カテゴリ:チャド( 27 )
「アフリカのピノチェト」に終身刑宣告
「アフリカのピノチェト」と言われたチャド前大統領Hissène Habré(イッセン・ハブレ)氏の裁判が、終身刑宣告という形で一区切りがついた。「終わった」と表現できないのは、まだ控訴の可能性が残されているから。

振り返れば、上記のイッセン・ハブレの記事を書いたのは2012年8月のこと。もう4年も前のことだ。
「アフリカのピノチェト」1:イッセン・ハブレという人
「アフリカのピノチェト」2:3か国で告訴
「アフリカのピノチェト」3:やっと裁判開始か


2000年に提訴されて、その後も紆余曲折があり、審議すら始まらない状況にあったが、16年経った2016年5月30日、やっと判決が下された。ハブレ氏ももう74歳。年齢も刑の軽減に考慮されるかとも思ったが、やはり4万人が殺害され、20万人が何らかの拷問を受けたという罪の重さは計り知れず、情状酌量などはありえなかったようだ。

日本語のネット記事
http://japanese.donga.com/List/3/03/27/535223/1


今回、終身刑を宣告されたが、15日以内に控訴が出来るようだ。
おそらく控訴するのだろうから、まだまだこの話題は終わらないかもしれない。

今後何年続くか分からないが、「アフリカがアフリカを裁いた例」として、とても歴史的な判決となった。

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by iihanashi-africa | 2016-06-02 01:27 | チャド | Trackback | Comments(2)
チャドのワジ(涸れ川)
3つ前の記事でオマーンのワジの話を書いた際に、チャドのワジを思い出した。
ドバイからナイロビへ、茶色から緑へ

前回も記述したが、乾燥地帯に見られる流水のない涸れ川を「ワジ Wadi」と呼ぶ。雨季の一時的な豪雨のときのみに水が流れる。ワジは乾燥していても危険だし、雨が降っても危険である。

チャドのワジは乾燥している時はこういう感じ。四駆でワジを横断して手前から奥までわたる。砂漠を走っている感覚で、それも砂の厚みが相当あるので、勢いよく走らないとタイヤが砂にはまってしまう。
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この乾燥したワジも、雨が降るとこんなに水が流れる。
もちろん橋などないので横断できず、水嵩が減るのを待つ。写真の通り、私が立っている場所は全く雨が降っていないのだが、上流で豪雨になっているのだ。これだけの量の水がどこからやってくるのか本当に疑問だ。
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無理に渡ろうとすると、こうしてスタックしてしまう。ただ、スタックするだけならまだいいが、車ごと流されてしまうこともあり、このくらいだったら行けるだろうと過信してはいけない。あんなに重いランドクルーザーが流されてしまうこともあるのだ。
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チャドのアベシェから首都ンジャメナへ約900km陸路移動した際、渋滞するはずのない道で車が並んで停車していた。
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降りて近づくと、ワジを急流が走っている。この勢いはさすがにどんな車も通れない。しかし、不思議なことに2時間ほどすると、これまでの急流がウソだったかのように水量が減る
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ちなみに、ワジは涸れてはいるが「川」であるため、掘ると水が出てくる。
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チャドのアベシェでは、ワジの近くに育苗所を設置し、ワジの中に穴を掘って簡易井戸を作り、そこから水を汲んで灌水していた。乾期だからできる井戸。雨期に雨が降れば一発で跡形もなく埋まってしまう。
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チャド、懐かしいなあ。

そういえば、写真家大塚雅貴さんのサヘル地域の写真集「SAHARA」が発売された。チャド北部の写真が沢山入っている。
一度現物の写真を見せていただいたのだが、アフリカにこんな素敵な場所があったのかとため息が出た。マリもしかり、ニジェールもしかり。いつの日か行ける日が訪れるのだろうか。


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by iihanashi-africa | 2015-06-14 21:00 | チャド | Trackback | Comments(0)
チャドDoba油田の今後
チャド人の友人セルヴィスから久しぶりにメールが来た。


「元気?仕事は順調ですか?私の方は、最近原油産出量が少なくなってきたので、今後いつまでこの仕事を続けられるのか、同僚と心配しているところです。」


セルヴィスとは、2005年にチャド東部のスーダン難民キャンプ周辺で働いていた際に出会った。彼はUNHCRの無線コミュニケーションを担当していた。私がチャドを去って少ししてから、チャド南部のDobaで油田開発を行うESSOに転職した。

ESSOは、今年発表した2011年上半期の報告書で、2011年産油量が2010年より5%減少し、4200万バレルと予想されることを発表した。Doba油田は産油開始当初、25~30年間は開発が続くとされていたが、9年経った今、既に埋蔵量の半分を産出してしまっている。今後も徐々に産油量は減少すると報告している。

多分セルヴィスはこの報告を聞いて心配になったのだと思う。様々な研修を受講させてくれる会社だそうで、前職よりも充実しているようだ。だからこそ、いつまで続けられるかが気になる様子。

Doba油田と言えば、個人的に気になるのが、国庫に積み立てられた石油収入。世銀の協力で制定されたチャドの「石油収入管理法」により、①収入の80%を保健・教育・社会サービス・農村開発・インフラ・環境・水資源に利用し、②5%をDoba地域の開発プロジェクトに使用し、③15%を政府予算に充当することが決められている(但し2006年に③の政府予算分が30%に引き上げられている)。この積立が、現在どのようになっているのか。世銀がモニタリングをしているのだろうが、とても気になる。資源がある国は、汚職が増加し、一般市民に還元されない傾向がある。

さあ、チャド、どうなるか。


Doba油田の開発の歩みの抜粋。
[チャド:アフリカの小産油国でも資源ナショナリズム/JOGMEC 竹原/2006.9]
南部のDoba盆地Chari鉱区は1969年に米Conocoが権益を取得、その後ESSO、Chevron、Shellが参加した。1992年にChevronは一度撤退し、仏Elf(現Total)が参加した。1993年にはConocoが撤退し、その後、Esso/Shell/Elf連合が油田の商業開発を決定した。内陸国であるチャドはカメルーン政府と協議し、チャドからカメルーン向けの石油パイプラインならびに付帯設備を建設し、原油を輸出することで合意した。1999年にShellとElfが撤退したが、ChevronとPetronasが参加し、ESSO40%、Petronas 35%、Chevron 25%の操業形態となった。

Doba油田からカメルーンのクリビKribi港向けの石油パイプラインは2003年7月に完成、10月に輸出を開始した。パイプラインの総延長は1070キロ、輸送能力は25万バレル/日である。総事業費は42億ドルで企業連合3社(ESSO、Petronas、Chevron)が出資比率に応じ約60%を負担し、残りは世銀(IMF)、国際金融公社(IFC)、欧州投資銀行(EIB)、民間銀行による融資及び米国輸銀による輸出信用等で調達した。


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by iihanashi-africa | 2012-12-25 00:08 | チャド | Trackback | Comments(0)
「アフリカのピノチェト」3:やっと裁判開始か
[前回の続き]
「アフリカのピノチェト」1:イッセン・ハブレという人
「アフリカのピノチェト」2:3か国で告訴


2001年5月、Human Right Watchの調査グループがチャドを訪問し、DDS(Direction de la Documentation et de la Sécurité:文書管理・保安局)の文書を調査する許可が下りた。2003年2月には、ベルギーのDaniel Fransen判事もチャドを訪問し、犯罪の現場を被害者と共に視察し、DDSの文書も確認した。そして、審議が始まってから5年後の2005年9月19日、Fransen判事は人道犯罪でハブレの国際逮捕状を出し、セネガルからベルギーへの送還を要請した。

送還要請に対し、当時のコフィ・アナン国連事務総長や、コナレ・アフリカ連合代表も後押しし、2005年11月15日にセネガル当局はハブレを逮捕した。しかし、10日後の11月25日、ダカールの高等裁判所は、セネガルの法律の下では送還を裁定することはできないとし一時釈放、ワッド大統領に決定をゆだねた。その数日後、セネガルの内務大臣、次いで外務大臣がアフリカ連合に審判の決定をゆだねるとした。2006年1月、アフリカ連合はハブレの裁判に関する審議委員会を設置した。

2006年5月19日、国連はセネガルがハブレを起訴あるいは送還しなかったことは残虐行為(Convention contre la torture)の国連協定に違反していると判断し、ハブレの裁判あるいは送還できるような法的整備を行うよう求めた。2006年7月、アフリカ連合もハブレがセネガルにいる限り、セネガルが国際法の下に、そして「アフリカの名の下に」その裁判を行うべきであとし、セネガルのワッド大統領も受け入れた。そして4ヵ月後の11月、政府官房長官が法改正を行う見通しであることと、法改正の監視、チャド政府との連絡、証人の保護システムを構築、裁判にかかる資金調達を行う特別委員会を設置することが決定された。

2007年1月31日、セネガル国会は新たな法律を採択し、国外で発生したジェノサイドや人道犯罪、戦争犯罪、残虐行為を裁くことが可能となり、やっとハブレ裁判を開始できるようになった、と思われた。

しかしながら、セネガル政府は2740万ユーロの裁判資金が必要と主張して、すぐに裁判が開始されることはなかった。ベルギーの裁判所は、国際司法裁判所に対し、セネガル政府へハブレをベルギーへ引き渡してベルギーで裁判を行えるよう要請してほしい旨を伝えたが、国際司法裁判所はその申し立てを受け入れなかった。

このようにセネガルでの裁判は、一進一退で全く進歩がみられない中、2008年8月17日、チャドの裁判所がハブレに死刑の判決を下した。セネガル亡命中のハブレに対し、実際に刑が執行されるかどうかは別として、まずは判決が下されたことが大きな進歩だった。

2010年11月、ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)の裁判所が、ハブレ裁判はセネガルだけで解決できる問題ではないため、アフリカ連合やチャド政府、そして国際的な財政支援を得たアドホックな特別法廷を設けるべきであると発表し、2011年4月に特別法廷が設置された。

しかしながら、セネガルはその後も立場を翻し、結局ワッド前大統領就任中は裁判が開始されることはなかった。その後2011年6月には、アフリカ連合がハブレをベルギーに引き渡すよう勧告し、セネガル政府はチャドへ引き渡すと発表したが、実現しなかった。


そして、2012年4月にセネガルの政権が交代し、Macky Sall(マッキー・サール)新大統領が就任したことで、事態が前進することとなった。

先週の水曜日、2012年8月22日、セネガル人と他のアフリカ人の裁判官から構成される特別法廷がやっと設置された。まだ、資金問題は解決していないようだが、今度こそは裁判が始まることを願う。






2000年に提訴された件が、12年経った今も審議すら始まらない状況にある。

こうしているうちに、70歳になるハブレ氏も年を取り、責任を追及できない状況になってしまうかもしれない。被害者が全く報われない状況にだけは陥ってほしくない。

裁判資金も27億円。
このお金でどれだけの貧困対策支援ができるだろうと想像してしまう。






また、進捗があったら記事にします。


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by iihanashi-africa | 2012-08-29 07:44 | チャド | Trackback | Comments(0)
「アフリカのピノチェト」2:3か国で告訴
[前回の続き]
「アフリカのピノチェト」1:イッセン・ハブレという人


1990年にハブレ政権が打倒された後、AVCRP(Association des Victimes de Crimes et Répressions Politiques au Tchad)という被害者団体が組織され、792人の犠牲者に対する残虐行為で、被害者と犠牲者の家族がハブレ前大統領の提訴を試みる。そして、調査委員会も裁判を行なうよう政府に勧告して、被害者団体を後押しした。しかし、チャド政府は、セネガルに亡命したハブレ前大統領の引渡しを求めることもせず、またチャドに留まる共犯者を起訴しようともせず、何の行動も起こさなかった。

1999年、チリのピノチェト大統領の告発を機に、チャドの人権保護団体ATPDH(Association Tchadienne pour la Promotion et la Défense des Droits de l’Homme)が、Human Rights Watchにハブレをセネガル司法の元で告訴するための支援をして欲しいと要請し、様々な国際人権団体と協力して調査が始まった。


2000年1月25日、セネガル地方裁判所に7人の被害者と被害者団体AVCRPが、ハブレ前大統領を告訴した。書類は予審判事Demba Kandji(デンバ・カンジ)の元へ送られて審議され、原告もセネガルへ赴き証言した。審議は非常に早いスピードで行なわれ、9日後の2月3日には、ハブレを人道的犯罪と残虐行為で保護観察下に置いた。

しかし、数週間後、政治的圧力がかかることになる。ダカール高等裁判所の控訴院弾劾部に、ハブレの審議取り止めの申し立てが提出され、これまで裁判に肯定的だった判事たちも態度を一転、新たにセネガル大統領に就任したアブドゥライ・ワッド大統領(当時)も「ハブレ氏がセネガルで裁かれることはない」と宣言した。そして、デンバ・カンジ判事は異動となった。

被害者団体は、「国連協定によれば、このような残虐行為に対し、セネガルは裁判を行なうか、犯罪当事者を本国へ送還しなければならない」と主張したが、2000年7月4日、高等裁判所は「外国で犯した犯罪をセネガルの裁判所が裁くことは不可能」として、ハブレの審議を取り止め、ハブレは自由の身となった。


2000年10月26日、17名の被害者が拷問の直接の実行者であるDDSのメンバーを、チャドの裁判所に告訴した。デビー大統領も原告団を支持し、2001年5月、裁判が始まった。そして、さらに十数名の被害者が告訴した。しかし、その後原告や原告側弁護士に対する圧力がかかる。2001年6月11日には、弁護士Jacqueline MoudeïnaがかつてのDDSメンバーによる手榴弾の破片で負傷した。原告の中には、職を失ったものもいる。Moudeïna弁護士は2002年4月にジュネーブで人権保護に関する賞を受賞している。この裁判は、2008年に決着を迎えることになる。

実は、2000年の報告書で、アメリカがハブレ政権への武器支援だけでなく、DDSにも資金面・物資面両方での支援が行なわれており、DDSメンバーがアメリカで研修を受けていることも分かった。しかし、その後これについてはなんら議論がないため、ここでは触れないでおく。


セネガルでハブレの審議中止が決定される前、別の被害者(21人、内3人がベルギー国籍を取得している)も同じように国際被害者団体の支援を得てベルギーでハブレを告訴し、ハブレのベルギーへの送還を要請した。ベルギーでの判事はDaniel Fransen。当時ベルギーには、「犯罪者の国籍あるいは犯罪が行なわれた場所に限らず、人権を甚だしく脅かす行為に対する刑事裁判は行なえうる」という法律が存在した。2003年8月、アメリカ政府の圧力によりこの法律は廃止されることになるが、臨時の条項が制定されハブレの裁判は続けられた。


2001年4月、ワッド・セネガル大統領は、ハブレに1ヶ月以内にセネガル領土から離れるよう勧告した。これに対し被害者団体は、国際法が軽視されている国へ逃亡する可能性があるとして、国連へ嘆願書を提出。国連はセネガルに、ハブレを国外へ追放せず、セネガル国内へとどめるよう要請、2001年5月、ワッド大統領は要請を受け入れた。



最終章へ続く。


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by iihanashi-africa | 2012-08-28 07:20 | チャド | Trackback | Comments(0)
「アフリカのピノチェト」1:イッセン・ハブレという人
随分前にブログにアップしようと書いていた記事がある。

「アフリカのピノチェト」とまで言われたチャド前大統領Hissène Habré(イッセン・ハブレ)氏の裁判の話題である。

多分、ご存じない方も多いと思う。

つい数日前に再び話題に上がったので、書き溜めた記事を幾つかに分けてアップしてみようと思う。

***************************************

イッセン・ハブレ氏は、1942年にチャドの北部Fayaで誕生した。チャドは1960年の独立後、キリスト教徒の多い南部を基盤とするトンバルバイ政権のもとで、イスラム教徒の多い北部は冷遇されてきた。その状況下で、北部でGoukouni Oueddei(グクニ・ウェッデイ)率いる反政府組織「チャド民族解放戦線(FROLINAT)」が組織された。ハブレは、当時は珍しくパリの政治学院で博士課程に進んでおり、読み書きの出来ないメンバーの多いFROLINATにハブレを入れるべく、グクニは何度もハブレに会って説得して引き抜いた。しかし、しばらくしてヨーロッパ人人質問題でハブレはグクニと決裂し、一時身を隠すことになる。一時は死亡したのではないかという噂も飛び交った。

1978年8月、トンバルバイ政権をクーデタで倒したFelix Malloum(フェリックス・マルーム)大統領の元で首相に任命され、世間を驚かす。しかし1年も経たないうちに、マルーム大統領とも対立し、1979年にはマルームが権力の座を追いやられ、一時は決裂したグクニ氏と組んで、グクニ政権のもとで国防大臣に就任する。しかし、グクニとハブレは再び決裂。1980年にはグクニの人民軍FAPとハブレの北部軍FANの間で内戦が勃発した。そこに、チャド北部アオゾ地域のウラン資源を狙うリビアの今は亡きカダフィ政権が介入してグクニ派を支援し、一時はハブレが劣勢であったが、1982年6月に首都を奪回してグクニ政権を倒し、10月にハブレ大統領が誕生した。

しかし、グクニ派は再びリビアの支援を受けて、チャドの北部で反乱を起こす。1984年9月には、チャドが南北に分断された状況に陥り、グクニ側からは南部と北部にそれぞれ連邦政府を設置することが提案されたが、ハブレはその提案を受け入れず、フランスとアメリカに武器の支援を直談判し、この支援を得たことで1987年に再びチャド全土を支配下に入れた。

これは、ハブレ大統領を紹介する当時のフランスの番組。
http://www.ina.fr/histoire-et-conflits/autres-conflits/video/CAB87025389/portrait-hissene-habre.fr.html

しかし、約4年間にわたるリビアの介入した南北の内戦は、チャドの歴史の中で、最も悲惨な期間であったと言ってもよい。この間に、ハブレは秘密警察ともいえるDDS(Direction de la Documentation et de la Sécurité:文書管理・保安局)という組織を設置し、政府に反対する者は片端から拷問にかけ、政府を脅かす危険のある多数派の民族も殺害した。特に、1984年のサラ族やその他の南部の勢力に対する迫害、1987年のアラブ系部族やハジェライ族、1989年から90年にかけてのザガワ族に対する迫害が知られている。

犠牲者の正確な数字は、現在も不明のままだが、1992年に現デビー大統領によって設置されたチャド法務省の調査委員会は、4万人が殺害され、20万人が何らかの拷問を受けており、組織的な拷問が行なわれていたと発表している。実際に殺害や拷問を執行していたのはDDSで、その局長のポストはハブレ大統領と同じ民族出身者に限られていたとのこと。DDSで拷問・殺害の加害者として関わった人数も千人を超えると言われている。このように、彼の大統領就任中の人権侵害や個人の自由の侵害、特定の民族優遇は量るところを知らず、これが、「アフリカのピノチェト」と呼ばれる所以である。

ハブレに追いやられたグクニ氏も、2010年にRFI(Radio France International)でハブレについてこう語っている。(http://www.rfi.fr/emission/20101127-2-portrait-hissene-habre-66

「彼は、非常に頭が良く、計画的である。一方で自分の野心を実現するためには、両親も犠牲にするような冷酷な人間でもある。[・・・]また、一度不信感を抱いた人とは、いつまでも分かりあうことはない。」

1990年、現大統領のIdrisse Deby(イドリス・デビー)にクーデタで権力の座を奪われ、セネガルへ亡命した。



次回は、ハブレが告訴されてから現在に至るまでを記述する。


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by iihanashi-africa | 2012-08-27 08:30 | チャド | Trackback | Comments(0)
5回目の和平合意、そして5回目の破棄
昨日まで、友人がマダガスカルへ旅行に来ていました。まだ情勢は安定しているとは言えませんが、旅行者は少しずつ戻ってきているような気がします。昨夜、友人を空港へ見送りに行ったら、ツアー旅行者と見られる団体に2組会いました。しかし、騒動後閉鎖したまままだ再開していないホテルも多々あります。観光業完全復活まではまだ遠いかも。

先週末は、1日休暇をもらって北東部のヌシ・ベという島へ旅行してきました。この時の写真は次回載せるとして、旅行中にテレビでチャドのニュースを耳にしたので、今回はその話を。


5月6日から8日にかけて、チャド東部(いつものようにAm DamとGoz Beidaのあたり)で政府軍と反政府勢力の激しい衝突があり、約250人の死者が出ました。2008年2月に首都ンジャメナでクーデタ未遂が起こり、その後6月まで東部、南東部、北部で衝突が続きました。しかし、その後反政府勢力はスーダン側へ“戻り”、体制を建て直し機会をうかがっていました。

c0116370_544177.jpgそして再び今回の衝突です。久しぶりに多くの死者が出た激しい衝突だったため、Goz Beidaの難民キャンプで働く友人と、チャド東部中心地のAbéchéで働く友人に安否確認の電話をしました。しかし、Goz Beidaの友人には全く電話が通じず、Abéchéの友人には5回目でやっとつながりました。Abéchéは政府軍がいつも以上に活発に街中を動き回っていたものの、衝突はAbéchéから70km近く離れたところで起き、反政府勢力は政府軍に抑えられAbéchéには到達しなかったので平穏だったそうです。難民キャンプの活動もいつも通り行われていると。よかった。


今回の衝突がこれまでの衝突と異なる点があるとすれば、それは反政府勢力が有力な勢力がほとんど全て集めた連合組織であったこと。これまでも、2006年4月のクーデタ未遂はUFDD、RFC、FUCの3勢力、2008年2月のクーデタ未遂はUFDD、UFDD-F、RFCの3勢力の連合組織で攻撃が行われ、その後もUFDD、FSR、UFDD-FがAN(Allianace Nationale)という連合組織を結成するなど、連合体として動いてはいました。ただしチャドには現在反政府勢力が大小20は存在するはずですので、そのうちの3派が連合しても反政府勢力がまとまっているとは言えないのです。現に、UFDDとRFCは馬が合わないですし、反政府勢力内でも駆け引きがあります。

その反政府勢力が今年1月18日に、UFR(Union des Forces de la Résistance)という連合組織を結成しました。メンバーは以下の通り。

1. FSR(le Frant pour le Salut de la République):Ahamat Hassaballah Soubiane
2. RFC(le Rassemblement de Forces pour le Chamgement):Timan Hissein Erdimi
3. UFCD(l’Union des Forces pour le Changement et la Démocratie):Adouma Hassaballah Djadarab
4. UFDD(l’Union des Forces pour la Démocratie et le Développement):General Mahamat Nouri Allatchimi
5. UFDD-F(l’Union des Forces pour la Démocratie et le Développement – Fondamental):Abdelwahid Aboud Mackaye
6. CDR(le Conseil Démocratique Révolutionnaire):Albadour Acyl Ahmat Achabach
7. FPRN(le Front Populaire pour la Renaissance Nationale):Adoum Yacoub Kougou
8. UDC(Union Démocratique pour le Changement):Abderamane Koulamallah


小さい勢力は入っていないかもしれませんが、チャド東部で活動する有力な反政府勢力は全て入っています。かつてない勢力です。そしてこの勢力の代表はRFCのTiman Erdimi。デビー現大統領の甥です。かつて政府官房室にいましたが、2005年10月に反政府勢力に寝返っています。

このかつてない勢力が、今回は政府軍に抑えられました。多分戦略が悪かったのでしょう。しかし、UFRは「勝利宣言」を出しています。コミュニケでは政府軍の車輌を何台爆破して、何台押収して、何人殺害して、何人を人質にとって、、、、とつらつらと書き連ねていますが、これで勝利したというのだから、全く何を目的に戦っているのか理解できなくなります。

この衝突に先立ち、5月3日にドーハでチャドとスーダンは5回目(かな?多分)の和平合意を締結しています。この和平合意も、2日後の5月5日にはチャド側から破棄されました。この時点で、反政府勢力がスーダンからチャドに入ってきたという情報があったのです。つまり、スーダンが反政府勢力を依然として支援していると非難したのです。和平合意は、トリポリ、ハルツーム、リャド、ダカールに続き5回目。そして破棄されるのも5回目です。

スーダンとチャドでは終わりの見えない紛争が続いています。

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by iihanashi-africa | 2009-05-15 05:53 | チャド | Trackback | Comments(0)
枯れる水源 枯れる湖
3月1日付の朝日新聞の1面と2面にこんな記事が掲載されました。
取材に同行した緑のサヘルの方が送ってくれたものです。

              『枯れる湖 草が漂う
               地球異変 アフリカ・チャド』


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過去40年でチャド湖の水面が20分の1に縮小してしまったことは有名です。チャド湖を国境に持つ3国(チャド、ニジェール、ナイジェリア)とチャド湖に流れ込む主な水源であるシャリ川の流域に入る2国(カメルーン、中央アフリカ)がチャド湖保全委員会なるものも設置しています。

チャド湖の縮小は温暖化の例として挙げられることが多々あります。もちろん温暖化は縮小の主な原因です。しかし、それだけではありません。人口増加による水利用者の拡大、周囲の樹木伐採、そして水源であるシャリ川流域の水利用の拡大など。今回の朝日新聞の取材では、チャド湖への流水量やシャリ川の水利用に注目したことに大きな意義があると思います。

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by iihanashi-africa | 2009-03-04 04:32 | チャド | Trackback | Comments(3)
色使い
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by iihanashi-africa | 2008-12-17 00:08 | チャド | Trackback | Comments(2)
注文NO. 81707503の行方

難民:国境を越えて他国に保護を求める人々
国内避難民:定住地を逃れ、国内で避難生活を送る人々

****************************************************

チャドのある国内避難民キャンプで、ある女性が、同じ境遇にある国内避難民と共に、100トン以上の小麦粉、塩、砂糖、油を配布してくれる人道支援者を待っている。

女性の名前はハワ・ブライム。チャド南東部に位置するゴズ・ベイダの町に近いコロマキャンプで生活している。

ハワ・ブライムは、配布される食糧がどのような経緯でキャンプにたどり着いているかは知る由もない。彼女はただ、支援者が配布する食糧を受け取り、家族10人に食事を与えているだけである。

この地域では、10万人以上のスーダン難民やチャド国内避難民のために、毎年5万トン以上の食糧支援が行なわれている。これらの食糧はどのように最終目的地まで運ばれるのだろうか。

プロセスはこうである。

まず、需要を確定し、どれだけの食糧が必要か計算、寄付を募り、食糧を購入し、運搬する。そして、支援のインパクトを評価し、支援者に報告書を提出する。これの繰り返しである。しかし、どの段階も非常に複雑なプロセスになっている。

WFPのカントリーダイレクターはこういう。「配給を受ける人々はもちろん、私たちのパートナーでさえも、食糧支援のプロセスを理解していない。多くの人は、私たちが食品店で食糧を買っていると思っているが、それは全く違う。」

実は、一つの支援団体が食糧支援を行なうと決めてから、その支援が実際に受益者の手に渡るまでには1年以上かかっている。

注文 NO. 81707503

ハワ・ブライムが今受け取ろうとしている食用油の配給が決定されたのは、15ヶ月前に遡る。USAID(アメリカ政府の開発援助機関、日本でいうJICA)の和平食糧プログラムダイレクター、ジェフリー・ボーン氏が、ワシントンの事務所で、925トンの食用油を支援する注文書NO. 81707503にサインした。

1ヵ月後、アメリカの農業省が、この注文を実施する入札募集を発表した。

最終的にシカゴの納入業者が落札し、油は《USA》と書かれた特製の銀製容器に入れられた。同時に、USAIDは運送会社の入札募集もかけた。

3ヶ月後、注文NO. 81707503はシカゴから発送され、3箇所の中継地を経由して、ヴァージニア州のノーフォーク港に到着した。そして、巨大コンテナ船2隻に積載され、アメリカを離れた。

最初の中継港であるスペインのアルヘシラス港で、油は別の少し小さめのコンテナ船に積み移された。

さらに1ヵ月後、注文NO. 81707503はアフリカの地に到着した。とはいえ、まだ油はキャンプから2235km離れたカメルーンのドゥアラ港にある。

鉄道輸送

ある土曜の午後、チャドの首都ンジャメナのWFP事務所で、ロジ担当官ヘンリク・ハンセンの机の上の灰皿が、タバコの吸殻の山になっていた。彼は、食糧支援の巨大積荷をどうやってドゥアラ港から内陸まで運ぶか頭を悩ませていた。

カメルーンには、鉄道が一本走っているため、これを利用することは可能だが、恐ろしく時間がかかる上、対応も迅速ではなく、さらに930キロ北方のンガウンデレまで走っていない。そのため、注文NO. 81707503がドゥアラ港税関を通り、貨物車に積載され、2回に分けてンガウンデレまで輸送されるまで1ヶ月もかかった。

注文NO. 81707503は、そこから更に1200kmも移動しなければならない。

道路輸送

ヘンリク・ハンセンによると、理論的にはのべ約6千台のトラックを使えば全ての輸送が完了するのだが、大半のトラックが途中で故障し使い物にならなくなる。そのたびにWFPは運送会社や人道支援団体と口論になる。さらに、トラックが途中で襲撃されることもあり、その恐怖から運転手が引き返すこともある。その他にも、直前の輸送キャンセル、地方行政の圧力も道路輸送の障害である。

注文NO. 81707503は、2つのトラック輸送隊に分かれてンガウンデレを出発し、チャドとの国境を通過し、ンジャメナから900km離れたチャド東部のアベシェ(東部の人道支援オペレーション中心地)に到着した。1つ目の輸送隊は到着までに3週間、2つ目の輸送隊は1ヵ月半を要した。

アベシェに到着すると、積荷はWFPの中央倉庫に一旦ストックされる。その後、難民キャンプや国内避難民キャンプを管轄する4箇所の配給倉庫に分配される。コロマキャンプのハワ・ブライムの手に届くことになる油は、キャンプから185km離れたWFPの配給倉庫に到着した。

配給準備

注文NO. 81707503が、キャンプから185km離れたWFPの配給倉庫から、コロマキャンプから4kmの距離にある町ゴズ・ベイダのWFP倉庫にトラック輸送されるまで、さらに6ヶ月がかかる。

ワシントンDCの事務所でNO. 81707503の注文書にサインされてから15ヶ月が経過した。

コロマキャンプに配給される2日前、人道支援団体の担当者たちがゴズ・ベイダ地域の国内避難民キャンプのチャド人避難民リーダー25名を呼びミーティングを開いた。そこで、各キャンプの配給日や配給量が伝えられた。

その時、担当者がリーダーたちに、配給対象者はリストに名前を登録してある国内避難民に限ることを伝えた。前回の配給では、必ずしも国内避難民とは言えない人も受け取っていた。配給日前になると、キャンプ内のこれまで無人だった建物・テントに人が住み始める。これらの人々は、配給日に食糧を受け取れないと、人道支援団体の配給担当者を脅すことがある。ミーティングでは、このようなことが起こらないよう各キャンプのリーダーが保証してほしいことを伝えた。

朝8時半、コロマキャンプにトラックが到着した。100人以上が列を作って静かに待っていた。彼らは手に登録カードを持っている。

男性たちが、トラックから積荷を降ろすのに1時間半かかった。積荷には注文NO. 81707503も含まれている。

配給が開始された。ハワ・ブライムも列に並び、自分の番をいまかいまかと待っていた。彼女の番が回ってきて、食料や油を受け取った。

そしてこう言った。
「これでは、全く足りないよ」

~IRINの記事より~

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by iihanashi-africa | 2008-06-20 03:06 | チャド | Trackback | Comments(0)