、こうして捧げることもあるようだ。


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亡くなった方々の衣類。
実は、センター内を歩いていると、まだ拾われていない衣類がや遺骨が土から顔を出しているのを見かける。まだ全ての遺骨は拾い切れておらず、雨で表層土壌が流れて一部が見えると、センターの関係者が拾い、追悼するのだそう。


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キリング・ツリーと呼ばれる木。
その名の通りここで特に子供たちが処刑された。


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この地はもともと中国人の墓地だったため、墓碑も残されている。


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最初に正面から見た慰霊碑だが、中に入ることもできる。


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中には無数の遺骨が保存されており、頭部の遺骨の傷からどのように殺害されたかが分かるようになっている。想像もしたくないが、何万人もの人々を処刑した刑執行者はどのような思いだったのだろうか。洗脳されているとここまでしてしまうのだろうか。あるいは執行しないと自分も殺されてしまうという恐怖だったのか。



この時、国際社会はカンボジアをどのように見ていたのだろう

当初からポルポト派を支援していた中国は別として、日本はいち早くポルポト政権を認めた国だった。1976年のこと。1979年にベトナム軍がプノンペンを陥落し、親ベトナムの政権が確立すると、これを認めないアメリカなどの働きかけで、ポルポト派が国連の代表権を得ている。当時はこれだけの虐殺があったことを把握できていなかったのだろうか。

ポルポト派は徹底した秘密主義を貫いた。その秘密主義が結局仲間すら信頼できない状況を生み出し、最終的に内部分裂を引き起こすことになるのだが、「最高指導者ポルポトとは一体、誰でどういう経歴を持つのか、国内ではいったいどういう政策が実行され、何が行われているのか。西側メディアの取材にはほとんど応じず、ポルポト派の実態は西側には伝わらなかった。」
~『人はなぜ殺したのか』より~

1999年、当時のアメリカのクリントン大統領の提唱で、国連の専門家グループが国際法廷の設置を勧告。しかし、カンボジア政府と国連の交渉は難航し、そのうちアメリカも手を引き、日本が引き継ぐことになった。2003年にやっと合意し、5人のポルポト派元幹部が裁かれることになった。元ポルポト派ナンバー2のヌオン・チア、元外交担当副首相のイエン・サリ(2013年に死去)、元国家幹部幹事長のキュー・サムファン、イエン・サリの妻でクメール・ルージュ指導員だったイエン・チリト(2015年に死去、姉はポルポトの最初の妻)、そして、トゥールスレンセンター長だったドッツィ同志
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ポルポトは、1998年に仲間だったタ・モク元参謀総長に人民裁判にかけられて終身刑を宣告され、軟禁されたまま亡くなっている。

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最も早く刑が確定したトゥールスレンのセンター長だったドッツィ同志。


裁判では、直接的あるいは間接的に悲劇に加担した欧米、日本、中国の責任は問われない。「元幹部を法廷で裁くことで「正義が実現された」として歴史のページを無理やり閉じようとしている。私にはそう見えた。歴史を3年8カ月だけ切り取り、その範囲の中だけで断罪する裁判がもたらす正義とは何なのだろうか。約1億8千ドルを費やすそのような裁判の歴史的意義はどこにあるのだろう。」~『人はなぜ殺したのか』より~


*************************

早くもカンボジア到着2日目にして、学ぶことの多い日となった。

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キリング・フィールドまでは、郊外の穏やかな風景を見られるので、トゥクトゥクで行くのがいい。


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夜は、少しオシャレなクメール料理店へ。


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そしてプノンペンのナイトマーケットに立ち寄った。


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去年の台湾旅行を思い出す。
台湾もこういう屋台を回るのが楽しかった。


c0116370_1124729.jpg食事の屋台はそれほど多くないため選択肢は少ないが、味は美味しい。でも、全体的に濃い味だと旅行を通して感じた。なんだろう、ご飯と混ぜ合わせて味を調整して食べるからだろうか。


c0116370_1131315.jpg結構掘り出し物がある。




3日目に続く。


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# by iihanashi-africa | 2016-09-05 01:14 | カンボジア | Trackback | Comments(0)
カンボジア旅行2日目:クメール・ルージュの爪痕1/2
2日目 午前

カンボジア旅行でプノンペン、シェムリアップ、バッタンバンを旅行すると決めてから、その話を別の友人にしたら、「プノンペンとバッタンバンて見るところあるの?」と聞かれた。まだガイドブックやトリップ・アドバイザーから得る知識しかなかった私は、なるほどプノンペンとバッタンバンは何もないのかと思ったものだが、旅行してから、やはりどちらも訪れる価値は十分にあると感じた。バッタンバンは別途記述するとして、プノンペンはトゥールスレン虐殺博物館とキリング・フィールドを訪れるだけでも、来た価値がある。

トゥールスレン虐殺博物館


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朝、友人宅からトゥクトゥクでトゥールスレン博物館へ移動。


トゥールスレン(別称S-21)は、人々がクメール・ルージュに拷問を受けた約300ヶ所にわたる収容所網の極秘センターだった。ここでは、12,000~20,000人の人々が収容された。この収容所からの生存者で確認されたのは、わずか12名と言われている。

そしてここで言葉では言い表せないほどの厳しい尋問と拷問を受け、その後15kmほど離れたチュンエク村の「キリング・フィールドKilling field」に連行され、処刑され、埋められた。

クメール・ルージュポルポト派という言葉は知っていても、カンボジアを旅行しなったらここまで深く理解することはなかった。

博物館に到着すると、音声ガイドを手渡される。音声ガイドがオプションではなく、全員に手渡されるのはとても良いと思った。全員がヘッドホンをつけてガイドを聞きながらとても静かに見学しており、落ち着いた気持ちで見学できる。

c0116370_7525380.jpg博物館を入るとすぐに14基のお墓がある。
ポルポト派がプノンペンを制圧した1975年4月17日から3年8カ月の間に多くの方々が収容され、虐殺されたが、1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンを制圧してポルポト派を地方へ追いやってからこの収容所が発見された。その時に発見された14名の遺体が、トゥールスレン最後の犠牲者として葬られている。


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ここはもともと学校だった。こうしてみたら廃校に見える。
しかし中に入ると一変、鉄のベッドと繋がれた鎖の留め具、排泄物の入れ物が当時の様子で置かれている。


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学校を囲う塀はこうして頑丈な有刺鉄線で覆われている。


c0116370_7563583.jpg収容者に対して10の尋問規則というのがあった。「私の質問には必ずすぐに答えること」、「事実を隠してはならず、不満を言ってもならない」、「拷問を受けても叫んではならない」、「私の命令がない限り何もしてはならない」、「規則を守らなければ拷問を行う」など。
気になるのは、「私の質問」、「私の命令」など一人称で記述されていること。この「私」というのは、トゥールスレンのセンター長だったドッツィ同志であることが後々分かる。


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二つ目の校舎B棟は、独房だったようだ。一部は同時のまま残されている。そして1階は当時の貴重な写真が見られる。手前にある学校の遊具は、残念ながら拷問の道具として使われた。


中には、ポルポト派リーダーたちの写真が置かれている。カンボジア語で「組織」を意味する「オンカー」は、ポルポト政権下では革命組織や最高幹部を意味していた。全てはオンカーの下にあり、オンカーの命に従わなければ死を意味していたという。そして、彼らはニックネームで呼びあっており、本名を知らないものもいたという。もちろんポルポトも本名ではない。彼の本名はサロト・サルというらしい。

ただし、ポルポトを含む最高幹部たちは、プノンペンの進学校であるシワソット高等中学に進学し、のちに奨学金でフランスに留学した仲間たちのため、本名は分かっていたと思われる。フランスでは、数人のカンボジア留学生が反フランス活動について議論し、その後ポルポト政権で外交担当副首相となるイエン・サリを中心に秘密組織セルクル・マルクシストが創設された。のちにポルポト本人も1976年の毛沢東の葬儀で、ポルポト政権がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づいていることを認めている。

実はこの過激なポルポト派は、1975年4月17日にプノンペンに入城した際、一瞬だけ人々に歓迎されたらしい。その当時の写真が博物館に飾られている。

それは何故か。

1970年にロン・ノル将軍は、シアヌーク国王政権をクーデターで倒し、クメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノル政権はアメリカの支援を受けていたこともあり、ベトナム戦争中の北ベトナムからの攻撃を受ける。遡ってシアヌーク国王時代も、アメリカは南ベトナム解放戦線(ベトコン)にカンボジア国内の通行を許していたことに憤慨して、カンボジア南部や都市部を爆撃し、数百万単位での避難民を出している。この時アメリカがカンボジアに投下した爆弾の量は第二次世界大戦でアメリカが日本に投下した総量の1.5倍にのぼるそうだ。アメリカの支援を受けたロン・ノルがクーデターで政権を勝ち取ってからは、反米や政府批判を唱える者は次々に暗殺されていった。そのため、知識人たちはシアヌーク国王と手を結んだポルポト派に流れていったと言われている。

他方、ポルポト派もカンボジア南部に解放区を打ち立て、ベトナムとは一線を置いて政府に対するゲリラ戦を繰り広げていた。こうして国内の騒乱とベトナム戦争の影響から国が疲弊していた時、1975年4月17日、ポルポト派がプノンペンに入城した。人々は「やっと戦いが終わった」、「平和がやってきた」と歓喜したらしい。

しかし、その翌日から農村への強制移住国民の「再教育」が始まった。

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これが都市から農村部への強制移住のルート。


ポルポト派は農業と農民を基本とした独立国を目指していた。
農民が国のエネルギーであるとして、全ての人の財産・身分をはく奪し、全員が郊外の農村に移住させられた。知識人は、純粋な国家を建設するためには害にしかならないとポルポト派は考えた。再教育するという監視下で、多くがスパイ容疑をかけられ、処刑されている。

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そして、この建物には、処刑された一部の方々の写真が飾られている。どこのだれだか分からず、収容番号だけ持たされている。男性、女性、子供、そして外国人の写真がぎっしりと並べられている。


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音声ガイドでは、亡くなった方々の家族の肉声が流れてきて、彼らの気持ちに沿って写真を見ることができる。一人だけ帰国した父の行方が分からず、のちにこの博物館を訪れて端から端まで父の写真がないか探した女性の言葉に胸を痛めた。


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独房もこうして残されている。


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独房に一人で入れられることもあれば、数人で入れられることもあったそうだ。


確認できているだけで、カンボジア国内に167の収容所、343の処刑場所があり、そして現在77のジェノサイド記念碑が建てられている。

博物館の展示は、終わりになるにつれて、目を覆いたくなるような残虐な写真が掛けられてある。音声ガイドでも、具合の悪い方は一旦外に出てお休みください、といった案内が流れる。それでも、説明を全て聞く意義は十分にある。この博物館にはほんと来てよかった。

クメール・ルージュの話を纏めたら長くなってしまった。。。

2日目は2回に分けることにする。

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博物館の近くのTJカフェで、マンゴーサラダとフルーツスムージーを食し、午後はキリング・フィールドへ向かう。



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# by iihanashi-africa | 2016-09-04 08:12 | カンボジア | Trackback | Comments(0)
カンボジア旅行前の気分を高めるために
ソウル経由でカンボジアにやってきた。
カンボジアは日本からの直行便がないということを初めて知った(ただ、なんと最終日の9月3日に空港にいったらANAが飛んでいた。はて?と思って調べたら、なんと2016年9月1日、つまり2日前からANAが直行便を始めたらしい)。そして日本人もビザがいるということを。東南アジアでもそんな国があるということを。

今年5月下旬頃、ルクセンブルグ人の友人から「カンボジアに旅行に行こうと思うのだけど、一緒に行かない?」とメールが来た。同じ時期にブルキナファソで働いていたオランダ人の友人がプノンペンで働いており、プノンペンでは彼女の家にも泊まれるとのこと。

カンボジアか~。

東南アジアは10年以上前にタイに旅行したきりだし、行ってみたいなあ。

友人の休暇の時期はかなりフレキシブルみたいなので、私に合わせてもらえるようだし、少し考えて、「よし、行こう!」と決めた。

そしてサクッと航空券だけとって、あとは彼女に任せきり。
私がガイドブックを読み始めたのは8月に入ってからだった。

ガイドブックもいろいろあるが、日本のガイドブックでカンボジアというとアンコール遺跡周辺のことしか書いてないものがほとんど。やっぱり最後は全国をほぼほぼ網羅している「地球の歩き方」に戻ってくる。それに、地球の歩き方のカンボジア編は、アンコール遺跡の歴史から建築の見方まで専門家によって詳しく記述されており、旅行ガイドブックとは思えない詳しさである。

そしてそれに加え、最近は旅行前の気分を高めるために旅行先が舞台になっている小説を読むことにしている。今回は、これらを読んだ。

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まず、「夢は荒れ地を」を読み、地雷と売春とクメール・ルージュの傷跡とカンボジアの地理と人々の考え方に触れ、その後「人はなぜ人を殺したのか」で、ポル・ポト派の生の声を読んで、彼らの思想を理解した。

この2冊は読んでも楽しい気分にはならず、カンボジアの闇を深掘りするだけなのだが、やはり本を読むと一層関心が高まることには変わりない。

そうそう、ちなみに成田では久しぶりに飛行機の渋滞にはまり、離陸までにかなり時間がかかった。
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カンボジアの発展状況は、東南アジアの中ではまだ遅れをとっているかもしれないが、アフリカばかり行っている私にとって、飛行機から見た首都の広がりはやはりすごさを感じる。在留邦人は2500人いるらしい。やっぱり違う。

さて、これから、プノンペン、シェムリアップ、バッタンバンの10日間の旅が始まる。


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# by iihanashi-africa | 2016-08-28 01:58 | カンボジア | Trackback(1) | Comments(0)
ニジェール選手、自国史上2個目のメダル
リオ・オリンピックが終わった。

今年は珍しくオリンピック期間に日本にいたので、日本人選手の活躍を思う存分に感動を持ってみることができた。

でも個人的には多くの競技の世界各国のすごい記録を見たい。注目すべきはボルト選手やフェルプス選手だけではない。他にもものすごい記録が出ている種目があるのだが、日本では報道されない。だからと言って、海外にいたら全世界の活躍選手が見られるわけではない。

前回のロンドン・オリンピックの際はブルキナファソにいて、ケーブルテレビでオリンピックを見ていた。ただ、アフリカのフランス語圏のケーブルテレビは、やはりフランス系のチャンネルが多いので、フランス人選手が活躍するスポーツの中継が多い。柔道はまだよいが、テコンドーやらフェンシングやら乗馬やら。柔道も結局フランス人選手の試合しか流さないので、日本人選手を見ることもなく、フランス人選手が出ていなければ決勝の試合も見ることもできない。

こうしてみると、オリンピックは本当に国としての戦いを煽っているように見える。

私がこれまでにいたアフリカ諸国ではオリンピックが大々的に取り上げられることはなかった。やはりまだまだ先進国の祭典である。サッカーのワールドカップの方が、世界平和の推進という意味では貢献しているかな。でも女性が男性と同じ場で同じように活躍できるスポーツの祭典ではあるか。

当時の記事
ブルキナファソのオリンピック選手


ちなみに、リオ・オリンピックでメダルを取ったサブ・サハラ・アフリカの国は、常連国のケニア、南アフリカ、エチオピア以外に、コートジボワール、ブルンジ、ニジェール、ナイジェリアも目立たないながらも獲得している。ナイジェリアはサッカーだから知っている人も多いが、ニジェールのテコンドー選手が自国に史上2個目のメダルをもたらしたことを知っている人は少ないだろう。



さて、私は個人的に陸上のトラック競技が好きで、特に10000mと5000mを見るのが好きである。自分自身が5km~10km弱のジョギングをすることが多いから、凄さがよく分かるのかもしれない。今回は、イギリス人のモハメド・ファラー選手(もともとソマリア出身)の2大会連続2冠と、女子10000mのエチオピア人アヤナ選手の走りに目を奪われた。

ファラー選手の10000m
http://www.gorin.jp/video/5082494933001.html

最後の100mに注目して見てもらいたい。
感動したら、是非前回の世界陸上5000m、10000mの動画も探してほしい。10km走っても最後の100mを13秒で走る強さを持っている。すごい。

実は、もう一人、この種目で5位に入ったアメリカのラップ選手は、ファラー選手の練習相手で、ファラー選手を初め、ケニア、エチオピア勢に唯一ついていける白人選手で、これまたスタミナに感動してしまう。マラソンでも銅メダルをとり、今後も注目選手だ。

アヤナ選手の10000m
http://www.gorin.jp/games/ATTR/ATW100.html

8kmを過ぎたあたりから独走。そして驚異的な世界新記録。


やはり自分にはない才能と並々ならぬ努力を垣間見るのはいいものだ。


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# by iihanashi-africa | 2016-08-23 00:31 | 日本 | Trackback | Comments(0)
日傘を差す男性
先月の出張中、セネガルで日傘を差す男性を何人も見た。

最近日本でも日傘率が増え、私もそろそろ買おうかと悩んでいる頃、セネガルの男性も日差しを遮りたいらしい。

唯一写真におさめられたのが、ノト市場でニンジンを売っていたこの男性。

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実はダカール市内でも日傘を差す男性を何人も目撃している。
ピンクがかった可愛らしい傘をさしていた方もいた。

以前日傘を差す男性たちの写真を掲載したことがあった気がして探してみたら、写真家小松義夫さんの写真を掲載していた。この写真はトーゴ。NGO緑のサヘルの2009年のカレンダーの一枚。

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# by iihanashi-africa | 2016-08-12 23:41 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの高速道路
2006年にセネガルに滞在していた時、高速道路の完成図が載った大型ポスターが街中に掲げられており、こんな高速道路が本当に出来るのかと半信半疑で眺めた記憶がある。

しかし、本当にできた。
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当時行ったピキン地区も高速道路の脇に健在。
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2006年当時は、ダカール市内から郊外のゲジャワイまで移動するのに、恐ろしいほどの渋滞があった。今も渋滞はあるものの、かつてに比べたら整然としている。以前は、片側2車線の道路が、渋滞時にはなぜが6車線になり、前後左右囲われて身動きできない状態になる。バイクすらすり抜けられない状態。そして雨が降った時には、1ミリも動かなくなる。

その道を経験した者にとって、この高速道路は夢のようだ。
西アフリカ初の料金所付の高速道路だ。
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これまで、ダカール=ティエス間はいままでどれくらいかかっていただろうか。ダカールの人口増加や経済発展により車の数は増えて、交通渋滞は相変わらずだが、それでも整然とした交通渋滞となったと思う。


ダカール=ジャムニャージョDiamniadio間の高速道路の建設は、フランス系のEiffageグループのEiffage SenegalとEiffage TPが受注し、2013年8月に開通した。全長34km。

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そして、2014年2月、Eiffage SenegalとEiffage TPは、ジャムニャージョから新たに建設中のブレーズ・ディアーニュ国際空港(l’Aéroport International Blaise Diagne (AIBD))を繋ぐ16.5kmの高速道路延長工事を受注し、現在工事中である。


ちなみに、ブレーズ・ディアーニュ国際空港AIBDは、ジャムニャージョから更に13km南東に入ったディアスDiassという街に建設中の空港である。現在ダカール市内にあるレオポルド・セダール・千ゴール国際空港(Aéroport international Léopold Sédar Senghor de Dakar (AILSS))は、西アフリカの中心都市にしては非常に小さい空港で、既にキャパオーバーとのこと。新国際空港AIBDはハブ空港の役割を果たすことが期待されている。2007年4月から建設が開始されており、最近はセネガル政府と建設会社サウジ・ビン・ラディングループとの支払いに係る対立が原因で数カ月工事が中断していたが、やっと再開し、トルコ系のSumma-Limakグループが今年12月の完成に向けて工事を進めている。観光・運輸大臣は、2017年2月には最初の飛行機が飛び立つ予定と話しているが、本当に間に合うだろうか。

新国際空港AIBDイメージ図
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高速道路の話に戻ると、ティエスからセネガルのイスラム聖地トゥバToubaを結ぶ115kmの高速道路の建設も今年始まった。中国が832億円を有償支援し、中国企業China Road and Bridge Corporation (Crbc)が受注している。今後4年以内には完成見込み。

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近年、西アフリカは高速道路の建設ラッシュ。国内だけでなく、西アフリカ域内の高速道路建設も進んでいる。ブルキナファソのワガドゥグとコートジボワールのアビジャンを結ぶ高速道路、セネガルのダカールとコートジボワールのアビジャンを結ぶ高速道路、全ての都市の距離が近くなるのも、そう遠くはない。


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# by iihanashi-africa | 2016-08-03 01:32 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルの地方都市の町並み
セネガル出張前に、アフリカにおける農業支援について一般の方々を対象にお話しする機会が2回あった。一つは大学生、もう一つは横浜市民の方々。

最初に大学生向けにお話しした時は、背景を説明しながらもいきなり農業支援の話をした。みなさん、途上国支援の知識や貧困についての一般知識はあったため、十分に話についてこれているように見えた。質問もとても鋭く、さすが大学生だなと思ったほど。ただ、質問の中で、「貧困という言葉は聞いているのですが、実際アフリカの貧困の方々はどのような生活をしているのですか?」という質問があった。なるほど、勉強はしているけれどイメージが湧かないのか。

私もおそらくアフリカで仕事をする前はこういうふわっとしたイメージしか持っていなかったはずだが、もうその感覚を忘れてしまっていた。

そこで、横浜でお話しする時は、農業支援の話をする前に、アフリカで農業がどのように営まれているのか、アフリカの農村の方々がどのような一日を送っているのか、ある一家族の生活を写真で疑似体験しながら紹介した。

そのプレゼンを作成する際に感じたのだが、私は普段大量に写真を撮っているはずなのに、農村の一般の生活を撮った写真がとても少ない。何気ない村の様子、町の様子を撮った写真がない。既に見慣れすぎていてなんの新鮮味も感じない日常風景が、こういうプレゼンを作るときに重要になってくることを今回実感した。

なので、早速、セネガルの地方都市の写真を撮ってみた。

写真は、ティエス州チワワン県ダルフドス市Darou Khoudoss の町並み。県都ではないため「都市」というのは大げさかもしれない。「村」よりは大きく「街」より小さいくらいの大きさかな?
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この写真はダルフドス市の市役所の入口。
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これはダルフドス市から5kmくらい離れた村の風景。
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これは別の市のある農家さんのお宅の写真。
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ちなみに、ダカールの写真もどうぞ。
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今後もこういう地方都市の写真は撮りためておこう!!

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# by iihanashi-africa | 2016-07-26 07:39 | セネガル | Trackback | Comments(0)
コロッソルの木
サワーソップ(仏語ではCorrosolコロッソル)という果物がある。バンレイシ属。

以前、「牛の心臓」という同じ属性の果物を紹介した時にちょこっと写真を載せた。
「牛の心臓」という果物

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コロッソルはアフリカの各地で見られるが、私が滞在したことのある国の中で、特にカメルーンやマダガスカルはコロッソルが大量にマーケットに出回っていた国だった。上の写真はカメルーンで撮った写真。

今回セネガルの出張で、初めてコロッソルの木を見た。
フランス語でコロッソルの木をCorrosolierと呼ぶらしい。

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特に特徴のある木ではないので、実がなっていなかったら通り過ぎるところだった。

Wikipediaにコロッソルの花の写真があるが、花はかなり特徴がありそうだ。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Corossol#/media/File:Fleur_corossole2.JPG


近くのマーケットに行ったら、小売りのおばさんが野菜に紛れてコロッソルを売っていた。
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# by iihanashi-africa | 2016-07-24 21:00 | セネガル | Trackback | Comments(0)
スマホの画面が割れた時にはマウスを使う
セネガルに到着して以降、フランスのテロ、トルコのクーデター未遂、ドイツのテロと、テレビをつけるたびに、はぁ今日は何が起きたのだろうかとドキドキしながらテレビをつける。

こういうニュースを見ると、もう一歩も外に出たくなくなる。悲しい。

**************************

もう一つ悲しいことがあった。

セネガルで地方の現場視察の際、スマホを落として画面が割れてしまった(涙)。

結構派手に蜘蛛の巣状に割れた。
かなり下の方までひびが入り、タッチパネルが全く反応しなくなってしまった。

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割れた画面の先にメッセージが入ってきているのは分かるが、タッチが反応しないから開くこともできない。そして電源を切ることもできない。電源を切るには、スマホの右脇のボタンを押し、画面に出てきた「電源を切る」というところをタッチしないとならないが、タッチができない。パソコンの強制終了のように右脇のボタンを長押ししてみたが、スマホは強制終了をできないらしい。

なぜ電源を切りたかったかというと、毎朝目覚ましアラームが7時に鳴ってしまうのだ。7時に起きる必要がない時もアラームが鳴るので起きてしまう。アラームを消すこともできず、電源も切れず、あとはバッテリーが切れるのを待つのみ。スマホも全く使わないと意外にバッテリーがもってしまう。

日本に戻ってから修理しないとならないが、日本で携帯が使えないのは不便なので、セネガルで修理できないか日本人の友人に聞いたら、やっぱりやめた方がいいという。特に私のスマホはXPERIAで、セネガルではあまり出回っていないため、修理するとなると似たようなスマホの画面をはめることになり、接触が悪くしっかりと反応しないこともあるらしい。まさに友人自身の経験である。なので帰国まで待つべきだとアドバイスをもらった。

そして、なんとマウスを使って操作できることを教えてもらった。

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知らなかった~~~

友人がUSBホスト変換アダプタケーブルを持っていたので、借りて使うと、、できた!!!パソコンと同じように操作ができる。上の写真にカーソルが写っているのが分かるだろうか。

帰国したらこのケーブル買っておこう。

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# by iihanashi-africa | 2016-07-23 07:14 | セネガル | Trackback | Comments(0)
何歳という問いに生まれ年を答える
セネガルの現場視察に同行している農業省の方の見た目が若く、またその上司の局長も非常に若く見えるので、出張者の中で何歳だろう、40代後半だろうか、局長も同年代だろうかと想像しながら話していた。

よし、ご本人に聞いてみようということで、
「ケベさん、何歳ですか?」
と聞いてみた。

すると、
「私は68だ」
という。

えっ、なんですと?

「えっ? では、局長は何歳?」

「局長は65のはずだよ」

は???? 45歳に見える方が68歳の訳がない。
最初は冗談で言っているのかと思ったのだが、一瞬考えて「あっ、なるほど生まれた年か」と分かった。つまり、ケベさんは48歳、局長は51歳。

***********************

出張中、レンタカーの運転手がユッス・ンドゥールというセネガルの超有名歌手の音楽を聴いていた。

「ユッス・ンドゥールって何歳だか知ってる?」

「確か59だったはず」


へえ、そんな歳になったのか。。。あれ?なんかおかしいな。

「それって、1959年生まれということ?」

つまり56歳か。

********************

実はフランス語だと、

私は56歳は「j'ai 56」
私は56年生まれは「je suis de 56」

結構違うのだが、年齢を聞いたら年齢を答えるだろうという先入観から56歳とふと勘違いしてしまう。

セネガルで年齢を聞いて、生まれた年を話す人に2人もあった。
これってセネガルでは一般的なのかな?


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# by iihanashi-africa | 2016-07-16 07:33 | セネガル | Trackback | Comments(0)
砂地で車がスタックした時の脱出方法
セネガルの首都ダカールに行くと、砂地の土地に来たことを実感する。もともと砂地なのだが、砂漠に近いからではなく、海岸沿いだから。

以前の出張で、セネガルの第2の都市ティエス付近のKayar(カヤール)というコミューンに行った。ここは海の近くのため砂丘が続く。

そこで、車がスタックした。。。

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後ろのタイヤは半分近く砂に埋まってしまい、前にも後ろにも進まなくなってしまった。経験の少ない運転手だと、ここで更にエンジンをふかしてジタバタと脱出しようとして深みにはまる。


今回も深みにはまってしまった。そして何をしたかというと、まずはタイや周辺の砂を手でかき分け、タイヤと砂の間に滑り止めとして様々なごみを置く。

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何を置いたのかと思ったら、、、、


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靴だった。


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布きれという手もある。


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とにかくこうして各タイヤの下にものを置き、脱出作戦が開始する。


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運転手はゆっくりとアクセルを踏み、他の人たちはこうして車を押す。
ハイテクのあがきを、ローテクの馬車が達観している。


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意外にも苦戦。


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やっと車は脱出したのだが、同じ車でこの先にある野菜の畑へ視察に行くのは困難として、馬車で行くことにした。


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馬車の荷台に乗って約30分。
砂丘の中に野菜畑が見えてきた。
この辺りは、水はけがよすぎるということもあり、栽培できる作物が限られている。多くは、ジャガイモとニンジン。


今回お話を聞く農家組合の代表の畑。1ヘクタールのジャガイモ畑。
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収穫後はこうして近くの市場まで持ってくるが、やはりこの辺りはロバではなく馬が多い。


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# by iihanashi-africa | 2016-07-14 03:33 | セネガル | Trackback | Comments(0)
「依存症という病」
昨日羽田を出発し、セネガルに向けて移動中。
久しぶりの出張は3週間。こんなに慌ただしく出発することは滅多にないのだが、出発前が怒涛の忙しさだった。

さて、セネガルの話題に入る前に、日本の記事を一つアップしておこう。

***************************

先月、山梨県中央市で開催された第6回山梨ダルクセミナーに参加してきた。

ダルクDARCとは、Drug Addiction Rehabilitation Center(薬物依存症回復施設)の略で、日本で最初に開設された、民間薬物依存症リハビリテーションセンター。創立者の近藤恒夫(現在日本ダルク代表)の本「薬物依存を越えて‐回復と再生のプログラム‐」は、過去の記事でも紹介した。

『薬物依存を越えて』

ダルクは、1985年の東京都荒川区東日暮里での開設を皮切りに、現在全国に40ヶ所53施設がある。責任者・スタッフ・利用者全員が当事者であり、薬物依存症者が薬物依存症者の回復を手助けする治療スタイルをとっている。

欧米諸国ではドラッグコート(薬物専門裁判所)が設けられ、刑務所「犯罪→矯正」ではなく、薬物依存プログラム「病気→治療」にシフトした対応が施される。残念ながら日本は精神論が根強い。再犯率60%と言われる覚せい剤事犯。国家の矯正教育を繰り返し受けても何も変わらないという結論に至ってもおかしくない。ここ10年、刑務所で行う薬物乱用防止教育をダルクが請け負うケースが増えた。欧米諸国に数多く存在する薬物依存症治療施設は、そのほとんどが国家運営である。しかし日本には、そのような施設がダルクという民間施設しかないのが現状である。
(一部、平成21年3月16日の山梨日日新聞に掲載された山梨ダルク施設長の記事を引用)

c0116370_93436.jpg山梨ダルクhttp://yamanashi-darc.jp/)は2008年2月に設立された。私の両親は山梨ダルクの設立当時から支援しており、現在は母が理事を務めていることから、様々なセミナーの開催のお手伝いをしている。母自身、精神科の病院で勤務した後に保健所に長く勤め、その間に様々な依存症の方々のお世話をしてきた経緯がある。多くの方は、ダルクの活動を理解することはあっても、深く関わることは避けてしまいがちなところ、支援しようと躊躇せずに思ったのはこれまでの母の経験が活きていたのだと思う。私も山梨ダルクのみなさんのご尽力を機会ある毎に聞いており、何が出来るわけでもないが、山梨に戻れるときはセミナーに参加している。


*************************

先月6月11日のセミナーは、山梨県中央市立玉穂総合会館で開催されたのだが、祝辞で話された市長が「この会場にこんなの多くの方が入られたのは初めてかもしれない」と話されていた。同じことが数年前に山梨市の会場でも起きていた。のど自慢でも起きなかった立ち見が出た。

この集客力は全てダルクのみなさんが足で稼いだもの。
山梨市で行った時は、商店街を一軒一軒歩いてポスターを張っていただくようお願いしたのだそう。母が知り合いのところにポスターを持っていったら、「もう来たわよ」と言って既に店頭に貼ってくれていたらしい。

今回のセミナーはプログラムもよかった。

様々な自助グループに参加する方々の発表だけでなく、川崎ダルクメンバーによる琉球太鼓演舞富山ダルクメンバーによる和太鼓の演奏もあり、イベントとして楽しむこともできた。そして同時に、依存症に苦しんでいる当事者やそのご家族が会場にいたとしたら、ここだったら入ってみてもよいか、ここだったら預けてみたいと思ったと思う。

**************************

今回、私は埼玉県精神医療センターの成瀬先生のプレゼンから多くを学んだ。

①本音を言える場所

依存症に共通した人間関係6つの問題
1.自己評価が低く自分に自信を持てない
2.人を信じられない
3.本音を言えない
4.見捨てられる不安が強い
5.孤独で寂しい
6.自分を大切にできない

依存症からの回復とは、人の中にあって癒されるようになることである。それは、この6つの問題と向き合って、解決していくことであり。しかし、6つはどれも大きな問題であり、簡単に解決するとは思えない。しかし、その突破口となるのが「本音を言えない」である。「本音を言えるようになること」つまり、「正直な気持ちを、安心して話せるようになること」を徹底して行うことが回復への突破口となるのである。

その突破口の鍵となるのが、自助グループである。
「正直な気持ちを安心して話せる場所」をもてれば、そこで人は癒される。人に癒されるようになると、酔う必要はなくなる。

セミナーで、25年間アルコールを絶っているというアルコール依存症の方が話されていた。25年もアルコールを飲んでいないので、既にアルコールの味すら忘れてしまっているのだが、それでも今も定期的に自助グループに通って、昔の話をしていかに自分の素行が悪かったかを思い出す必要があると。

依存症がアルコールや薬物を使うのは、単に面白おかしく快楽を求めると思われがちですが、実は、人に癒されることができず生きにくさを抱えた人の、「孤独な自己治療」という視点が大事なのだそう。

②薬物依存の治療は「誰が」治療を行うかが重要


薬物依存の治療の成否は、「どの治療法を行うか」ではなく、「誰が治療を行うか」にかかっている。

「誰が」とは、「共感性が高いこと」「偏見や陰性感情から解放されていること」を示す。「患者を治してやろう」、「変えてやろう」、「正してやろう」という思いは、患者との信頼関係を築くこととは逆の考え方である。変わるかどうかは、患者自身の問題。治療者が患者を変えようとすることは、「コントロール」であり「支配」になる。変えてやろうとすると、変わらない患者に対し怒りが出てくる。許せなくなり排除しようとする。つまり患者を傷つけ見捨てることになる。

③共依存とは

先生の話の中で、「共依存」という言葉が出てきた。
私はこの言葉を間違って解釈していた。家族に依存症患者がいて、何らかの理由でその家族も薬物依存あるいはアルコール依存などの依存症になってしまうことだと思っていた。それも含まれているが、実はもっと広い意味を持っていた。

ギャンブル依存の旦那さんがいるとする。旦那さんは毎日ギャンブルをするためのお金を探す。奥さんは旦那さんがお金を使わないように、様々な手を使ってお金を隠す。そんなイタチごっこ状態が続くと、毎日奥さんは、今日はどのようにお金を隠そうとか、どんな嘘をついてくるだろうとか、四六時中いかに旦那さんにお金を渡さないようにするかということばかりを考えるようになる。それもまた依存症なのである。これが、まさしく共依存である。



私のブログは、熱が入ると長く書きすぎるのがたまにキズ。

また9月に山梨ダルクがセミナーを2か所で開催する。

是非皆さんもご参加ください。

意識が大きく変わります。


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# by iihanashi-africa | 2016-07-11 09:13 | 日本 | Trackback | Comments(0)
高知FDのラシィナ選手が急成長 ~高知新聞の記事~
先日ラシィナ選手の記事(高知旅行⑤:高知ファイティングドッグスのブルキナファソ出身ラシィナ選手)を書いたが、昨日7月1日付の高知新聞の記事でも、ラシィナ選手が取り上げられており、それも内部にいる方でないと分からない目線で記述されており、そしてラシィナ選手の気持ちがそのまま表れており、感無量である。

高知新聞の記事
http://www.kochinews.co.jp/article/32201

なるほど、あの時の本塁打はこういう心境だったのかと。
ラシィナ選手の練習に取り組む姿勢が、彼の将来の可能性を感じさせるようだ。

是非一読を。

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# by iihanashi-africa | 2016-07-02 23:53 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
高知旅行⑤:高知ファイティングドッグスのブルキナファソ出身ラシィナ選手
高知に旅行することを決めてから、あっ!!!!!そうだ、ラシィナくんが高知にいるんだったと思い立ち、会いに行くことを決めた。

以前も2回ほどラシィナくんの記事を書いたのでご紹介。
ブルキナファソ初のプロ野球選手誕生
ブルキナといえば「野球」

c0116370_143150.jpg高知ファイティングドッグスと言えば、最近ノンフィクション小説「牛を飼う球団」を出版した。早速購入して読み始めたら、一晩で読んでしまった。知っている人が登場人物として出てくると、とても気持ちが入る。そして感動する。これを読むと球団オーナーの思いと人柄がここまでの球団に育った理由だと思えるようになる。そしてこういう方の周りには思いを共有できる熱い仲間が集まってくるのだと。


1) ラシィナくんの練習を見に行こうと決める

さて、ラシィナくんの話に戻ると、私自身はラシィナくんが2回目に日本へ出発する前の壮行試合「ブルキナファソ対日本(@ワガドゥグ)」で会ったのが最初で最後。特に個人的に親しい訳ではない。でも、とにかく今現在彼が日本人の中で活躍している姿が見られればと思い、まずは球団のホームページ(http://www.fighting-dogs.jp/)で試合のスケジュールを確認した。すると、私たちの旅行期間3日間のうち、5月27日は徳島28日は愛媛とアウェーでの試合。唯一29日だけはホームでの試合だったが、ナイターということで私の飛行機の時間に間に合わないため見られない。それでも練習だけでも見たいと思い球団に連絡してみたら、突然の電話にもかかわらずとても親切に対応していただき、練習が始まる時間を教えてくれた。ただ、この日は室内練習で見学は出来ないため、練習が始まる前の12時半頃に球場に来てくれたらラシィナくんに会えるだろうとのこと。なんとかその時間に間に合うように向かった。

****************************

2) ラシィナくんへのお土産を考える

高知に行く前、ラシィナくんに会いに行こう!と決めてから、何かお土産を持っていこうと考えた。何かブルキナファソを思い出せるもので高知では入手し難いもので思いついたのがブルキナファソの食材(後から聞いたのだが、ラシィナくんはもう日本食に馴染んでいるらしい)。といっても、東京でも入手できるものは限られている。私が唯一思いついたのはフトゥというヤム芋やバナナを餅のようについて、様々な味のソースをつけて食べる料理(ブルキナ料理一覧)。もともとブルキナファソの料理ではなく、ガーナやコートジなど海岸沿いの芋やバナナが収穫できる地域の料理ではあるが、ブルキナファソでも広く食べられている。そのフトゥの粉なら上野で購入できる。

しかし、ネット注文すると数日かかり、お店は19時で閉まってしまう。仕事が忙しかったので、19時までにお店に行くのは難しく、ネット注文だと旅行までに間に合わない。さて、どうしようかと考えた時に、ふと、レストランを経営するブルキナファソ人の友人を思い出した。あの人だったら食材を持っているに違いない! 早速電話したら、「もちろん持っているから取りに来たらあげるよ」と。そして、仕事の後、夜遅くに取りに行ってなんとかフトゥの粉を受け取った。その時友人が、「それどうするの?」と聞くので、かくかくしかじかで高知にいるブルキナファソ人にお土産で持っていくのだと話すと、「それなら、ベンガを持っていくべきだ」という。ベンガとはササゲを煮込んだ豆料理。「フトゥは一般家庭ではあまり食べられていないから、知っている人もそんなに多くないと思うよ」と。なんと、、、少なくとも首都ワガドゥグの人々にとっては十分に浸透していると思っていたけれど、そうではないのか。。。

そして、友人のアドバイスを得て、フトゥの粉とベンガ用の豆を持っていった。

***************************

3) ラシィナくんに会えた


高知球場に到着し、しばらくしてからラシィナくんが出てきた。私は一方的に知っていたのだが、ラシィナくんにとって私はほぼ初対面。もともと控えめな選手で、更に初対面の私たちを前に少し緊張した面持ちだったが、なんとか少しずつ打ち解けていった。そして、お土産に持ってきたフトゥとベンガを渡すと、ぼそっと「あっ、ベンガ」と反応してくれた。実は球場に行く前に、ブルキナファソの元野球協力隊員で高知ファイティングドッグスで働いていた方に連絡をとったら「先日、丁度ラシィナとベンガ食べたいね、と話していたところです」と教えてくれた。さすが、ブルキナファソ人はブルキナファソ人のことをよく分かっている。

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最後に、ラシィナくんと撮影。
2年前に会った時はまだ体も小さかったが、現在は胸板もとても厚くなり、重い球に負けない体が出来上がってきている。そして、日本語もペラペラでびっくりした。2年間でここまで話せるようになるとは。


****************************

4) ラシィナ選手の初ホームランボールの感動秘話

ラシィナくんに会った後に、球団関係者から、前日にラシィナくんが公式戦での初ホームランを打った話を聞いた。

ラシィナくんは、来日当初から地元メディアで取り上げられており、また彼自身も素直で控えめで、でも陰で努力するところが、日本人に愛されるのかもしれないが、ラシィナくんファンが多いという。通常なら球団からメディアへ話題を売り込むことが多い中、ラシィナくんについては今どうなっていますか?とメディアから連絡がくる。

球団の方に、高知ではどこに泊まっていたのかと聞かれ、梼原と答えると、「梼原なら愛媛の試合を見にこれたのに」と教えてもらった。なんと、、、梼原から愛媛の球場は車で1時間らしい。高知市に行くよりもずっと近い。アウェーで見に行けないと思っていた愛媛の試合に行けたとは。土地勘がないとこういう機会を逃してしまう。更に、梼原にもラシィナくんの熱狂的なファンがいるので、その人たちの車に乗せてもらえたかも、と。すごいな、ラシィナくん。

その愛媛の試合で、ラシィナくんが初ホームランを打った。
通常ホームランボールは、ボールをとった観客がもらえることになっている。この日、ラシィナくんのボールをとったのは愛媛のチームのファンの方。その方が、「このボールは是非ともラシィナくんに渡してください」とわざわざ返しにきてくれたという。この話を聞いたときは目に涙が滲んだ。こんなに愛されているなんて。。。

****************************

5) 「ブルキナファソ野球を応援する会」創設者との出会い


高知球場で、もう一人、偶然の出会いがあった。

ブルキナファソの初代野球隊員の出合さん
帰国した彼は、出身地の北海道富良野市で、パン屋を経営しているが、傍らで『ブルキナファソ野球を応援する会』を立ち上げて、もはやどちらが本業か分からないくらい精力的に活動されている。お話は伺っていたが、実際にこうしてお会いしてお話しするのは初めてだった。

彼のすごさは以前の記事でも書いたので、こちらをどうぞ。
ブルキナといえば「野球」

今回実際にお会いして、普段はあまり多くを語らないのに、野球のことになると熱い思いが込み上げてきて話が止まらない。そして、思いだけでなくそれを実現する行動力がほんと脱帽である。

今般、ブルキナファソから始まった野球の支援の輪を更に広げて、西アフリカ全体から有望な野球少年たちを招待して試合を行う企画がある。北海道でも高知でも休暇を取って足を運ぼうと思っていたのに、なんと私は7月に出張が入っており、ばっちり重なってしまっている。

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グッズも販売している。
https://bbburkina.thebase.in/

関心のある皆さま、是非足を運んで応援してあげてください。

****************************

6) ブルキナファソに野球隊員を派遣するきっかけとなった女性との出会い

実は、話はこれで終わらず、今回出合さんにあったことで、もう一人の女性とも繋がった。

以前から、ブルキナファソの野球の話を周囲にすると、そもそもなぜブルキナファソに野球の協力隊員が送られるようになったの?と聞かれることがあり、確かになぜだろう??と不思議に思っていた。ブルキナファソで、野球なんてほんの一部の人しかしらないし、協力隊員を送るほどの野球人口がいるというわけでもない。しかし、このような中で野球連盟の熱い思いをくみ取り、是非協力隊派遣を!と尽力した女性がいた。この方も協力隊員だった。

ブルキナファソに携帯通信会社Celtelという会社があった。アメリカ系の会社であり、社員たちに野球を学ぶ機会を与えていた。そこの社員だったN’DIAYE Ibrahim氏が、初めてマリで野球を習ったとき、こんな面白いスポーツがあったのかと思い、帰国後に野球を教えるようになった。道具などはCeltel社が与えてくれたものがあったが、民間会社が本腰を入れて野球を教えてくれるというところまではいかなかった。しかし、野球を広めたいという思いが強かったN’DIAYE氏は週末になると野球を教えていた。

当時その近くに何人かの協力隊員が住んでいた。彼らも週末に一緒に練習に参加するようになり、隊員としての活動とは別にボランティアで野球を教え始めた。そして、JICAの「世界の笑顔のために」プログラムで、野球の道具を送ってもらい、そこから更なる交流が始まった。その間に、野球連盟も発足し、数年かけてスポーツ省に登録された。

その後、協力隊員も入れ替わり、徐々に首都ワガドゥグに配属となる隊員の数が少なくなったために、練習に合流できる日本人も少なくなっていった。その時に保健省に配属されていた協力隊員で練習に参加していた女性が、野球隊員を是非とも送ってほしいとJICA事務所の担当者を説得し、今度はその担当者が当時のJICA事務所長を説得して野球の練習を見に行ってもらい、隊員派遣の要請取り付けにこぎつけたそう。

遡れば、この方の尽力なしに、出合さんがブルキナファソに来ることはなかった。

****************************

今となってはこの女性だけでなく、以前から野球の練習に付き合っていた隊員全員がラシィナくんや出合さんの活動を応援しており、その絆は強いことがよく分かる。

私がブルキナファソにいた時には、既に3代目の隊員さんが活躍されており下地はすでに出来上がっていたが、それでもこのストーリーの一旦を近くから見ることができているのは幸せだと思う。


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# by iihanashi-africa | 2016-06-13 01:28 | 日本 | Trackback | Comments(4)
高知旅行④:四万十を下って上る
絵になる岩間沈下橋

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中土佐町の久礼大正町市場


「大正町市場は明治の頃、漁師のとってきたお魚と農家さんが作った野菜を物々交換していた場所でした。それから、旦那さんや息子さんの釣ってきた魚を、おかみさんがトロ箱一つで販売を始めると、野菜やお肉、着物など、生活にかかせない物がここ大正町市場で全部まかなえる市場へと成長しました。」~サイトより~

もちろんカツオのたたき丼と本日のおすすめ丼。お勧めには、①久礼の朝どれ初カツオ、②カツオわら焼きたたき、③ウツボたたき、④トビウオ、⑤ぶり、が入っていた。
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ここのカツオのたたきはわら焼き。
風味がすごい。



高知で美味しいと思ったのが、アイスクリーム。
昔ながらのアイスクリンはもちろん定番。
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最近は東京のナチュラルローソンでも見かける高知の文旦アイスやバニラアイス。バニラは生乳の味がそのまましてとても美味しい。

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途中で発見したYou Farmのソフトクリームも絶品。



2日目のよるは「雲の上ホテル別館」に宿泊。
もちろんここも隈研吾氏の設計。
館内はどこも木のぬくもりに溢れ、町に馴染んでいる。
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梼原の中心通り。
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雲の上ホテル別館の1階は、マルシェ・ユスハラとして特産品を販売する道の駅のようなスペースになっている。吹き抜けで開放感がある。
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# by iihanashi-africa | 2016-06-11 23:15 | 日本 | Trackback | Comments(0)
高知旅行③:酷道439号線
高知旅行から戻ってから数日後、一緒に旅行した友人から、「国道439号線がテレビで放映されているよ」と連絡があった。「『酷道』って表現されていた」と。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/210/1199139/index.html


やっぱりそういう道だったのね。

日本三大酷道と呼ばれるほどの道だったらしい。「酷道よさく(439)」とも呼ばれるらしい。私たちは、ドライブをしながら美味しいと言われるパン屋を目指して、全く土地勘もない国道439号線に入り込んだが、まあほそーい山道で軽自動車でもすれ違うのが大変なところ。でも、景色は最高だった。

国道439号線は、徳島県徳島市から始まり、そのままほぼ西進し、四国山地の真ん中を突っ切り、高知県四万十市で終わる。全長341.2kmで四国最長だそう。

私たちが通ったのは、そのほんの一部で、高知県四万十町の土佐大正の辺りから梼原川に沿って北上し、そのまま支流の北川に沿って更に北上して、国道197号線と合流したところで梼原に向かった。聞くところによると四国山地の辺りは相当の酷道らしいが、高知の四万十の辺りでも相当の酷道だった。でも運転が好きな人は、とても面白いかも。

少し雨が降っていたので、白黒で撮ってみた。
酷道439号線からの景色。

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# by iihanashi-africa | 2016-06-08 21:27 | 日本 | Trackback | Comments(0)