カテゴリ:ブルキナファソ( 312 )
Cine Droit Libre Dakar 5:ブルキナのBalai CitoyenからトーゴのTogo deboutへ


『Place à la révolution』
   (革命の出番だ)

監督:Kiswendsida Parfait Kaboré
84分、ブルキナファソ





2014年10月31日、ブルキナファソでは反政府デモをきっかけに27年間続いたコンパオレ政権が崩壊した。コンパオレ元大統領は1987年に当時大統領だったサンカラが殺害された後、クーデタで政権を奪った。その後、1991年、1998年、2005年、2010年に行われた大統領選で、4度にわたり再選している。ブルキナファソの憲法は、2000年に改正されており、大統領の任期を2期までに制限し(憲法第37項)、任期も7年から5年に短縮されているが、一度はコンパオレ大統領自身も合意して決めた憲法第37項を、再度改正して3選目を目指そうとしていた。これに反対した国民と野党が2013年から繰り返しデモを行い、2014年10月に大統領退陣まで追い込んだ。

当時のデモの写真。
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当時の記事 ↴
ブルキナファソ:憲法改正反対デモ
アラート:ブルキナファソで大統領退陣か?
ブルキナファソ:大統領辞任
クーデター or 革命?


実は、この反政府デモの裏に、「Balai Citoyen」という運動があったのをご存知だろうか。Balaiとはフランス語で掃除用などのホウキを意味する。つまり「市民のホウキ」。政府の汚職などを市民がホウキで掃いてキレイにするという意味を込めてつけられている。だから、運動を起こすときは、皆、シンボルであるホウキを振りかざして訴える。

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http://outhere.de/outhere/smockey-pre-volution-le-president-ma-moto-et-moi/ より

私自身もまさに2014年10月はブルキナファソで仕事をしており、Balai Citoyenの話は聞いてもいたし、新聞でも読んでいた。しかし、周囲のブルキナファソ人の友人たちは、反政府デモには参加していたものの、Balai Citoyenに参加するという意思を持っていたわけではなかった。そのため、Balai Citoyen運動がどこまで影響力があったのか、正直よく分からなかった。しかし、このドキュメンタリー映画を見て、やはり彼らの扇動があったからこそ大統領退陣まで追い込むことができたのだと改めて感じた。

Balai Citoyenは、2013年の夏、レゲエのミュージシャンSams’K Le JahとヒップホップのミュージシャンSmockeyの二人を中心に始まった。

Sams’K Le Jahは、若いころからサンカリストと呼ばれるトマ・サンカラ前大統領の信奉者でもあり、Radio Ouaga FMの自分の番組でも、政治的な発言をしており、表現の自由を訴える歌を歌ったりもしていた。これらの発言から、殺害の脅しを受けたり、Sams’K Le Jah自身の車に火をつけられたこともあった。
トマ・サンカラの死から29年(その1)
トマ・サンカラの死から29年(その2)

Smockeyは、ブルキナファソ人の父とフランス人の母の間に生まれたハーフ。ブルキナファソで生まれ育ったが、20歳の時にフランスに移住して学業を続け、同時に音楽にものめりこみ、1999年、28歳の時にシングルを出した。その後、音楽では成功をおさめ、様々な賞を獲得している。2001年にはブルキナファソに戻って音楽スタジオを設置した。2008年頃からサンカリストを公言するようになり、政治的な曲を歌うようになっている。

下の写真の中央右がSams’K Le Jah、中央左がSmockey。
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http://www.aib.bf/m-6724-burkina-le-mouvement-%AB-balai-citoyen-%BB-presente-un-prix-au-president-kabore.html より


この二人が、Balai Citoyenを結成し、その後どのようにデモを扇動していったのかが、このドキュメンタリー映画で描かれている。

2014年10月31日のあの日、どうやってデモ隊が国会議事堂に入ったのか、前線では何が起こっていたのか。初めて見る映像に私自身も目が釘付けになった。

映像を見ながら、SmockeyよりもSams’K Le Jahの方が活動家であり弁が立つと感じた。セネガルの「Y’en a marre」運動を起こしたKeurguiもそうだったが、信念があって、弁が立ち、カリスマ性のある人には周囲はついてくる。

当時、国民の多く、特に都市部の人々は、現政権に対する不満が非常に大きかった。私の友人たちも都市部で働くホワイトカラーたちは、SmockeyやSams’K Le Jahを傾倒していたわけではなかったが、コンパオレ大統領が次の大統領選に出馬することをどうしても阻止したいという思いはあった。そのため、市民も野党も同じ目的を持っていた者たちは、Balai Citoyenが扇動したデモに乗ったというのが、当時の状況だったのだと今になって思う。

******************

上映後に、Balai Citoyenの理事をしている方がコメンテーターとして話をしてくれた。

実は、Balai Citoyenはセネガルの「Y’en a marre」運動に非常に大きい影響を受けているそうだ。2013年6月にブルキナファソで開催されたCine Droit Libreで「Y’en a marre」運動のドキュメンタリー映画が上映され、運動の中心となったミュージシャンKeurquiが招待されていた。私もその場におり、彼らにとても魅了された一人なのだが、実はその時、会場の後ろにはSmockeyが座っていた。質疑応答の最後にKeurguiのメンバーThiatが、「今ブルキナファソでも、まさに同じように戦おうとしている同士がいる。ぜひ応援したい」と話して、Smockeyに向けて会場の観客が拍手をしたのを鮮明に覚えている。この2日後にBalai Citoyenは誕生したという

この話を聞いた時、なんかとても歴史的な場所に私はいたんだと思いなおして、鳥肌が立った。

当時の映画の記事 ↴
Cine Droit Libre3:セネガルの「Y'en a marre!」運動

今、お隣のトーゴでは、2014年のブルキナファソと似たようなことが起きている。大統領が引き続き立候補することに対する反対運動が起きている。そして、市民たちが「Front citoyen」というグループを設置し、「Togo Debout(トーゴよ、立ち上がれ)」運動を始めた。つい2週間前の、9月22日のことである。セネガル、ブルキナファソに続き、国民が声を張って政治を変える時が来ている。



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by iihanashi-africa | 2017-10-07 03:17 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
国際芸術家センターさんのページで記事紹介
IAC-International Artists Center Tokyo(国際芸術家センター)というNPO法人がある(http://iactokyo.jp/)。国際交流を通じて平和に寄与する目的で設立された団体だそう。前身は舞踏劇「ノーモア・ヒロシマズ」を国内外の各地で公演する舞台芸術団体だったとのこと。現在は、各国大使館や国内外のネットワークを軸に、舞踊、音楽、食、アート、国内外の祭りや伝統行事などを通じた様々な文化交流事業を実施し、国際相互理解を深める活動を行っている。

IACは定期的に「大使館でお茶を」というお茶会を開催しているそうで、4月のお茶会はブルキナファソ大使館とのこと。Facebookの紹介ページで、私のブログの記事を紹介いただいた。ブルキナファソ最大のモシ族の歴史とプリンセス・イェネンガについて書いた記事。


IACのFacebookの記事
https://web.facebook.com/iactokyo/photos/a.369253773105863.92308.314079861956588/1439640526067177/?type=3&theater

紹介していただいた記事
ウエドラオゴとタプソバとサワドゴ 前半
ウエドラオゴとタプソバとサワドゴ 後半


ご連絡をいただいて、私自身も久しぶりにこの記事を読んだ。いつも個人的な興味で書いている記事が時折検索に引っかかってくれるようで大変嬉しい。


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by iihanashi-africa | 2017-03-06 08:06 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
FESPACOの携帯アプリ
2年に一度開催されるブルキナファソの2大国際フェスティバルの一つ、FESPACO(Festival Panafricain du Cinéma et de la Télévision de Ouagadougou、ワガドゥグ汎アフリカ映画祭)が始まった。
https://www.fespaco.bf/fr/


丁度2年前も4年前も同じようなブログ記事を書いているが、ほんとこの時期はブルキナファソにいたいと強く思う。

2年前の記事
FESPACOが始まりました
FESPACO最優秀作品賞はFievres

4年前の記事
「アフリカ映画の都ワガドゥグ」~フェスパコ便り 1
「アフリカ映画の都ワガドゥグ」~フェスパコ便り 2
「アフリカ映画の都ワガドゥグ」~フェスパコ便り 3

8年前の記事
FESPACOで受賞、おめでとう。

さて、前回は気が付かなかったのだが、FESPACOもついに無料アプリができた。Google playかApp storeでダウンロードできる。2015年にアップされているので前回のFESPACOでも使われていたのかも。

このアプリが結構使いやすい。
とってもシンプルだが必要な情報が全て入っている。長編、短編、ドキュメンタリー映画などの説明はもちろん、映画の予告編にも簡単にアクセスできる。映画のプログラムだけは、もう少しだけカレンダーが見やすくなるとよいなと思うけど、映画館の場所も分かりやすいし、チケット情報も簡単に分かるし、国外から来る方にはホテルやレンタカーの情報まで乗っている。ほんと使いやすい。

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アフリカも携帯の普及は先進国にそれほど後れをとらずに普及しており、スマホ所有率は相当高い。最近はインターネットの速度もほとんど問題ない。動画もスカイプも全く問題なし。ダカール市内でもGoogle mapでGPS機能を使いながら移動することもしばしば。日本と全く変わらない。ほんと便利になった。


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by iihanashi-africa | 2017-02-27 03:06 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(1)
人民蜂起後の表現の自由の回復
1年4カ月ぶりのブルキナファソ。

往路便のエールフランス航空の機内誌11月号がブルキナファソ特集で、写真を眺めながら気持ちが高まった。
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4泊5日で実質3日間の滞在だったが、時間を有効活用して友人たちにも会うことができた。風景はそれほど大きな変化はない。ただ、友人たちと話すと、2年前と比べて一般市民が意見を言えるような社会になったことがよく分かる。


つい先日、中国企業が国会議員各自に計130個のタブレットを無償で供与したという報道があった。授与式まで行ったそうだ。しかし、これに関しSNS上で一般市民が反応し始めた。ブルキナファソの法律では、35,000FCFA(約7千円)以上の贈与は受け取ってはならないそうだ。これに大きく違反すると批判のリアクションがSNS上で流れ始めた。組織に贈与されるならまだしも、議員一人一人に贈与されるなどもってのほかと。それに加え、第三国政府から贈与されるIT危機はセキュリティーの関係上、全て検査を通すべきだという記事が以下のサイトに掲載されている。

http://lefaso.net/spip.php?article74191

友人たちによると、一般市民が意見を言える社会になってきていると実感するという。むしろ権利を主張しすぎてストライキが頻繁に発生し、仕事に影響を与えているという事態もあるそうだが、それでも表現の自由は徐々に回復していると感じた。やはりこういう話は、現地にいないと分からない肌感覚の情報である。こうして、生き生きと語る友人たちと話をすると本当にもっと頑張ろうという気になるし、自分も元気になる。

あとは、久しぶりのワガドゥグの風景をどうぞ。
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とてもゆっくりだが街も変わりつつある。

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by iihanashi-africa | 2016-11-21 00:41 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
「ブルキナベ」は3つの言語の融合
今、パリでトランジット中。
これからブルキナファソへ向かう飛行機に乗る。2年前まではブルキナファソ行きのエールフランス航空便はニジェールを経由していたのだが、最近ニジェールではなくコートジボワール経由に変更になったらしい。ニジェール行きの便もコートジボワール経由になっている。ブルキナファソもニジェールも週に5日しかパリ行きの便がないのに対し、コートジボワールは毎日2便も飛んでいる。これだけでも経済規模の差を感じる。

そういえば、数カ月ぶりのパリ、シャルル・ド・ゴール空港で大きく変わったのがインターネット環境だ。パリは結構最近まで空港のWifiが有料だった。ちなみにホテルのWifiも有料のところが多かった。しかし、今回、空港もホテルも無料Wifiがあり、とても便利になった。大きな変化である。

***************

さて、先日トマ・サンカラの記事を書いたのだが、その記事に興味深いコメントをいただいた。ブルキナファソに造詣が深い方なら知っていることかもしれないが、「ベ」については知らない方も多いかもしれないので、記事に残しておこうと思う。

サンカラの記事はこちら ↓
トマ・サンカラの死から29年(その2)

コメントの一部
[・・・]「ブルキナ」がモレ語で「高潔な人々」、「ファソ」がデュラ語で「国」。しかも「ブルキナベ(ブルキナ人)」の「べ」はプル語で「人」という意味だそうです。だから英語でもフランス語でもブルキナべはブルキナべなのだとのことです。当時ブルキナの友人からその説明を聞いて、ブルキナの3大?勢力の言葉を組み合わせて国名を作ったサンカラのセンスは素晴らしいなと心から感心しました。[・・・]


「ブルキナベ」と聞いてピンと来ない方のために補足すると、日本を英語でJapan、日本人をJapanese、カナダをCanada、カナダ人をCanadian、というように、ブルキナファソをBurkina Faso、ブルキナファソ人をBurkinabè(eにアクセントをつけない表記もある)という。英語やフランス語で人を「bè」と表す例は聞いたことがないと思う。これが、ブルキナファソの民族の一つプル族の言葉だったのである。

モレ語ジュラ語の組み合わせで「ブルキナファソ」という国名が出来ていることはよく聞くのだが、「ベ」がプル語(フルフルデ)であることは意外と知らない。もちろん私も知らなかった。

参考までに、ブルキナファソの民族分布は大まかにはこんな感じ。
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モレ語MooreはMossi族の言語で、ブルキナファソの45%を占める。プル語は8%(地図のPeulh族の地域)、ジュラ語は5%だった。ジュラはブルキナファソの西部で話されるが、西部は特に様々な言語が入り交ざっており、地域の特定が難しい。


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by iihanashi-africa | 2016-11-16 20:49 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
トマ・サンカラの死から29年(その2)
トマ・サンカラの死から29年(その1)


1983年、トマ・サンカラは35歳の若さで大統領になる。
そして、4年間という短い間に、ここまで評価され尊敬される存在となった。

サンカラは、大統領になり植民地時代との断絶を宣言した。そして、1983年10月2日、反帝国主義の革命イデオロギーを示したスピーチ(Discours d’orientation politique)をラジオで流した。こうして書くと、国民の洗脳にも聞こえるが、むしろ国のあるべき姿と革命を進める上での心構えを伝えるものだったともいえる。やっぱり完全に社会主義だが、ほんの一握りの国民が富を独占していて、貧しい国民には希望も見えない中では、ほんとに希望の光だったのかも。スピーチ全文はとても長く、ラジオでも1時間半近いスピーチになったらしいが、読みたい方はこのサイトにある。
http://thomassankara.net/discours-d-orientation-politique-2/


『10月2日』。

現在ワガドゥグ市内にいくつかあるモニュメントのうち、「10月2日モニュメント」というのがある。この日を記念する碑である。私自身、ブルキナ滞在中は、しっかりと見たことがなかったが、モニュメントの上にDiscours d’orientation politique(DOP)と彫られているらしい。

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サンカラが尊敬されていたのは、有言実行の人で国民と同じ目線にいたからからかもしれない。
選挙では国民のためと言いながら結局私腹を肥やす大統領が多い中、サンカラは、大統領の給料を削減し、行政全体の公用車も贅沢な車輌をやめ、飛行機も皆エコノミークラスで移動するようにし、常に貧しい方々の富を追い求めた真摯な姿が国民にも理解されたようだ。自宅も豪邸に建て替えることもなく、一般住民と同じような家に住み続けた。

サンカラはこうして国家支出を大幅に削減することで、政権について3年後にはほとんど外部支援に頼らなくてもよい状態になったと言われている(実際のところは分からないが、みんなそう発言している)。国内で消費するものは全て国内で生産することを可能にした(と言われている)。国民を奮起させ、農家は今まで以上に働き、生産量は3倍に増加。ほぼほぼ自給自足を達成できてしまったらしい。

そして、かの有名な1987年7月のアフリカ連合での「債務の返済拒否」を訴えるスピーチがある。世界的には、1994年以降にようやく重債務国の債務帳消しが始まったが、サンカラは、1987年に以下の発言をしている。「債務問題は、植民地主義に起因する。新植民地主義で富を搾取しながらアフリカを債務漬けにしたのは宗主国である。我々は今50年にもわたり支払わなければならない債務を抱えている。我々が払わなくても先進国が崩壊することはない。しかし支払ったら私たちが自滅する。次世代の負担となり国の発展を妨げるものである」。



ちなみに、このスピーチで各国の私腹を肥やす大統領たちを前に、こういう発言をしている。
「国の経済危機というのは、突如やってくるものではない。国民のほんの一部だけが富を独占しているから危機は起こるのだ。そのことに国民が納得しないから危機は起こるのだ。一部の人が、アフリカを発展させることが出来る富を海外の銀行に預けているから起こるのだ。そのことを棚に上げながら国民に貧しい生活をさせるから起こるのだ。」
この時、大統領たちはどういう思いで聞いていたのだろう。サンカラは、汚職に対しても断固反対の態度をとっていた。

サンカラは、農家を徹底的に保護することも忘れなかった。
ある時、インゲン豆を生産して輸出する農家が、パッケージに綺麗に入れて、仲介業者を通してワガドゥグへ運んでから、輸送機が来ないことが分かった。仲介業者は農家に返品し、農家が大損をすることになりかねなかった時、大統領令で公務員がそれぞれそのインゲン豆を購入することになったらしい。

女性の地位向上にも大きく貢献した。
家庭の中で夫のいいなりになっている女性たちに発言をさせ、責任を与えた。国民の半数を占める女性が活躍しなければ国の発展はないとした。ブルキナファソは本当に女性が活躍していると思う。

子供の予防接種キャンペーンも行った。
当時で、70~80%の子供が予防接種を受けており、アフリカの中でも非常に高い接種率だった。

植民地時代から続く「オートボルタ」という国名から、モレ語とジュラ語で「高潔な人々の国」を意味する「ブルキナファソ」に変更した。

文化的活動を活発化したのも、サンカラだった。
「カルチャーのない社会はない。そして社会と関係のないカルチャーはない」と話し、カルチャーが国の発展の核であり、特に発展段階の最初と最後で必要になってくると考えていた。そのため、ブルキナファソのアイデンティティーを推進するために文化活動を活発化させた。FESPACOがここまで盛大な国際映画祭となったのもサンカラの功績である。

民衆劇場なるものも建設した。ブルキナファソは演劇を見られる場所がとても多く、それもクオリティーが高い。こんな国はあまりなかったが、なるほどこういうことだったのか。

人種差別とも徹底的に戦った。あまり知られていないが、当時アフリカの大統領で初めて公にアパルトヘイト反対を訴え、ブルキナファソに国名が変わって初めてのパスポートをネルソン・マンデラに発行している。1987年には反アパルトヘイトの会議をワガドゥグで開催もしている。下の1984年の国連でのスピーチでも南アフリカのいち早い解放を求めている。サンカラは、世界各国で革命を起こそうとする国民を支持していた。


サンカラの功績は挙げたらきりがないのでここで止めておくが、4年間で実施したことはブルキナファソの基礎ともなっている。


一方で、サンカラの革命は先を急ぎすぎて途中で歪が出てきたと言われてもいる。

教員のデモが発生したり、革命の精神を10日間で植え付けられた教師が教員となったりした。革命派でない人は蚊帳の外に置かれた。徐々に革命の客観性が失われ、革命を推進していれば組織のトップに立つこともできた。不満を持つものも増えてきていたのかもしれない。

更に、外部にも多くの敵を作った。フランスをはじめ、コートジボワールやリビアもそうである。最終的に、フランスやコートジボワールがバックについていたブレーズ・コンパオレがサンカラを倒すことになる。



サンカラは、1987年10月15日に右腕だったブレーズ・コンパオレ派に暗殺されるが、暗殺の前に、既にその兆候があったそうだ。ある方が、サンカラに「裏でクーデターの動きがあるようです」と伝えると、「知っている」と答えた上で加えた。「しかし友情を裏切るのであれば、私ではなく彼である」と。歴史を振り返ると、革命が起きた時、様々な思惑が飛び交い怪しいものは殺害され、暗殺に暗殺を重ねて優秀な人材を失ってしまうことが多々あったことをサンカラは分かっていた。だからこそ、サンカラはブレーズ・コンパオレを殺害することはなかった。しかし、結局自分が殺されるという結末になってしまった。

サンカラは、亡くなる前、非常に疲れて落ち込むこともあったという。彼の改革の熱についていけない人が周囲に増えてきて、辞任することも考えたらしい。とても情があり、人間性に溢れ、熱い人であったことは、どのドキュメンタリーを見ても分かる。これが皆に愛される所以である。


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by iihanashi-africa | 2016-10-27 00:54 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
トマ・サンカラの死から29年(その1)
トマ・サンカラ元大統領が暗殺されてから2016年10月15日で29年が経った。10月15日前にアップしようと意気込んでいたのに、全然間に合わなかった。。。来年は30年の節目で、20年目同様に大きなセレモニーが行われるかもしれない。

トマ・サンカラ(Thomas Sankara)は、1983年~1987年までの4年間しか大統領のポストにいなかったにも関わらず、今もなお多くの国民から敬意を表されており、30年経った今でも毎年10月15日はサンカラに関する多くの新聞記事が掲載され、ミュージシャンはサンカラの歌を歌うし、サンカラの演劇も上映されるし、ドキュメンタリーや映画も作られる。私のブルキナファソの友人は、サンカラの時代は本当に社会に活気があったと語る。完全なる社会主義だったが、男も女も老人も子供も、みんな平等に働く。国民が全員外に出て、人海戦術で線路を造ったり、みんなで一斉に植林をしたりと、楽しかったという。サンカラ自身も贅沢をせず、庶民の目線に立つことが出来ていた人だったようだ。一方で、やはり富裕層からは好かれない存在だったのだとは思う。

私自身は特にサンカラの信奉者ではないけれど、私が尊敬する友人たちがサンカラを尊敬しており、やはり気になる存在である。以前、出張でブルキナファソに来たマダガスカル人やカメルーン人が、「サンカラの墓に行きたい」と言ったことを思い出す。現にサンカラは、ブルキナファソ国内だけでなく、全アフリカ諸国の国民から一目置かれる存在だった。サンカラ政権当時に、あるブルキナファソ人がセネガルへ出張に行ったとき、空港の税関職員がブルキナファソのパスポートを見るなり「おお!!!マイブラザー、ブルキナファソ!!!」と握手してきたそうだ。アフリカ大陸に限らず、スイスでもワシントンでもブルキナファソ人というと一目置かれたという。サンカラが亡くなった時は、遠く離れたカメルーンの首都ヤウンデでも市民が路上で泣いて悲しんだそうだ。それだけの人気があった。


ちなみにサンカラのお墓はワガドゥグの街中にある。写真撮影は禁止で、いつも警備の方が監視しており、自分が撮った写真はないので、下に紹介したドキュメンタリーから映像を拝借。
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最近、友人からトマ・サンカラの興味深いドキュメンタリーがあると教えてもらい、夜中に見始めたら、本当に面白くて、翌日も仕事なのに1時間半を一気に見てしまった。サンカラの話は有名で様々な伝説を聞いていたが、ここまで貴重な映像がまとめられたドキュメンタリーはあまり見たことがない。この映像がいつまでアップされているか分からないが、関心のある方は是非見てほしい(あああ、、、こうしているうちにアクセスできなくなってしまった)。

http://www.lcp.fr/emissions/277352-capitaine-thomas-sankara

もう一つ興味深いドキュメンタリーがあるのだが、これは、サンカラに近かった方々のインタビューをまとめたもので、映像としては面白くないかもしれないが、フランス語が分かる方には興味深いかも。ただし、これもサンカラを賛辞するものばかりかな。



こちらは、英語版のドキュメンタリー。個人的には、こちらの方が面白い。様々な角度から現実を描いていて、サンカラ政権も最後には少し歪が生まれていたことも客観的に描いている。



<生誕~軍士官学校でマルクス主義に出会うまで>
トマ・サンカラは、1949年12月21日、ワガドゥグから北西約100kmに位置するヤコ市で生まれ、幼少期から高校まではブルキナファソ南部のガウアで過ごした。子供の頃からカリスマ性がありリーダー的存在だったが、弱い者を守るという正義感は昔からあったようだ。その後、ボボ・ディウラソの高校に通うことになったが、1年目は奨学金をもらえず財政的にも非常に苦しく、知り合いの家族のところに居候していた。2年目からはなんとか奨学金をもらって寮に入ることが出来た。とても成績が良く、医者になることを目指していたが、医学部の奨学金を得るためには太い人脈が必要だったようで、それがなかったサンカラは医学の道を諦めざるを得なかった。その後、軍の士官学校に入ったのだが、ここでも成績は良かったようだ。軍では、今とは異なり、道路整備等のインフラ工事や農業などを行うこともあったらしい。そしてここで、歴史学者アダマ・トゥレAdama Touréを通して、サンカラの運命を変えるマルクス主義に出会う

<マダガスカルの国民デモから得たもの>
1970年~1972年、マダガスカルのアンチラベ士官学校で研修を受けることになる。社会主義の考え方を確固たるものにしたのが、この時期である。フランスの新植民地主義の推進者のチラナナ政権に反対する農民や学生のデモがまさに起きている瞬間に出くわした。その後、マダガスカルは、1975年に、反・新植民地主義のラチラカ大統領に政権が変わった。サンカラと同じように軍出身で新植民地主義に反対するラチラカがトップに立ったことで、軍の役割は広いことを感じることになる。軍が守るべき「セキュリティー」とは身体的なものだけでなく、経済的セキュリティー、文化的セキュリティー、精神的セキュリティーなど様々なものがあり、それら全ての保護は軍の役割に入ると考えた。余談だが、マダガスカル滞在中に、サンカラは稲作大国の田んぼへ出かけては技術や農機具を観察していたという。

<マダガスカルから帰国後、共産グループを結成するまで>
マダガスカルから帰国後、オートボルタ(現ブルキナファソ)とマリの国境紛争の地へ派遣され、そこで名声を挙げて有名になる。1976年、ポーの軍訓練校の指揮官になる。同年に、モロッコでの研修の際に、後に右腕となるブレーズ・コンパオレと出会う。そして、ブレーズ・コンパオレも含む複数の将校と共にROC(Regroupement des Officiers Communistes:共産主義将校グループ)を結成する。

<ゼルボ政権下の国務大臣ポスト>
1980年11月25日、セイ・ゼルボSaye Zerboによるオートボルタ初の軍によるクーデターが起き、ゼルボ政権下でサンカラは情報国務大臣に任命される。このポストはいやいや引き受けており、着任する時から長くはいないと発言していたが、その言葉通り、着任翌年の1982年4月に国際会議のスピーチで「国民を力ずくで黙らせる者に災いあれ «Malheur, à ceux qui bâillonnent le peuple!»」と言い残して突然辞任した。今では非常に有名になったセンテンスである。

<首相の座~逮捕>
これをきっかけにもともと国民には人気のなかった政府に対し、内部の人々も疑問を持ち始めるようになり、1982年11月には再びクーデターが起きる。トップに立ったのは若い将校のジョン・バティスト・ウエドラオゴJean-Baptiste Ouedraogo。その政権下で、サンカラは首相に任命される。しかし、大統領は新植民地主義を継続させたため、革命を目指すサンカラとは、当然のことながらうまくいくはずがなかった。2ヵ月後、サンカラは、ボボ・ディウラソで反政府ミーティングを行い、大多数の国民の支持を得ている。しかし、反政府ミーティングを行った罪で、他の軍関係者と合わせて逮捕された。ブレーズ・コンパオレも逮捕者リストにあったものの、うまくかわして逮捕を逃れ、サンカラが設立した野党勢力のあったポーに戻った。

<サンカラ逮捕に抗議する人民蜂起>
サンカラの逮捕後から、ワガドゥグ市内は「Liberez Sankara !(サンカラを解放しろ!)」と訴える国民がデモを起こした。デモ隊と警備隊との衝突は非常に激しく、デモ隊を拡散させるために催涙弾が使われたりもしたが、それでもデモは続き、大統領はこの国民の圧力に対抗することは出来ずにサンカラと仲間たちを解放することとなった。
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1983年8月4日、ブレーズ・コンパオレ率いるポーの勢力がワガドゥグにあがり、クーデターを起こすのだが、この時国民の大半が一緒にワガドゥグへ向かい、一緒になって電気を止めたり、電話を止めたりとクーデターを支援した。国民も武器を持って戦ったそう。クーデターと言っているが、「民衆蜂起」あるいは「革命」の様相が強かったという。

『民衆蜂起(Insurrection populaire)』

人民蜂起と言えば、2014年に国民の政府への反対デモが拡大して当時のブレーズ・コンパオレ大統領を追い出した出来事も、クーデターではなく「民衆蜂起」あるいは「革命(révolution)」と呼んでいる。この議論、2014年にも書いたなあ(クーデター or 革命?)。当時の私にとっては、かなり目新しい議論だったが、ブルキナファソにとっては同じような状況を既に経験していたのだ。なるほどね。だから、あの時もさくっと「革命」という言葉が躊躇なく出てきたのかも。ただ、この時は軍が前面に出ているという意味で、やはりクーデターである。

こうして1983年、サンカラは35歳の若さで大統領になる

いやあ、、、長い記事を書きすぎたので、やっぱり二つに分けよう。

次回に続く。


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by iihanashi-africa | 2016-10-25 21:47 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
高知FDのラシィナ選手が急成長 ~高知新聞の記事~
先日ラシィナ選手の記事(高知旅行⑤:高知ファイティングドッグスのブルキナファソ出身ラシィナ選手)を書いたが、昨日7月1日付の高知新聞の記事でも、ラシィナ選手が取り上げられており、それも内部にいる方でないと分からない目線で記述されており、そしてラシィナ選手の気持ちがそのまま表れており、感無量である。

高知新聞の記事
http://www.kochinews.co.jp/article/32201

なるほど、あの時の本塁打はこういう心境だったのかと。
ラシィナ選手の練習に取り組む姿勢が、彼の将来の可能性を感じさせるようだ。

是非一読を。

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by iihanashi-africa | 2016-07-02 23:53 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
ブルキナファソ綿花、遺伝子組み換えからの脱却
一週間前に気になるブルキナファソ記事を発見。

ブルキナファソが、遺伝子組み換えコットンを放棄するという記事
http://img3.lefaso.net/spip.php?article69506


以前書いたブルキナファソ綿花の記事。
ブルキナファソの綿花生産
綿花の収穫の季節


ブルキナファソは、2003年、アフリカで初めて遺伝子組み換えコットンの栽培試験を行った。遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%を占めるモンサントMonsanto社(アメリカ)とシンジェンタSyngenta社(スイス)がパートナー。モンサント社は、1999年に世界第3位の綿花生産国インドに進出し、害虫に強く、収穫量と利益を増やすという宣伝文句で遺伝子組み換え種子を販売し、2002年から一般圃場で栽培されるようになっていた。

ブルキナファソでも、同じうたい文句で遺伝子組み換えの関心が高まっていった。当時、ブルキナファソでは、綿花の害虫駆除のため、大量の殺虫剤を使っていた。しかし、これまで殺虫剤を6回散布していたのが2回で済むことから生産コストも抑えることができ、また収量も増加するため、もちろん収入も増加するとされ、2008年に一般農家へと普及が始まった

当時はこんな新聞記事があった。
「Culture du coton transgénique : Le Burkina Faso dans la danse(遺伝子組み換えコットン栽培:舞い踊るブルキナファソ)」

https://lefaso.net/spip.php?article16629

遺伝子組み換えに多くの期待を寄せる政府の様子がよく分かる。
特に、2008年頃はまだブルキナファソ経済を支える最大の輸出品目だったため、政府も農家も綿花栽培をどうにかしたいと思っていたはずだ。


しかし、このサクセスストーリーは長くは続かず、遺伝子組み換え導入で小規模農家を支援するグッドプラクティスにはならなかった。

この経緯が、2016年1月に発表されたサンフランシスコ大学のBrian Dowd-Uribe准教授とダルハウジー大学Matthew A.Schnurr准教授の報告書に記述されているようだ。

確かに収量は向上し、収入も増えた。除草剤の使用も確かに減少した。

では、なぜブルキナファソは遺伝子組み換えコットンと離縁することにしたのか

遺伝子組み換え以前のブルキナファソのコットンは、繊維が長く需要が高かった。しかし、遺伝子組み換えに変えてからというもの、繊維が短く、質も悪くなり、ここ2年は買い手からの評判が非常に悪かったらしい。2009年に遺伝子組み換えコットンの販売を始めた当初から、繊維の短さには気が付いていたようだが、モンサント社は気候の問題だと説明していたようだ。2015年には、全生産量の3分の2が劣品質と評価された。お隣のマリのコットンの方が国際市場で求められるようになり、ブルキナファソは生産量は多くても需要がないという状況に陥った。農家の買い取り価格は毎年最低限が保証されているが、ブルキナファソの綿花業者が大きなリスクを負うようになってきた。それが、遺伝子組み換えと離縁した理由。綿花業者は、モンサント社に賠償金の支払いを求めているようだ。


アフリカも、食糧が不足しているから、貧困地域だからと言って、生産量だけを増やせばいい訳ではないことがよく分かる。既に国際市場とも密接にリンクしていることもあり、市場が求めているものを作らなければ収入は上がっていかない。国内市場も単に安いものが売れる時代ではなくなってきている。


さて、遺伝子組み換えから元の品種?に戻るブルキナファソのコットンは、今後どのような運命をたどるのだろうか。

ちなみに、アメリカの下着メーカーVictoria Secretが、ブルキナファソの綿花農家組織連合と契約してオーガニックコットンを購入しており、今後もオーガニックコットンの需要は増えるかもしれない。しかし、オーガニックに偏りすぎるとまた歪みがでてくる気がする。


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by iihanashi-africa | 2016-02-15 00:45 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
万能の木、モリンガ(続編)
タイガーナッツの後は、モリンガらしい。

最近、スーパーフードという言葉をよく聞くのだが、なんでもスーパーフードとつければ売れると思って・・・と思っていたら、実はスーパーフードの定義があることを初めて知った。ちなみに、スーパーフード協会という社団法人もあるらしい。

協会のサイトによると、スーパーフードとは、

•栄養バランスに優れ、一般的な食品より栄養価が高い食品であること。あるいは、ある一部の栄養・健康成分が突出して多く含まれる食品であること
•一般的な食品とサプリメントの中間にくるような存在で、料理の食材としての用途と健康食品としての用途をあわせもつ

というものらしい。少々曖昧ではある。

そもそも、スーパーフードという言葉は、1980年代から医師や専門家の間で使われていたが、一般的に知れ渡るようになったのは、2004年に発売されたアメリカ人医師の本「スーパーフードの処方箋」、そして2009年に発売されたローリビングフードのカリスマ的アメリカ人の著書「スーパーフード」がきっかけのようだ。

日本やアメリカでプライマリスーパーフードとして推奨されている食品が10品あるらしい。
・スピルリナ
・マカ 
・クコの実(ゴジベリー) 
・カカオ
・チアシード 
・ココナッツ 
・アサイー 
・カムカム
・ブロッコリースーパースプラウト 
・麻の実(ヘンプ)


なるほど、チアシードやアサイーなど、なんかいきなり名前を聞くようになったなあと思ったら、こういう流れの中で出てきたのか。

この時流の中、社会は「新たな」スーパーフードの探し当てることに躍起になっているらしく、タイガーナッツもその一つだった。そして、今度はモリンガらしい。

といっても、モリンガはかなり前から日本でも注目されており、食品だけでなく化粧品でも使われている。しかし、テレビの影響は大きいもので、紹介されるとすぐにネットで話題になる。そして、私のブログにも「モリンガ」でたどり着いてくださった方々が一時的に多くなった。

「モリンガ」のネット記事
http://mdpr.jp/beauty/detail/1561303


2年前に書いたブログ記事
万能の木、モリンガ


タイガーナッツもモリンガも、美味しい!!!というほどのものではないので、ブームで終わってしまいそうな気もしないでもないが、モリンガの栄養価は相当高いので、健康食品としては根強い支持者はいるかもしれない。


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by iihanashi-africa | 2016-02-01 23:40 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)