<   2016年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧
モスクの外でのお祈りの時間
イスラム教には毎日5回のお祈りの時間があることはご存知だと思う。
でも、5回のお祈りを全てするかどうかは人それぞれ。5回全て行う人もいれば、朝と夜だけお祈りする人もいれば、金曜の午後しかお祈りしない人もいる。

毎日5回のお祈りをする人は、仕事中でも階段下のスペースや誰もいない会議室など、周囲の騒音を出来るだけ避けられるところでお祈りをする。見かけても、もちろん声はかけない。

そして、イスラム教にとっての聖なる日である金曜日の午後のお祈りは、職場の近くのモスクまで行ってお祈りすることが多い。市民全員がモスクには入りきらないので、お祈りの時間の15~20分くらいはモスクの周囲の道路を封鎖してお祈りの時間に捧げることもある。

下の写真は、セネガルの首都ダカールの写真だが、ブルキナファソでもカメルーンでもこういう様子を見た。私には見慣れた光景なのだが、一緒にいた方が「こんなの初めて見た!」と驚いておられたので、おーそうか!ブログに載せよう!と写真を撮ってみた。

私たちは、この道路の先のホテルに向かう途中だったが、お祈りが終わるまで15分ほど車の中で待つ。15分くらいなのでゆっくりと待つのだが、お祈りが終わった後も、車が通れるようになるまでは、もう少し時間がかかる。これだけの方々がいればそりゃそうか。

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by iihanashi-africa | 2016-10-31 00:27 | セネガル | Trackback | Comments(2)
トマ・サンカラの死から29年(その2)
トマ・サンカラの死から29年(その1)


1983年、トマ・サンカラは35歳の若さで大統領になる。
そして、4年間という短い間に、ここまで評価され尊敬される存在となった。

サンカラは、大統領になり植民地時代との断絶を宣言した。そして、1983年10月2日、反帝国主義の革命イデオロギーを示したスピーチ(Discours d’orientation politique)をラジオで流した。こうして書くと、国民の洗脳にも聞こえるが、むしろ国のあるべき姿と革命を進める上での心構えを伝えるものだったともいえる。やっぱり完全に社会主義だが、ほんの一握りの国民が富を独占していて、貧しい国民には希望も見えない中では、ほんとに希望の光だったのかも。スピーチ全文はとても長く、ラジオでも1時間半近いスピーチになったらしいが、読みたい方はこのサイトにある。
http://thomassankara.net/discours-d-orientation-politique-2/


『10月2日』。

現在ワガドゥグ市内にいくつかあるモニュメントのうち、「10月2日モニュメント」というのがある。この日を記念する碑である。私自身、ブルキナ滞在中は、しっかりと見たことがなかったが、モニュメントの上にDiscours d’orientation politique(DOP)と彫られているらしい。

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サンカラが尊敬されていたのは、有言実行の人で国民と同じ目線にいたからからかもしれない。
選挙では国民のためと言いながら結局私腹を肥やす大統領が多い中、サンカラは、大統領の給料を削減し、行政全体の公用車も贅沢な車輌をやめ、飛行機も皆エコノミークラスで移動するようにし、常に貧しい方々の富を追い求めた真摯な姿が国民にも理解されたようだ。自宅も豪邸に建て替えることもなく、一般住民と同じような家に住み続けた。

サンカラはこうして国家支出を大幅に削減することで、政権について3年後にはほとんど外部支援に頼らなくてもよい状態になったと言われている(実際のところは分からないが、みんなそう発言している)。国内で消費するものは全て国内で生産することを可能にした(と言われている)。国民を奮起させ、農家は今まで以上に働き、生産量は3倍に増加。ほぼほぼ自給自足を達成できてしまったらしい。

そして、かの有名な1987年7月のアフリカ連合での「債務の返済拒否」を訴えるスピーチがある。世界的には、1994年以降にようやく重債務国の債務帳消しが始まったが、サンカラは、1987年に以下の発言をしている。「債務問題は、植民地主義に起因する。新植民地主義で富を搾取しながらアフリカを債務漬けにしたのは宗主国である。我々は今50年にもわたり支払わなければならない債務を抱えている。我々が払わなくても先進国が崩壊することはない。しかし支払ったら私たちが自滅する。次世代の負担となり国の発展を妨げるものである」。



ちなみに、このスピーチで各国の私腹を肥やす大統領たちを前に、こういう発言をしている。
「国の経済危機というのは、突如やってくるものではない。国民のほんの一部だけが富を独占しているから危機は起こるのだ。そのことに国民が納得しないから危機は起こるのだ。一部の人が、アフリカを発展させることが出来る富を海外の銀行に預けているから起こるのだ。そのことを棚に上げながら国民に貧しい生活をさせるから起こるのだ。」
この時、大統領たちはどういう思いで聞いていたのだろう。サンカラは、汚職に対しても断固反対の態度をとっていた。

サンカラは、農家を徹底的に保護することも忘れなかった。
ある時、インゲン豆を生産して輸出する農家が、パッケージに綺麗に入れて、仲介業者を通してワガドゥグへ運んでから、輸送機が来ないことが分かった。仲介業者は農家に返品し、農家が大損をすることになりかねなかった時、大統領令で公務員がそれぞれそのインゲン豆を購入することになったらしい。

女性の地位向上にも大きく貢献した。
家庭の中で夫のいいなりになっている女性たちに発言をさせ、責任を与えた。国民の半数を占める女性が活躍しなければ国の発展はないとした。ブルキナファソは本当に女性が活躍していると思う。

子供の予防接種キャンペーンも行った。
当時で、70~80%の子供が予防接種を受けており、アフリカの中でも非常に高い接種率だった。

植民地時代から続く「オートボルタ」という国名から、モレ語とジュラ語で「高潔な人々の国」を意味する「ブルキナファソ」に変更した。

文化的活動を活発化したのも、サンカラだった。
「カルチャーのない社会はない。そして社会と関係のないカルチャーはない」と話し、カルチャーが国の発展の核であり、特に発展段階の最初と最後で必要になってくると考えていた。そのため、ブルキナファソのアイデンティティーを推進するために文化活動を活発化させた。FESPACOがここまで盛大な国際映画祭となったのもサンカラの功績である。

民衆劇場なるものも建設した。ブルキナファソは演劇を見られる場所がとても多く、それもクオリティーが高い。こんな国はあまりなかったが、なるほどこういうことだったのか。

人種差別とも徹底的に戦った。あまり知られていないが、当時アフリカの大統領で初めて公にアパルトヘイト反対を訴え、ブルキナファソに国名が変わって初めてのパスポートをネルソン・マンデラに発行している。1987年には反アパルトヘイトの会議をワガドゥグで開催もしている。下の1984年の国連でのスピーチでも南アフリカのいち早い解放を求めている。サンカラは、世界各国で革命を起こそうとする国民を支持していた。


サンカラの功績は挙げたらきりがないのでここで止めておくが、4年間で実施したことはブルキナファソの基礎ともなっている。


一方で、サンカラの革命は先を急ぎすぎて途中で歪が出てきたと言われてもいる。

教員のデモが発生したり、革命の精神を10日間で植え付けられた教師が教員となったりした。革命派でない人は蚊帳の外に置かれた。徐々に革命の客観性が失われ、革命を推進していれば組織のトップに立つこともできた。不満を持つものも増えてきていたのかもしれない。

更に、外部にも多くの敵を作った。フランスをはじめ、コートジボワールやリビアもそうである。最終的に、フランスやコートジボワールがバックについていたブレーズ・コンパオレがサンカラを倒すことになる。



サンカラは、1987年10月15日に右腕だったブレーズ・コンパオレ派に暗殺されるが、暗殺の前に、既にその兆候があったそうだ。ある方が、サンカラに「裏でクーデターの動きがあるようです」と伝えると、「知っている」と答えた上で加えた。「しかし友情を裏切るのであれば、私ではなく彼である」と。歴史を振り返ると、革命が起きた時、様々な思惑が飛び交い怪しいものは殺害され、暗殺に暗殺を重ねて優秀な人材を失ってしまうことが多々あったことをサンカラは分かっていた。だからこそ、サンカラはブレーズ・コンパオレを殺害することはなかった。しかし、結局自分が殺されるという結末になってしまった。

サンカラは、亡くなる前、非常に疲れて落ち込むこともあったという。彼の改革の熱についていけない人が周囲に増えてきて、辞任することも考えたらしい。とても情があり、人間性に溢れ、熱い人であったことは、どのドキュメンタリーを見ても分かる。これが皆に愛される所以である。


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by iihanashi-africa | 2016-10-27 00:54 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
トマ・サンカラの死から29年(その1)
トマ・サンカラ元大統領が暗殺されてから2016年10月15日で29年が経った。10月15日前にアップしようと意気込んでいたのに、全然間に合わなかった。。。来年は30年の節目で、20年目同様に大きなセレモニーが行われるかもしれない。

トマ・サンカラ(Thomas Sankara)は、1983年~1987年までの4年間しか大統領のポストにいなかったにも関わらず、今もなお多くの国民から敬意を表されており、30年経った今でも毎年10月15日はサンカラに関する多くの新聞記事が掲載され、ミュージシャンはサンカラの歌を歌うし、サンカラの演劇も上映されるし、ドキュメンタリーや映画も作られる。私のブルキナファソの友人は、サンカラの時代は本当に社会に活気があったと語る。完全なる社会主義だったが、男も女も老人も子供も、みんな平等に働く。国民が全員外に出て、人海戦術で線路を造ったり、みんなで一斉に植林をしたりと、楽しかったという。サンカラ自身も贅沢をせず、庶民の目線に立つことが出来ていた人だったようだ。一方で、やはり富裕層からは好かれない存在だったのだとは思う。

私自身は特にサンカラの信奉者ではないけれど、私が尊敬する友人たちがサンカラを尊敬しており、やはり気になる存在である。以前、出張でブルキナファソに来たマダガスカル人やカメルーン人が、「サンカラの墓に行きたい」と言ったことを思い出す。現にサンカラは、ブルキナファソ国内だけでなく、全アフリカ諸国の国民から一目置かれる存在だった。サンカラ政権当時に、あるブルキナファソ人がセネガルへ出張に行ったとき、空港の税関職員がブルキナファソのパスポートを見るなり「おお!!!マイブラザー、ブルキナファソ!!!」と握手してきたそうだ。アフリカ大陸に限らず、スイスでもワシントンでもブルキナファソ人というと一目置かれたという。サンカラが亡くなった時は、遠く離れたカメルーンの首都ヤウンデでも市民が路上で泣いて悲しんだそうだ。それだけの人気があった。


ちなみにサンカラのお墓はワガドゥグの街中にある。写真撮影は禁止で、いつも警備の方が監視しており、自分が撮った写真はないので、下に紹介したドキュメンタリーから映像を拝借。
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最近、友人からトマ・サンカラの興味深いドキュメンタリーがあると教えてもらい、夜中に見始めたら、本当に面白くて、翌日も仕事なのに1時間半を一気に見てしまった。サンカラの話は有名で様々な伝説を聞いていたが、ここまで貴重な映像がまとめられたドキュメンタリーはあまり見たことがない。この映像がいつまでアップされているか分からないが、関心のある方は是非見てほしい(あああ、、、こうしているうちにアクセスできなくなってしまった)。

http://www.lcp.fr/emissions/277352-capitaine-thomas-sankara

もう一つ興味深いドキュメンタリーがあるのだが、これは、サンカラに近かった方々のインタビューをまとめたもので、映像としては面白くないかもしれないが、フランス語が分かる方には興味深いかも。ただし、これもサンカラを賛辞するものばかりかな。



こちらは、英語版のドキュメンタリー。個人的には、こちらの方が面白い。様々な角度から現実を描いていて、サンカラ政権も最後には少し歪が生まれていたことも客観的に描いている。



<生誕~軍士官学校でマルクス主義に出会うまで>
トマ・サンカラは、1949年12月21日、ワガドゥグから北西約100kmに位置するヤコ市で生まれ、幼少期から高校まではブルキナファソ南部のガウアで過ごした。子供の頃からカリスマ性がありリーダー的存在だったが、弱い者を守るという正義感は昔からあったようだ。その後、ボボ・ディウラソの高校に通うことになったが、1年目は奨学金をもらえず財政的にも非常に苦しく、知り合いの家族のところに居候していた。2年目からはなんとか奨学金をもらって寮に入ることが出来た。とても成績が良く、医者になることを目指していたが、医学部の奨学金を得るためには太い人脈が必要だったようで、それがなかったサンカラは医学の道を諦めざるを得なかった。その後、軍の士官学校に入ったのだが、ここでも成績は良かったようだ。軍では、今とは異なり、道路整備等のインフラ工事や農業などを行うこともあったらしい。そしてここで、歴史学者アダマ・トゥレAdama Touréを通して、サンカラの運命を変えるマルクス主義に出会う

<マダガスカルの国民デモから得たもの>
1970年~1972年、マダガスカルのアンチラベ士官学校で研修を受けることになる。社会主義の考え方を確固たるものにしたのが、この時期である。フランスの新植民地主義の推進者のチラナナ政権に反対する農民や学生のデモがまさに起きている瞬間に出くわした。その後、マダガスカルは、1975年に、反・新植民地主義のラチラカ大統領に政権が変わった。サンカラと同じように軍出身で新植民地主義に反対するラチラカがトップに立ったことで、軍の役割は広いことを感じることになる。軍が守るべき「セキュリティー」とは身体的なものだけでなく、経済的セキュリティー、文化的セキュリティー、精神的セキュリティーなど様々なものがあり、それら全ての保護は軍の役割に入ると考えた。余談だが、マダガスカル滞在中に、サンカラは稲作大国の田んぼへ出かけては技術や農機具を観察していたという。

<マダガスカルから帰国後、共産グループを結成するまで>
マダガスカルから帰国後、オートボルタ(現ブルキナファソ)とマリの国境紛争の地へ派遣され、そこで名声を挙げて有名になる。1976年、ポーの軍訓練校の指揮官になる。同年に、モロッコでの研修の際に、後に右腕となるブレーズ・コンパオレと出会う。そして、ブレーズ・コンパオレも含む複数の将校と共にROC(Regroupement des Officiers Communistes:共産主義将校グループ)を結成する。

<ゼルボ政権下の国務大臣ポスト>
1980年11月25日、セイ・ゼルボSaye Zerboによるオートボルタ初の軍によるクーデターが起き、ゼルボ政権下でサンカラは情報国務大臣に任命される。このポストはいやいや引き受けており、着任する時から長くはいないと発言していたが、その言葉通り、着任翌年の1982年4月に国際会議のスピーチで「国民を力ずくで黙らせる者に災いあれ «Malheur, à ceux qui bâillonnent le peuple!»」と言い残して突然辞任した。今では非常に有名になったセンテンスである。

<首相の座~逮捕>
これをきっかけにもともと国民には人気のなかった政府に対し、内部の人々も疑問を持ち始めるようになり、1982年11月には再びクーデターが起きる。トップに立ったのは若い将校のジョン・バティスト・ウエドラオゴJean-Baptiste Ouedraogo。その政権下で、サンカラは首相に任命される。しかし、大統領は新植民地主義を継続させたため、革命を目指すサンカラとは、当然のことながらうまくいくはずがなかった。2ヵ月後、サンカラは、ボボ・ディウラソで反政府ミーティングを行い、大多数の国民の支持を得ている。しかし、反政府ミーティングを行った罪で、他の軍関係者と合わせて逮捕された。ブレーズ・コンパオレも逮捕者リストにあったものの、うまくかわして逮捕を逃れ、サンカラが設立した野党勢力のあったポーに戻った。

<サンカラ逮捕に抗議する人民蜂起>
サンカラの逮捕後から、ワガドゥグ市内は「Liberez Sankara !(サンカラを解放しろ!)」と訴える国民がデモを起こした。デモ隊と警備隊との衝突は非常に激しく、デモ隊を拡散させるために催涙弾が使われたりもしたが、それでもデモは続き、大統領はこの国民の圧力に対抗することは出来ずにサンカラと仲間たちを解放することとなった。
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1983年8月4日、ブレーズ・コンパオレ率いるポーの勢力がワガドゥグにあがり、クーデターを起こすのだが、この時国民の大半が一緒にワガドゥグへ向かい、一緒になって電気を止めたり、電話を止めたりとクーデターを支援した。国民も武器を持って戦ったそう。クーデターと言っているが、「民衆蜂起」あるいは「革命」の様相が強かったという。

『民衆蜂起(Insurrection populaire)』

人民蜂起と言えば、2014年に国民の政府への反対デモが拡大して当時のブレーズ・コンパオレ大統領を追い出した出来事も、クーデターではなく「民衆蜂起」あるいは「革命(révolution)」と呼んでいる。この議論、2014年にも書いたなあ(クーデター or 革命?)。当時の私にとっては、かなり目新しい議論だったが、ブルキナファソにとっては同じような状況を既に経験していたのだ。なるほどね。だから、あの時もさくっと「革命」という言葉が躊躇なく出てきたのかも。ただ、この時は軍が前面に出ているという意味で、やはりクーデターである。

こうして1983年、サンカラは35歳の若さで大統領になる

いやあ、、、長い記事を書きすぎたので、やっぱり二つに分けよう。

次回に続く。


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by iihanashi-africa | 2016-10-25 21:47 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
「女を修理する男」:コンゴ民主共和国で横行するレイプ
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今年の難民映画祭でサブサハラアフリカが舞台となっていた唯一の映画を見に行った。


ノーベル平和賞候補に過去2回名前が挙がっているコンゴ民主共和国の産婦人科医ムクウェゲ医師(Denis Mukwege)のドキュメンタリー。30年間、ルワンダとブルンジとの国境に接するコンゴ民主共和国東部の南キブ州のブカブBukavuの病院に勤めている。

コンゴ民主共和国の特に東部では、2000年以降、約50万人の女性がレイプの被害に遭ったと言われている。ムクウェゲ医師はこれまでに4万人の女性の手術をしてきた。

映画の紹介映像


つい先日までご本人が来日しており、様々な大学で講演を行っていた。

映画は、衝撃的だった。

尿と便が同じところから出てくるようになってしまったり、8歳の少女が内臓が傷つくほどのレイプをされたり。もう一生女性としての大事な機能が使えない状況になる。自分に置き換えると寒気が止まらないし、おぞましさと共に怒りしか込み上げない。

「レイプは最も効果的な武器」という表現があった。レイプというのは、男性の欲求を満たすためにすることだと思っていたため、私には「武器」の意味がよく理解できなかった。しかし、下にリンクを貼った別の番組やムクウェゲ医師のインタビューを聞いてやっと理解できた。村を崩壊させるために手っ取り早い方法だというのだ。村の全ての女性をレイプする。子供や夫や隣人の目の前でレイプするのだ。夫は守れなかった嘆き、女性はそのトラウマから立ち直れない。その村の中で生きていけなくなる。村は崩壊する、そういう意味で、「武器」なのだ。

映画を見る前は、レイプは兵士によるものだけかと思っていた。1994年から始まったルワンダの紛争に伴い、コンゴ民主共和国東部で反政府活動を始めた勢力による横行から始まり、そこからコンゴの兵士たちも同じように「武器」を使い始めた、という問題だけだと思っていた。しかし、ドキュメンタリーを見たら、問題はもっと複雑であることを知った。

鉱山資源が豊富な地域。その資源を求めて村を襲う隣国の兵士たち。またそれとは別に、コンゴ民主共和国では、今、女児の性器や子宮を奪って祈ると長生きしたり富を得られるというような思想もあり、伝統的な呪術師が助長しているという。

タンザニアをはじめとしたアルビノ狩りの話を思い出した。アルビノの体の一部が健康や権力、幸福をもたらすと主張する呪術医を信じてアルビノ狩りが起こっているのだ。
タンザニア映画「White Shadow」:アルビノ狩りの現実

**********************

ムクウェゲ氏は当初は、フランスの大学で小児科を専攻していたそう。しかし、コンゴの病院でインターンをしたときに、出産の時に亡くなる女性の数の多さにショックを受け、産婦人科になることを決めたそう。それから30年間ブカブの病院でレイプされた女性の手術を続けるが、レイプ後の女性を治すだけではなく、レイプそのものを減らす活動をしなければならないと、立ち上がって声をあげるようになった。

しかし、その活動は危険と隣り合わせの活動だった。

2012年に国連でスピーチをするはずだったが、当時のコンゴ民主共和国の保健大臣に呼び出されて、スピーチを中止するよう圧力がかかり、更に家族にも身の危険が及ぶかもしれないと脅されたため中止せざるをえなかったという。

その後、ある日自宅に戻ったところを5人の武装した集団に囲われ、自分の命は何とか助かったものの、家の警備員をしていた息子の友人を殺された。この事件以降、身の安全のため家族を連れてフランスへ亡命した。しかし、フランスやアルジェリアの病院で産婦人科の同僚医師30人と働きながら、ここでは産婦人科医がこんなにいるが、故郷のブカブでは私がいない今、一人もいないと思うと、私の居場所はここではないと思ったそうだ。

同時に、ブカブの女性たちがムクウェゲ医師の帰国を望んで立ち上がった。まず、コンゴ民主共和国の大統領にレターを書いた。しかし、返事がなかったため、国連事務総長宛にレターを書いた。それにも返事がなかったため、自分たちでムクウェゲ医師の飛行機代を集めようと、パイナップルなどの農作物を売って収入を集めて、運動を起こした。その動きはもちろんムクウェテ医師の耳にも入る。そして、今度は国連平和維持軍の警備を受けて帰国する。

これらの動きを受けて、たぶん司法も動かざるを得なかったのかもしれないが、形ばかりの裁判も始まった。まだまだ、先は長いかもしれない。

2014年11月にEUで表彰された際のスピーチで、「1週間前に北キブ州の村で50名以上の住民が殺戮に遭った。1カ月で200人の住民が残虐な殺され方をした」と話していた。ほんのつい最近の話である。こういうことが起きていることを日本では知られていない。


印象的だった言葉がある。ムクウェゲ医師が、男性たちに向かって訴えた。
「あなた方の妻、母、娘が強姦される中、あなた方男性はどこにいたのですか。女性が立ち上がって声を上げているのに、男性は何をしているのですか。私は先日、涙を流しながら2カ月の女児の手術をしました」
この呼びかけから、男性たちも声をあげるようになった。

この問題は、コンゴ民主共和国だけの問題ではない。被害の拡大を防ぐためには、世界が問題を認識して、動いていかなければならない。


コンゴ民主共和国東部の問題を理解するための参考となる、いくつか日本語の映像を見つけた。

コンゴの聞き ~知られざる真実~ 2011年


レアメタル争奪戦の犠牲者(1) 2009年


レアメタル争奪戦の犠牲者(2) 2009年



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by iihanashi-africa | 2016-10-17 03:36 | 日本 | Trackback | Comments(0)
「売るために作る農業」をゲームで学ぶ
前回の記事(国際協力の心理学)でSHEPアプローチ(Smallholder Horticulture Empowerment and Promotion)について記述したが、この「売るために作る農業」アプローチをパソコンや携帯で疑似体験するゲームをJICAが開発した。

これまで様々な途上国支援プロジェクトで、普及のための教本やビデオ教材などは沢山作られてきたが、ゲームを作ることはほとんどなかったと思う。少なくともJICAでゲーム教材を作ったのは初めてのことだ。エンターテインメント性のみを目的とせず、教育・医療用途(学習要素、体験、関心度醸成・喚起など)といった社会問題の解決を主目的とするコンピュータゲームをシリアスゲームというらしい。

マーケット調査を行って、自分たちで栽培する作物を選んで、栽培できる。進み方によってはマーケット調査も行わず、あまり情報を入手しないまま栽培すると、収入に影響してくる。
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当時に、適切なステップを踏むと自分のモチベーションも高くなっていき、最終的なポイントも高くなる。私はまだ2万ポイントが最大なのだが、2万5千ポイントを獲得した人もいると聞いた。
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こんなゲームを作ってもアフリカの人々が使えるのかと思うかもしれないが、近年の携帯普及率は劇的にアップしており、さらにiPhoneやスマートフォンの普及率もかなり高くなってきていると思う。ブルキナファソでは、同僚が私のスマートフォンよりもずっと性能の良いものを持っていた。

2008年のアフリカの携帯普及率30%
アフリカの携帯普及率30%
2014年のブルキナの携帯普及率65%
ブルキナファソの携帯電話事情

3か月前、セネガルに出張した際、その地区の農業普及員は全員スマートフォンを支給されていた。農業普及員や農業研究者の少ないセネガルでは、ある畑で病害虫の被害に遭っても、すぐに専門家が駆けつけてくれる体制にない。そのため、被害を写真に撮り、その写真を所轄の農業州局に携帯からメールで送付し、そこから研究所に繋ぐ。まだ試用期間中ではあったが、ITについてはアフリカもそれほど遅れはとっていない。

一方、行政の予算が不足しているのはいつものことで、農業州局や県局にパソコンはあっても、それが常時インターネットに繋がっているかというと、そうでもない。また、出張に行く予算もないことがしばしばで、事務所のパソコンの前で、ソリティアなどのトランプゲームをしている職員も多い。

こういう状況下で、スマートフォンでも気軽に学べ、またパソコンでトランプゲームの代わりに楽しみながら学んでもらうゲームとして、開発されたのがこのゲーム。

ご関心のある方は、無料でダウンロードできるのでお試しあれ。

★iPhoneあるいはスマートフォンでご利用の方(英語と仏語のみ)
App StoreあるいはGoogle Playで、「JICA」、「SHEP」、「Fun Fun Farming」などのキーワードで検索して、ダウンロード可。

★パソコンでご利用の方(日本語、英語、仏語を選択可)
以下のサイトからファイルをダウンロード。ファイルの中に「shep」というアプリケーションがあるので、それを「展開」し「実行」する。
https://jica-net-library.jica.go.jp/jica-net/user/lib/contentDetail.php?item_id=10035

通常は、ゲームの途中で終了しても終わったところから再開できるのだが、私の場合スマートフォンでダウンロードしたら「continue」が出てこないという不具合があるのだが、パソコンやiPadで利用する分には問題なかった。

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by iihanashi-africa | 2016-10-11 22:13 | 日本 | Trackback | Comments(0)
国際協力の心理学
途上国の開発協力に携わっているといつもぶち当たる課題がある。

「持続性」「農家の自立」という課題。

私は以前、緑のサヘル(http://sahelgreen.org/)というNGOで働いていた。住民の生活に組み込んだ形の緑を減らさない活動と緑を増やす活動を行い、同時に荒廃した土壌を回復させる伝統技術を使って農業生産の安定化を図るなど、住民自身による総合的で継続的な生活環境の改善支援を行っているNGOである。

現地で活動を進める際に、いつも代表が心構えとして話していたことがある。
「何本植えたかではなく、何人が植えてくれるようになったか」
「我々が支援をする際に、まず現地の方々の生活を立体的に知る必要がある。相互理解とは、支援者あるいは受益者であるという意識を、お互いが持たなくなること。そして、住民生活の現状を踏まえ、導入技術そのものによる効果だけではなく、技術の核心あるいは本質を理解してもらうことを狙いとする。」


緑のサヘルの活動は、住民の声にじっくりと耳を傾けて時間をかけて話し合うことが多かった。お互いに納得した上で、活動を進める。これが、持続する根付いた活動に繋がっていた。私の開発支援の原点がここでよかったと今でも思う。

***************************

現在、私はSHEPアプローチ(Smallholder Horticulture Empowerment and Promotion)(「「売るために作る農業」アプローチ」)という、小規模園芸農家が自分たちでマーケット調査を行い、売れる作物を選択して、その後必要に応じて栽培技術を指導して、農家の収入向上を目指すアプローチの推進に携わっている。その中で、「人が自ら気付き、考え、決定し、行動していくために動機づけを行う仕組み」が重要だったと整理され、それを心理学の「自己決定理論」という学術的理論に基づいて説明した。緑のサヘル時代の活動やその後関わったプロジェクトの活動も、心理学的な説明を聞くことで、なぜうまくいったのか、なぜうまくいかなかったのかが、感覚だけでなく頭で理解することができた。

農家の行動変容や心理的変化は、途上国開発に関わっている人なら誰でも経験があり、それぞれが関係者のモチベーションを高めるために、工夫をしている。しかし、その工夫はプロジェクトの成果としては見えてこないため、他と共有されることはほとんどなかった。個人の暗黙知として蓄積されていたこれらの取り組みを、事例を挙げながら心理学的に説明を加えた教本が作成された。

大変興味深いので、ご関心のある方はどうぞご一読を。

日本語版
http://libopac.jica.go.jp/images/report/12264172.pdf

英語版
http://libopac.jica.go.jp/images/report/12092193.pdf

仏語版
http://libopac.jica.go.jp/images/report/12092201.pdf

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by iihanashi-africa | 2016-10-09 20:00 | 日本 | Trackback | Comments(4)
障害者総合支援法の下での薬物依存回復プログラム
2カ月ほど前、山梨ダルク(DARC:薬物依存症回復施設)が開催したセミナーに参加した際の記事を書いた(「依存症という病」)。毎回参加する度に自分の考えが如何に自己中心的か思い知る。自分が社会のスタンダードな人だとは思っていないが、無意識に「自分の考え=世の中の常識」と思ってしまうようだ。

私は、いつもセミナー後に依存症に対する見方が変わって会場から出てくるのだが、その後友人と依存症の話になると、私が人と違う考えをしていると思うことがある。自分の意見は少数派であることが分かる。そして、自分の依存症に対する考え方を伝えるのが如何に大変かを実感する。

薬物を使ってしまったら、警察は取り締まりを行い、法的機関は罰を与える。しかし、回復施設であるダルクは、取り締まって依存症を悪化させるようなことはしない。間違いを許して、徹底して守る。ある方が話していた。「今の刑務所は更生する場所としては適していません。僕が塀の向こうにいた時は、ある受刑者が『今度出所したらいい売人を教えるよ』と言ってきたり、常に周囲の人と薬物の話をしている環境にありました。[・・・] 僕が自ら変わろうと思うきっかけを作ってくれたのは、日本ダルク代表の近藤さんと山梨ダルク代表の佐々木さんに会った時でした。ああ、自分をこんなにさらけ出していいんだ、着飾らなくていいんだと思ったら、気が楽になったのです」。依存症の方は対人関係に問題を抱えている人が多い。だから、更生するには罰を与えるのではなく信頼関係を築くことがベースにある。

******************************

9月10日、富士五湖ダルク主催のフォーラムに参加してきた。

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山梨ダルクの活動には目を見張るものがある。セミナーやフォーラムの頻度と内容の充実度からも分かるが、毎年、ダルクチームと山梨県警チームで弁護士チームとソフトボール大会も実施しているらしい。山梨県警もダルクの活動を応援していることが感じ取れた。

今回のフォーラムで私にとって最も興味深かったのが、「障害者総合支援法に基づく『生活訓練事業を行う各地ダルクの現状』」というシンポジウム。上のポスターには大きく紹介されていないが、私にとってはとても勉強になるセッションだった。

ダルクは、約30年前に設立され、現在全国に約60の施設があり、1000人の利用者がいる。これまでダルクは行政からの支援は全く得ずに運営してきた。自分たちの病気は自分たちで何とかすると。でも現実問題、「ダルクにつながってくる全ての人を受け入れる」というモットーは当初から崩していないため、経済的に苦しいのは間違いない。

例えば富士五湖ダルクの入寮費は月に16万円。その内、毎日入寮者に1000円を生活費として渡していて、さらに食事提供費に1000円、あとは家賃とプログラム料。入寮者が10人いてやっとスタッフ一人雇えるくらいだそう。入寮者のほとんどは生活保護を受けており、そこから入寮費を払っているが、生活保護をもらえない人でも受け入れている。そのため、財政的には徐々に厳しくなってきた。そのため、これまでは国の援助を受けてこなかったが、補助金を得られるように施設を適応しなければならなくなってきてもいる

2005年に障害者自立支援法(現在の障害者総合支援法)が制定され、また「依存症」もやっと「障害」として認められるようになり、基準を満たせば補助金を得られるようになった。そして、数あるダルクの中で、7年前に初めて京都ダルクが生活訓練施設として認められた。その後、複数のダルクがそれにならって申請し、山梨でも苦労の末に富士サポートセンターという宿泊型生活訓練施設を開設するに至った。

9月に開催された「障害者総合支援法に基づく『生活訓練事業を行う各地ダルクの現状』」というシンポジウムは、まさに生活訓練事業を行っている6か所(京都、東京、相模原、長崎、佐賀、山梨富士吉田)の施設長が集まって現状を話すものだった。

ダルクは、NA(ナルコティクス・アノニマスhttp://www.yakkaren.com/12step.html)の12のステップに基づいた回復プログラムを行っている。1日3回のミーティングに参加することを習慣化し、そこでは「かつて何が起きて」、「いつもどのようだったか」、そして「今どのようであるか」を話す。聞く側は感想や意見を一切言わない。ルールを厳しく設けず、刑務所や病院ではできない独自の回復プログラムを実施して、その活動が認知されてきた。これまで、所謂「障害者福祉」という活動をしてこなかったため、生活訓練事業の実施にあたっては分からないことだらけで困難の連続だったらしい。

生活訓練は通常2年以内に終わって再出発することになっているが、依存症は簡単に再発する。そしたまた一から仕切り直さなければならない。生活訓練事業に当てはめようとすると、ダルクのいいところを失ってしまうのではないかという懸念もある。しかし、ダルクの良さを残しつつ、障害者福祉にのせていくには、ダルク側もしっかりと勉強しアイデアを出していく必要があるとも話されていた。

それでも、行政との仕事というのは書類仕事に追われる毎日で、1日3回のミーティングに参加できなくなってしまうこともしばしばあるという。ダルクは、ダルクで回復した人が運営しているので、事務作業を行っている人もミーティングには参加する。行政の枠に入りながらも、ダルクの良さを最大限に生かすという、これまでにはなかった岐路に立っているのがよく分かった。。

ダルクの話を書き出すと長くなってしまう。。。

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by iihanashi-africa | 2016-10-05 19:22 | 日本 | Trackback | Comments(0)