カテゴリ:セネガル( 74 )
セネガルにベトナムの揚げ春巻きが浸透した理由
私が今勤務するオフィスはダカールの中心街から少しだけ離れたところ位置する。街中のように外国人が多い地域ではない。そのため、食事処といえばセネガル現地食のレストランかピザやハンバーガーのようなファストフードしかない。10年前にセネガルで働いていた頃は、毎日のように、こってりセネガル料理を食べていたのだが、最近は健康にも気を遣い、油と塩分少なめの料理を選ぶようになっている。着任してからオフィス周辺にあっさり野菜が食べられるところがないか探し、行きついたのがSaveur d’Asieというアジア系料理のテイクアウト。ダカールに何件もあるチェーン店である。買ってきてオフィスで食べるのがいつものパターンとなっている。

Saveur d’Asieのパッケージ。
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いつもの昼食セット。
生春巻きと揚げ春巻き。
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この揚げ春巻き、フランス語圏ではネムと呼ばれることが多いが、ダカールでは一般市民にも浸透した食べ物となっている。セネガルではPain chinois(中国パン)と呼ぶ人も多く、「ネム」といっても分かってもらえないこともしばしばだが、ものを見せるとすぐに分かる。

このネムがなぜオリジナルのベトナムからセネガルにわたり、ここまで浸透するようになったのか。この歴史について書かれた興味深い記事を、以前友人から共有してもらった。

「How spring rolls got to Senegal」
http://roadsandkingdoms.com/2016/spring-rolls-got-senegal/

読んでいただければ詳しく分かるが、背景も付け加えて簡単に要旨を書いてみる。

1945年、ベトナムは80年に及ぶフランスの支配を覆し独立したのだが、その後まもなく再支配をはかるフランスとの間に第1次インドシナ戦争が始まる。1954年、この戦争の停戦を定めたジュネーブ協定により国土が南北に分断された。第2次インドシナ戦争、所謂ベトナム戦争が始まるのは、その数年後である。

第1次インドシナ戦争でのフランス軍の介入には、5万人を超えるアフリカ兵が歩兵隊として送られている。日本ではあまり知られていない事実かもしれないが、1960年にアフリカ各国が独立するまでの植民地時代、フランスが関連した戦争に多くの仏語圏アフリカの方々が兵士として送られた。拉致のような形で強制的に送られた人も多いと言われている。各国アフリカの兵士の中でもセネガル人兵士は、Tirailleurs sénégalais(セネガル狙撃兵)と称され、有名になった。

ベトナムに送られたセネガル兵の中には、戦地ベトナムで妻を見つけて一緒にセネガルに帰国するものもいた。こうして第1次インドシナ戦争中にセネガルの地を踏んだベトナム人女性は100人ほどいたらしい。ベトナムの家族や社会には受け入れてもらえずセネガルにやってきたが、セネガルでも現地の言葉を覚えるまでは受け入れられず大変な思いをしたようだ。

更に、植民地下の兵士の給料など微々たるもの。女性たちは自分たちが持ち合わせている技能を活用して生計を支えなければならなかった。その中で、ダカール市街の中心にあるケルメルマーケットで料理をする人もいた。

記事に登場するJean Gomisの母もこうしてネムをよく作っていたが、Jean Gomis本人も母から作り方を習っていた。セネガルでは、今でも男性が家族のために料理をするのは珍しいが、当時はなおさら奇妙に見られただろう。しかしGomisは誇りをもって料理をしており、彼の料理の様子を近くで見ていた若者Pierre Thiamは、今やニューヨークで有名なセネガル料理のシェフとなっている。

私が毎日のように利用しているテイクアウトSaveur d’Asieは、ベトナム移民女性の息子が始めたらしい。

現在、セネガルでネムはストリートフードとなり、油でギトギトのネムが手に入り、本場ベトナムの味ではなくなったが、売っている本人がネムがベトナムから来たことすら知らないほど、ダカール市民の間に浸透する食べ物となった。


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by iihanashi-africa | 2017-10-29 02:19 | セネガル | Trackback | Comments(0)
SUZUKIという名前
2か月ほど前、私は苗字が「鈴木」に変わった。

今まで同じ苗字の方に出会うことなど皆目ない生活をしてきた私にとっては大きな転機で、日本では超平凡な苗字に新鮮さと若干の戸惑いを感じていた。日本の病院で「鈴木さ~ん」と呼ばれ、ん?これは私なのか?と周囲を見渡す状況は初めての体験だった。

セネガルに戻ると、休暇中に結婚することを事前に伝えていた同僚たちが私のオフィスに来て祝福してくれたのだが、苗字が「SUZUKI」に変わったことを話すと、「Oh~~~、SUZUKIか、今度はマダム・スズキと呼ばせてもらうよ」という冷やかしがあったり、「SUZUKIは、日本ではBig familyなんだろ?その仲間入りだな」と言われたり、なんと反応が良いことか。なんかとても由緒ある家に嫁入りしたような感覚になった。まあ、もともとKUMIKOと呼ばれていたので、わざわざSUZUKIに呼び名を変えていただく必要はないのだが、そう呼びたいようなので、あえてツッこまないことにした。

つい先ほど、出張でニジェールに到着したのだが、今回の出張が鈴木姓のパスポートを使う初めての旅となった。経由地のワガドゥグに到着後、乗り継ぎ便の搭乗券を受け取ったら座席が通路側だったので、窓側に変えてほしいとお願いしたところ、カウンターのブルキナファソ人のおじさんに「おまえはSUZUKIなのか。SUZUKIを何台も持ってきてくれたら変えてやる(笑)」と迫られた。「次回立ち寄るときに何台でも持ってくるよ」という私の返答に、「よし、ずっと顔を覚えているからな」と。こういう会話を通して相手と打ち解けることで、たまに複雑になる単純な物事もスムーズに進む。

ニジェール出張に先立って、同僚たちの話を夫にしたら、「今度は、SUZUKI、HONDA、MITSUBISHI、って言われるようになるよ」ということだったが、早くもやってきた楽しいシチュエーション。

日本にいると何も特別感を感じないこの「SUZUKI」という名前が、アフリカでは複雑な状況を脱出する助けになってくれるかもしれないと、少し楽しみになった。

*****************

実は、この話、後日談がある。

2週間後にニジェール出張を終え、往路同様にブルキナファソ経由でセネガルに戻った。経由地のワガドゥグで、飛行機のタラップを下りたところに、ワガドゥグが最終目的地の乗客用とトランジットの乗客用のバス2台が停留してあり、タラップの下で係員が下りてくる乗客に、「ダカールの方はあちらのバスへ、ワガドゥグの方はあちらのバスへ」と誘導していた。私も前の乗客に続いてタラップを下りると、係員が「SUZUKIは向こうへ」とトランジットのバスを指した。私も驚いて係員の顔を見ると、なんと往路でSUZUKIのくだりのやり取りをしたブルキナファソ航空の方だった。

よくぞ分かりにくいはずのアジア人の顔と名前を憶えていてくれたと感心しっぱなしで、次回ブルキナファソに出張するときは、SUZUKIのくだりの進展を考えておかねばと思ったのである。






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by iihanashi-africa | 2017-10-23 01:48 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガル最大のカポックの木
パンヤノキと呼ばれる木がある。
学名Ceiba pentandra、英語でKapokカポック、フランス語でFromagerと呼ばれる。アフリカや中南部アメリカが原産だが、現在はインドネシアやタイでかなり栽培されているようだ。

Wikipediaによると、「カポックの実から採れる繊維は、糸に加工するには不向きで、燃えやすいという難点がある一方で、撥水性に優れ軽量である。枕などの詰め物やソフトボールの芯として使われている他、第二次世界大戦頃までは救命胴衣や救難用の浮き輪にも利用されていた。今でも、競艇業界や海上自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいる」そうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF

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私が初めてカポックの木を見たのはマダガスカル。それ以前にも見たことはあったのかもしれないが、たぶんその存在を知らずに通り過ぎていたかも。

上記の通り、カポックの木はフランス語でFromagerと呼ぶ。マダガスカルでカポックを見たときは、「カポック」と教えられたため、Fromagerという呼び名を知らなかった。セネガルに来てから、あるガイドにToubacoutaの近くのMissirahという村に、セネガル一大きいFromagerがあると聞き、セネガル一大きい「チーズ工場」とはどんなもんかと見に行ったことがある。フランス語でFromage(フロマージュ)はチーズ。Fromagerはチーズ製造業者を意味する。この時は、ほんとにMissira村に到着するまでチーズ工場を見に行くつもりだった(笑)。
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到着してから、村の人々にFromagerはどこかと聞くと指さして教えてくれ、辿り着いたのがここ。大きな木だった。ここに着いてもなお、木の向こう側にチーズ工場があると思っていた。
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そして「あの木の横にFromagerのガイドがいるよ」と聞き、なんかよく意味がわからず色々質問するうちに、やっとカポックの木のことをFromagerと呼ぶことが判明。なぜFromagerと呼ぶのかは未だ不明。もちろんチーズの味がする訳ではない。木が柔らかくチーズのように切れるからという説もあるようだが、本当のところはよく分からない。

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Missirah村のカポックは本当に大きい。よく見る大きさのカポックの木の根元は、こんな感じで地を割るように根が生えている。

それに比べ、Missirah村のカポックは巨大である。近くから見ると、いで立ちといい形といい、とても神秘的な感じがする。
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枝も大きなのこぎりの歯のように四角く薄っぺらい。こんなカポックの木は見たことなかった。


このカポックの木は、研究者によると樹齢約900年だという。Missirahが村として出来上がる以前に、Ansoumana Ndourという人がこのカポックの木を植えたと言い伝えられており、現在に至るまで、その子孫によって守られている。多くの神話や伝説があり、村人から聖なる木として崇められている。

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若いカポックの木は幹が鋭いとげで覆われている。

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よく見ると、とげがなくなっている部分があるのだが、実は、この辺りでは子どもが生まれると、カポックのとげをネックレスにして子どもにつけ魔除けとするらしい。このとげは、木が大きくなるにつれてなくなっていく。これがまた不思議である。



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by iihanashi-africa | 2017-10-21 03:10 | セネガル | Trackback | Comments(0)
アフリカンルネッサンスモニュメント
2010年、私はマダガスカルにいた。定期購読していたJeune Afriqueというアフリカ情報誌の表紙が、この年の4月3日にセネガルで除幕されたモニュメントだった。まさかこんな大きなモニュメントがセネガルにできるとは想像もしなかったため、最初は合成写真かと思ったほどだった。

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高さ52メートルの銅像。高さはニューヨークの自由の女神の1.5倍あるらしい。上半身裸の男性が左手に子どもを抱え、右手で女性を支え、子どもが指さす方向に向かって今にも飛び立とうとする雰囲気を醸し出している。奴隷や植民地という暗闇から這い上がって光の方向に向かって進むアフリカをイメージして建設されたそうだ。子どもが指している方向は北西。まさにニューヨークの自由の女神がある方向である。

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モニュメントは当初、ルーマニア人彫刻家のVirgil Magherusan氏により構想され、その後、セネガル人建築家Pierre Goudiaby Atepa氏が引き継いた。とても社会主義を連想させるモニュメントだが、それもそのはず、北朝鮮政府のプロパガンダ銅像を建設しているMansudae Overseas Projects(万寿台創作社)が手掛けたものなのだ。

Mansudae社は、1959年にピョンヤンに設立された社員4千人の会社。北朝鮮の様々な銅像を建設してきた。金正恩や金正日の巨大な銅像を手掛けたのもMansudae社である。なぜ北朝鮮の建設会社がセネガルの銅像を建設するに至ったのか?理由はいたってシンプルで、低コストだったからである。すでにアフリカの18か国で似たような銅像を建設している。
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出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mansudae-Monument-Bow-2014.jpg

モニュメント建設は2006年に、当時の大統領Abdoulaye Wadeが始めた。そして2010年、セネガル独立50周年の年に除幕式が行われた。アフリカ19か国の大統領が出席する盛大な除幕式だった。建設費の合計は2700万USドル。すべて現金で支払われたそうだ。

完成後、ワッド大統領はモニュメントの観光収入の3分の1を知的財産権として自分が受け取ることを主張し、多くの国民から反発を受けた。その後、憲法改正、汚職、選挙での不正など、様々な疑惑がかけられ、2012年の大統領選挙でも敗退した。

建設時に様々な議論があり、国民の納得のもとに建てられたモニュメントではないが、今となっては観光地の一つになっている。

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モニュメントの入口。
入口を入るとまず奴隷解放や人種差別で戦った世界の英雄たちの展示がある。フランス語と英語でガイドがつく。

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2階にはセネガルの様々な民族の特徴を表すオブジェがある。作者もセネガルでは有名らしいが、名前を忘れてしまった。。

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そして3階には、会議室がある。
この建物の中に入って一番驚いたのが、この会議室。建設当時は実際にここで会議をすることもあったらしい。

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そして、エレベーターで15階へ向かう。

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到着するのは男性の頭の部分。男性の頭にハチマキを巻いたように一周しているのが展望台の窓。

展望台からはダカール市内が見渡せる。
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で、ふと見下ろすと女性の顔が。
上から見る女性の顔って斬新。ちゃんと頭の上に避雷針もついている。
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このモニュメント、エレベーターの他に階段もあるそうだが、普段はこうして閉められている。

夜も綺麗にライトアップされる。





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by iihanashi-africa | 2017-10-19 05:46 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 4:セネガルにおける薬物依存
Cine Droit Libre Dakar 3 :カメルーン北部のボコハラム対策と位置付けた警察の横行

日本にはダルクDARC(Drug Addiction Rehabilitation Center)という薬物依存症回復施設がある。日本で最初に開設された、民間薬物依存症リハビリテーションセンターである。私の両親は、山梨ダルクを2008年の設立当初から支援しており、その関係で何度かセミナーに参加し、私自身もそのたびに多くを学んできた。依存症に対する考え方がセミナーに参加するたびに変化していったのが自分でも分かるくらいポジティブに影響を受けている。

先日、セネガルにもダルクのような依存症回復施設があることをこのドキュメンタリー映画を通して初めて知った。22分の短いドキュメンタリーだが、セネガルにおける薬物依存の現状をしっかりと表現した興味深い映像である。

『Harm Reduction:The Senegalese Experience』

Osiwa
22分、2016年





2014年12月、CEPIAD(Centre de prise en charge intégrée des addictions de Dakar)
というセンターが首都ダカールのファン病院の中に開設された。西アフリカで初めて設置された薬物依存症回復センターである。

日本同様、セネガルでも薬物依存は犯罪として刑罰が下る。しかし、欧米諸国ではドラッグコート(薬物専門裁判所)が設けられ、刑務所「犯罪→矯正」ではなく、薬物依存プログラム「病気→治療」にシフトした対応が施される。依存症というのは病気である。薬物依存でもアルコール依存でもクーラー依存でも依存度が高くなればそれは依存症という病なのである。しかし、頭では理解しているつもりでも、残念ながらいまだ日本では精神論が根強い。(一部は山梨ダルクの代表の記事より)

セネガルの話に戻ると、依然として薬物使用は犯罪と捉えられてはいるものの、一方で2014年から、より前向きなイニシアティブもスタートした。CEPIADの開設である。2011年の調査で、ダカールだけで1300人の薬物使用者がいることが分かり、まずは彼らの元へ出向いて信頼関係を構築するところから始めている。CEPIADが開設したからといって、彼らの方から来ることはまずないからである。当初は、自分たちを逮捕しに来たのではと警戒する人が多かったそうだ。地道な活動を続けて、2016年3月現在で、128人の依存症患者を受け入れている

施設では主にダカールに住む薬物依存者が依存症に適した医療・社会サポートや、社会復帰のためのサポートを受けられる。先生が一人ずつ依存症患者の話を聞く。2時間患者さんは自由に話ができ、普通の医者のような診察はない。グループサポートセッションもある。患者さんが自由に話せるミーティングだ。センターの庭には野菜畑や養鶏所もあり、アートセラピーセッションとして絵画やバティック布の作成方法を習うこともできる。セネガルでは仕事に就けない若者が多く、社会復帰のためには職業訓練も並行して行わなければ効果的ではないようだ。

セネガルでは、注射器をみんなで使いまわしたりするため、薬物依存症患者のHIVや肝炎の感染率は平均よりも高いという。センターは薬物を購入することを強制的に止めることはできない。しかし、一緒に話をし、リスクを減らしていく方法を考え、彼ら自身が自分や仲間を守ることができるように導いていくとスタッフは話す。

映画の中で、こういう印象的な言葉があった。

男性患者:「この10年間で初めて家族と食事をとることができたよ」
女性患者:「バティック布の仕事が好きで毎日欠かさず来るようになりました。依存症になる以前よりも働いています」
男性患者の母親:「以前の息子は、私のクローゼットの服を盗んで売っては薬物を買っていました。攻撃的になったり一日中ベッドで寝転がっていることもありました。息子は私から全てを奪い、友達もいなくなってしまいました。当時は、神に、息子が治らないならもう連れて行ってくれとお願いしたほどでした。でもCEPIADに通い始め少しお金を稼げるようになってからは、毎日朝早くでかけ、稼いだお金を家に持って帰ってくるようになったのです」

このテーマも、セネガル国内でもう少し注目されるといいなあ。


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by iihanashi-africa | 2017-10-03 08:12 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Officeワードでウォロフ語が校正される
今日の発見。

ワードでフランス語の資料を読んでいた時のこと。

突如、ワードの上の方に、この文書には校正の対象ではない言語の文字が含まれているので、校正ツールを入手してくださいというようなメッセージが出てきた。

ん??私、最近パソコンを新調したけれど、先日フランス語の校正ツールはダウンロードしたばかり。あれ、ちゃんとダウンロードできていなかったかな?と思いながら、もう一度よくよく文章を見ると、「この文章には、校正の対象ではないウォロフ語の文字が含まれています」と書かれていた。

    !!!!
!!!!ウォロフ語!!!!
    !!!!


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え、まさか、ウォロフ語がワードで校正されるの?と驚きを隠せないまま、ワードの下を見たら、言語がウォロフ語で認識されていた!

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私自身、ウォロフ語は挨拶程度しかできないので言語パックはダウンロードするつもりはないものの、ウォロフ語があるなら他のアフリカの言語もあるのではと興味津々でOfficeの言語アクセサリパックのサイトを開くと、あった~~~~~~!!!すごい!!!


私が分かる限りで、アフリカで使われている言語がこんなにも校正されるようになった!

ヨルバ語(ナイジェリア、ベナン、トーゴ)
ウォロフ語(セネガル、ガンビア、モーリタニア)
スワヒリ語(ケニア、タンザニア、ウガンダ)
イボ語(ナイジェリア)
ハウサ語(ニジェール、ナイジェリア)
アムハラ語(エチオピア)

2013版は対応していないが、2016版のOfficeから導入されたみたい。
いやあ、すごい。恐るべし、言語ツールの進化。


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by iihanashi-africa | 2017-09-28 06:40 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 2 : ヨーロッパに向かう移民の道中の厳しさを描いた映画
先日書いたCine Droit Libreという映画祭で何本か映画を見たので、シリーズで書いていこうと思う。


『Migrants – Retour d’enfer(移民、地獄からの生還)』

監督:Patrick Fandio
102分、コートジボワール

一時期よりは少し数は減少してきてはいるものの、今日もいまだにヨーロッパというエルドラドを目指して移住を試みる若者は多い。

2014年時点で、世界各国に124万人のコートジボワール移民がいる。国の人口の5.4%である。そのうち60%はフランス、8%がイタリア、8%がイギリスに住んでいる。2017年1月~2月にかけて、イタリアに着いたコートジボワール人の不法移民は800人を超えるという。

コートジボワール政府はこの状況を危惧し、このドキュメンタリー映画の作成を支援することにした。Ministère de l’intégration africaine et des ivoiriens de l’extérieur(より統一した西アフリカを目指し、海外のコートジボワール人が自国に貢献できるような環境を作るためのコートジボワールの省)は、若者が不法移民になるために死と隣り合わせの過酷な道を通ってイタリアに向かうことをなんとか妨げるべく、その啓発活動の映像の作成を決めたのだ。これまでは、ヨーロッパの監督が撮影・編集した映像しかなく、コートジボワール人の監督の視点から撮ってほしいという依頼だったようだ。

映画は、不法に入国しようとして叶わずにコートジボワールに戻ってきた若者の声から始まる。ある若者は「ヨーロッパに住む友人たちが、大きな車を乗り回し、大きな家に住んでいる写真をSNSにアップしているのを見ると、自分も行ってみたくなった」と話す。そしてヨーロッパで路上生活をする若者は、「SNSに格好いい写真を載せている人もいるけど、多くはヨーロッパにいながらみじめな生活をしているのを見られたくないからたまたま撮れたいい写真を載せている」と話していた。

映画では、リビアにいる不法移民仲介業者と接触し、どのようにニジェールに行くべきか、ニジェールに着いたら何をすべきか、いくら必要かなど、会話が流れている。すべて詐欺まがいである。そして、今やカダフィがおらず無秩序状態のリビアの砂漠をトラックで通過する危険を衝撃的な映像とともに見せている。Youtubeで映画を発見した。全て見られるようなので、フランス語が分かる方は是非どうぞ。




上映後の質疑応答で、アフリカの問題はヨーロッパの問題でもあると意見した方がいた。それに対して監督はこう話す。「確かにそういう意見もあるだろう。しかし、私たちアフリカ人は、ヨーロッパに責任を押し付けるのではなく、まずは自分たちの問題として考えなければならない」

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by iihanashi-africa | 2017-09-26 15:59 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 1:ブルキナ映画「Frontières」
セネガルでは、9月21日~24日まで、Cine Droit Libreという映画祭が行われている。

もともとは文化の国、映画の国ブルキナファソで2004年に始まった映画祭であるが、ここ数年で反響を呼び、コートジボワール、セネガル、マリでも時期をずらして開催されるようになった。セネガルでは今年で4回目らしい。映画祭の名の通り、人権保護を訴えると同時に、映画を通した表現の自由を推進する目的で実施されており、自国で上映禁止になったような映画も上映している。大半がドキュメンタリー映画で説得力があり、とても貴重な映画祭だと思う。

ブルキナファソにいた頃、私はこの映画祭を楽しみにしており、映画祭の週はほぼ毎日のように見に行っていた。当時の記事↓。

セネガルのプログラムを見ると、ブルキナファソに比べて上映数も限られており少し寂しいのだが、それでも面白そうな映画はある。今回のオープニングで上映された映画の一つに「Frontières」というブルキナ映画がある。私はこの映画を飛行機の中で見た。この映画はFESPACOのオープニング映画でもあった。

『Frontières(国境)』

監督:Apolline Traoré(ブルキナファソ)
90分、2017年

西アフリカの経済圏ECOWAS内では人も物もある程度自由に行き来できることになっている。しかし、それが順守されていない現実をコミカルに表現した映画である。映画は、セネガルから出発する長距離バスで出会う4人の女性の話である。セネガルを出発した後、マリ、ブルキナファソ、ベナンを通ってナイジェリアへ到着する。7日間の旅である。

セネガルのある女性組合の代表であるAdjaraはマリの国境で、予防接種のイエローカードを持っていなかったことから賄賂を要求される。マリの女性商人Emmaはパーニュと呼ばれるマリの生地の売買をしているが、記事の数が多いと国境でいちゃもんもつけられるため、どうにか隠して国境を抜けようとする。ブルキナファソの女性は、知らないうちに薬物の運び屋になってしまう。ナイジェリアの女性も、ナイジェリア国境を抜けるための知恵を伝える。全くお互いを知らない4人の女性が偶然にも出会って、最初は仕方なく協力し合う。

トラオレ監督は、映画の撮影の最中も、税関コントロールや警察の検問で困難があったそうだ。特にナイジェリアにおける撮影は困難を極めたと話している。

一方で、現場の税関職員や警官が見合う給与をもらっていない現実も理解しており、この点も解決しなければ問題は改善されないとも話す。

アフリカを知らない方が見ると、まさかこんなことが起こるわけがない、まさに作り話とも思ってしまうかもしれないが、私自身は映画を見ながら「ああ、ありそうだなあ」と同調しながら映画を見た。





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by iihanashi-africa | 2017-09-23 07:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ジョアル漁港と燻製加工
ジョアルは西アフリカでも有数の伝統漁港である。巨大な漁船が停泊できるほどの港ではないが、セネガルにおいて伝統的な木造漁船での漁業が最も盛んな街の一つである。漁船からの水揚げもまさに人海戦術。

午後5時頃に港に行くと、人で溢れている。写真を撮ろうとぼーっと立っていると、魚を運ぶ方々とぶつかってしまう。
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船が到着すると、ビニール製の全身スーツを着た男性陣が大きなプラスチックケースを抱えて水の中に入っていく。
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こうして自分が担当する船を待つ水揚げ人。無造作に無秩序に人々が動いているように見えるが、ここにしっかり秩序がある。


この時間になるとダカールや他の都市からトラックがやってきて、次々と魚が積まれていく。船からトラックに直接運ばれているものもある。
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ジョアルは貝漁も盛んで、こうして貝の身を取り出す方々もいる。
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ジョアル漁港から幹線道路を挟んで反対側には、魚の加工場が広がっている。周辺国へはこうして一旦燻製に加工されてから輸出されることが多い。特にブルキナファソは主要輸出先らしい。この魚の加工場で働く方は大半が女性。毎朝6時に起きて仕事を始める。

この魚の加工場ができたのは90年代のこと。その前まではジョアルの街中にあったが、燻製の際に出る煙が街を覆うようになり、市が加工場の移設を決定した。当時は周囲に住居もない土地に設置されたのだが、人口増加で街が広がり、現在は住居に囲まれた場所にある。私の運転手の出身地もジョアル出身で加工場ができた後に加工場の近くに両親が家を建てた。

ここではドライ加工(Gejjと呼ぶ)燻製(Kecaxと呼ぶ)の2種類の加工を行っている。燻製はまずこうしてみっしりと魚を並べ、下でミレットの茎を20分間燃やす。
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その後Sine-Saloumの塩をふんだんにかけて乾燥させる。
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私の運転手のおばさんも長い間ここで燻製加工を行っているが、ここ数年、咳が止まらず病気がちだという。燻製に携わる女性たちの多くは、肺や呼吸器官の調子が悪いらしい。ジョアルの特産品として有名な燻製加工だが、もうそろそろ彼女たちの仕事環境や健康状態も考慮して改善していかなければならない時期かもしれない。


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by iihanashi-africa | 2017-08-30 12:48 | セネガル | Trackback | Comments(0)
貝とキリスト教の島、ジョアル・ファディウート
ダカールから海岸沿いに南へ120キロのところにジョアル・ファディウートJoal-Fadiouthという街がある。貝でできた島で、セネガルには珍しくキリスト教徒が多く、他にはない独特の雰囲気の島なので行く価値があると聞いており、次の旅先はここ!と決めていた。

ジョアル・ファディウートは一つの市であるが、本土の街をジョアルと呼び、本土とは離れた小さな人口の島をファディウートと呼ぶ。街の起源については様々な説があるのだが、11世紀にモロッコのベルベル系のムラービト朝が南方へ拡大してきたことから、それに伴いセネガル川流域にいたセレール族が南方へ追いやられて、この辺りに街を形成したという説がある。また、Guelwar族という現在のギニアビサウに起源をもつ民族がSine Saloum王国へやってきて、ジョアル・ファディウートを築いたという説もある。調べていたら、Guelwar族はマリ帝国の創始者Soundiata Keitaの子孫であるとも言われていることが分かり、この記事を思いただした。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画

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植民地時代は、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスに次々に支配され、セネガル西部の商業拠点の一つとなっていた。この三角貿易が、キリスト教の浸透に繋がり、17世紀から徐々にキリスト教関係者が定住するようになった。2007年時点で、ジョアル・ファディウートの人口は約4万人。その内4分の3はジョアルに居住している。そしてファディウート島の人口の9割がキリスト教徒と言われている。

ジョアルの街を進み、半島の先端まで進むと、ファディウート島に渡る橋がある。車両は島には入れない。貝でできた島なので、車両が入ったら島自体が崩壊するかもしれない。橋は木製で、橋だけ見ると一瞬あれ?日本?と見間違えるほどに日本風。2005年にファディウートとジョアルは橋で結ばれたが、それまではピローグと呼ばれる小舟で行き来していた。

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橋の袂に観光案内所があり、そこに登録しているガイドが島や墓地を案内してくれる。島への入場料も含め、11,000fcfaだったかな(記憶が不確かだけれど)。

まず船でマングローブの森へ向かう。小舟で10分くらいの森の入り口に、高床式の藁葺き穀物倉庫が並んでいる。ファディウート島ではかつて火事が穀物倉庫まで被害に遭うことが続き、祖先たちが穀物倉庫だけは被害に遭わないよう、島とは別のところに倉庫を設置することを考えたという。

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現在は使われていないので、倉庫の一部は風雨の影響で状態が悪いが、かつての文化を残すために毎年少しずつ修繕されている。

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マングローブの森にはこういう片手だけが大きいカニが沢山見られる。通称バイオリニスト。メスを惹きつける時、あるいはライバルを威嚇する時に、弓を持ったバイオリニストのように見えるから、こう呼ぶらしい。


バイオリニストの動きが面白かったので、動画に撮ってみた。



そこからまた小舟で隣の島へ移動する。墓地の島である。
ファディウート島と同様、貝でできた島。この辺りだけでなく、マングローブの森があるところでは干し貝産業で生計を立てている住民が多かった。ジョアル・ファディウートも例外ではなく、中身を取り除いた貝殻を一か所に捨てていったら、こんな大きな島になったそうだ。何年かかってこんな島になったのだろうか。そして、人々はその貝殻でできた島に住み始めた。それがファディウート島。その隣にも小さ目の貝殻の島があり、ここは墓地専用となっている。ファディウートの住民の9割がキリスト教徒のため、白い十字架が島全体を覆っている。
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しかし、奥の方に行くと一部イスラム教徒のお墓も見られ、キリスト教徒とイスラム教徒のお墓が隣り合っているのが興味深い。
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先祖の魂もこうして貝の中に眠っている。


そこから墓地とファディウート島を結ぶ2つ目の橋を渡る。
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島の中はセネガルでは見られない異国の地のようで、とてものどかで雰囲気がいい。路地を散歩するだけでも楽しい。
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所々にこうした憩いの場があり、男性たちが集まって井戸端会議をしたりする。


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建物の壁にも貝が沢山使われている。


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住民の9割がキリスト教徒というだけあり、あちらこちらにキリスト教関係の建物が見られる。


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そして島の中心に大きな教会。


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尖塔の先にはかわいらしいハートマーク。


セネガル旅行ではとてもお勧めの場所かもしれない。


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by iihanashi-africa | 2017-08-22 19:18 | セネガル | Trackback | Comments(0)