アフリカンルネッサンスモニュメント
2010年、私はマダガスカルにいた。定期購読していたJeune Afriqueというアフリカ情報誌の表紙が、この年の4月3日にセネガルで除幕されたモニュメントだった。まさかこんな大きなモニュメントがセネガルにできるとは想像もしなかったため、最初は合成写真かと思ったほどだった。

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高さ52メートルの銅像。高さはニューヨークの自由の女神の1.5倍あるらしい。上半身裸の男性が左手に子どもを抱え、右手で女性を支え、子どもが指さす方向に向かって今にも飛び立とうとする雰囲気を醸し出している。奴隷や植民地という暗闇から這い上がって光の方向に向かって進むアフリカをイメージして建設されたそうだ。子どもが指している方向は北西。まさにニューヨークの自由の女神がある方向である。

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モニュメントは当初、ルーマニア人彫刻家のVirgil Magherusan氏により構想され、その後、セネガル人建築家Pierre Goudiaby Atepa氏が引き継いた。とても社会主義を連想させるモニュメントだが、それもそのはず、北朝鮮政府のプロパガンダ銅像を建設しているMansudae Overseas Projects(万寿台創作社)が手掛けたものなのだ。

Mansudae社は、1959年にピョンヤンに設立された社員4千人の会社。北朝鮮の様々な銅像を建設してきた。金正恩や金正日の巨大な銅像を手掛けたのもMansudae社である。なぜ北朝鮮の建設会社がセネガルの銅像を建設するに至ったのか?理由はいたってシンプルで、低コストだったからである。すでにアフリカの18か国で似たような銅像を建設している。
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出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mansudae-Monument-Bow-2014.jpg

モニュメント建設は2006年に、当時の大統領Abdoulaye Wadeが始めた。そして2010年、セネガル独立50周年の年に除幕式が行われた。アフリカ19か国の大統領が出席する盛大な除幕式だった。建設費の合計は2700万USドル。すべて現金で支払われたそうだ。

完成後、ワッド大統領はモニュメントの観光収入の3分の1を知的財産権として自分が受け取ることを主張し、多くの国民から反発を受けた。その後、憲法改正、汚職、選挙での不正など、様々な疑惑がかけられ、2012年の大統領選挙でも敗退した。

建設時に様々な議論があり、国民の納得のもとに建てられたモニュメントではないが、今となっては観光地の一つになっている。

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モニュメントの入口。
入口を入るとまず奴隷解放や人種差別で戦った世界の英雄たちの展示がある。フランス語と英語でガイドがつく。

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2階にはセネガルの様々な民族の特徴を表すオブジェがある。作者もセネガルでは有名らしいが、名前を忘れてしまった。。

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そして3階には、会議室がある。
この建物の中に入って一番驚いたのが、この会議室。建設当時は実際にここで会議をすることもあったらしい。

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そして、エレベーターで15階へ向かう。

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到着するのは男性の頭の部分。男性の頭にハチマキを巻いたように一周しているのが展望台の窓。

展望台からはダカール市内が見渡せる。
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で、ふと見下ろすと女性の顔が。
上から見る女性の顔って斬新。ちゃんと頭の上に避雷針もついている。
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このモニュメント、エレベーターの他に階段もあるそうだが、普段はこうして閉められている。

夜も綺麗にライトアップされる。





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# by iihanashi-africa | 2017-10-19 05:46 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ファマディアナの紹介記事
先週木曜日の10月12日に、このブログの「ファマディアナ~死者を敬う」という記事へのアクセスが急激に増えた。8年も前に書いた記事のアクセス数が増えるということは、またTVで紹介されたに違いないと思い検索したら、クレイジージャーニーという番組で、奇怪遺産の写真家、佐藤健寿(さとうけんじ)さんが「死体を掘り起こす儀式」と称してマダガスカルのファマディアナを紹介したらしい。

ありがたいことに、ファマディアナと検索するとこの記事がトップに近いところに出てきており、このブログ開設以来、1,2を争うアクセス数になっている。

かつて、「タイガーナッツ」を道端アンジェリカさんがTVで紹介した後に、「タイガーナッツという豆」という記事がものすごいアクセス数に達したが、今回はそれ以上のアクセスだ。

いつもマニアックな記事しか書かないため、普段のアクセス数はかなり限定的なのだが、今回は平均訪問者数の30倍。いやあ、テレビってすごい。

さて、肝心のテレビ番組の内容だが、「死体を掘り起こす」という飾り文句がどうかとは思ったものの、最終的には死者を弔う素晴らしい儀式と紹介されていたようでよかった。私も実際に見た時にそう思い、ブログの記事にも書いたのだが、数年に1度、亡くなった最愛の人に会えると思うと、嬉しいかもしれないし、自分も逆の立場だったら嬉しいかもしれない。



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# by iihanashi-africa | 2017-10-16 08:23 | マダガスカル | Trackback | Comments(0)
『アルカイダから古文書を守った図書館員』
9月に休暇で日本に戻っていた時に、面白そうな本を見つけて買って帰ってきた。1週間前に読み始めたのだが、読み始めから興味をそそり、読み終わるまでは毎日続きが気になり、帰宅して読むのが楽しみになっていた。


『アルカイダから古文書を守った図書館員』

西アフリカ・マリ共和国中部のトンブクトゥの図書館員の実話である。
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以下、本の中の文章(主に訳者あとがき)を引用しながら紹介。

トンブクトゥはサハラ砂漠の南縁に位置し、町全体が世界文化遺産に登録されている。12世紀初頭に交通の要衝として開け、15世紀末から16世紀にかけては黄金時代を迎えて栄華を極めた。とくに学問の都としての名声は世に鳴り響き、自由で開放的な文化が息づくことでも知られた。

1964年、ユネスコの代表団がトンブクトゥで会議を開いた。ユネスコの歴史家は、かつてこの地を訪れたふたりの旅行家の文章を読んでいた。ふたりとも中世で最も有名な旅行家で、14世紀から16世紀にかけて現在のマリにあたる地域を旅行している。どちらも、トンブクトゥでは写本制作と書物収集が盛んに行われていたと記している。かねがねヨーロッパ人の歴史家や哲学者は、アフリカの黒人は「文盲」で「歴史をもたない」と主張してきた。ところが、トンブクトゥの古文書は正反対の事実を告げている。膨大な数の歴史書や詩集、医学書や天文学書が、かつて図書館や市場に、そして自宅に誇らしげに飾られていた。

しかし、そうした書物は、町がその後様々な国に支配されるにつれて地下へと潜ることになる。代々個人の手で密かに何世紀も守り継がれたものもあれば、略奪や破壊の憂き目をみたものもある。隠され、埋められ、その過程で所在不明になったものもある。このトンブクトゥの古文書にふたたび光を当て、失われた伝統を蘇らせるべく生涯をささげているのが、主人公のハイダラである。

あるとき、ハーバード大学の教授一行がトンブクトゥを訪れた。ハイダラはトンブクトゥにおける古文書の歴史を話して聞かせた。14世紀にトンブクトゥにサンコーレ大学が誕生し、当時は2万5千人もの学生がおり、傑出した学者を綺羅星のごとく輩出したこと。黄金時代には12の名家がトンブクトゥの写本の大半を集めたこと。16世紀末にモロッコ軍の侵略によって古文書のほとんどは地下に潜ったものの、収集家の子孫の手で400年のあいだ守り伝えられてきたことも説明した。ハーバード大学の教授はこう表現している。「人生であれほど感動した日はそうありません。古文書を手にして、胸が震えました」

ハイダラは散逸した古文書の発掘と保護に涙ぐましいまでの努力を傾け、古文書図書館の設立にも尽力する。そうした活動の甲斐あって、トンブクトゥはアラビア語の古文書保存の世界的な中心地のひとつとして復興をとげていき、町全体で約38万冊が収蔵されるまでになった。しかしそのころ、町の北に広がるサハラ砂漠にイスラム過激派が進出する。最終的にトンブクトゥは過激派の手に落ち、市民は厳しい統制下におかれる。テロリストたちは町の図書館に侵入して、古文書を燃やした。ところが焼失したのはごく一部で、ほとんどは無事だったことがのちにわかる。危険を察知したハイダラが、命を賭けて一大救出作戦に打って出ていた。この作戦が臨場感あふれる文章で書かれている。

********************

トンブクトゥの古文書の存在とその重要性を知るだけでもとても貴重な本なのだが、実は私にとってそれ以上に興味深かったことがある。それは、サヘル地域で活動するイスラム過激派のAQIMやアンサール・ディーンとそれを率いるリーダーたちの背景、2013年にあわやマリ全体が過激派の手に落ちるかもしれないと危機感を募らせていたときのフランス軍の介入など、調査やインタビューを重ねて事細かに記述されていたことである。

本のタイトルからすると、ハイダラの古文書救出作戦がメインだと思いきや、実に本の5分の4はイスラム過激派とマリ北部の戦闘の描写に割かれている。

2013年1月、フランスの軍事介入が始まったころ、私はブルキナファソの首都ワガドゥグで、自分の家の上空を飛び交う軍用機の爆音を聞いていた。そのころに、マリ北部のイスラム過激派の記事を書いた。この本を読んだ後に自分の記事を読み返すと、知識がいかに浅かったかが分かる。

マリ北部のイスラム過激派グループとは

このあたりの情勢に興味がある方には、とてもお勧めしたい本である。




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# by iihanashi-africa | 2017-10-11 04:43 | マリ | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 5:ブルキナのBalai CitoyenからトーゴのTogo deboutへ


『Place à la révolution』
   (革命の出番だ)

監督:Kiswendsida Parfait Kaboré
84分、ブルキナファソ





2014年10月31日、ブルキナファソでは反政府デモをきっかけに27年間続いたコンパオレ政権が崩壊した。コンパオレ元大統領は1987年に当時大統領だったサンカラが殺害された後、クーデタで政権を奪った。その後、1991年、1998年、2005年、2010年に行われた大統領選で、4度にわたり再選している。ブルキナファソの憲法は、2000年に改正されており、大統領の任期を2期までに制限し(憲法第37項)、任期も7年から5年に短縮されているが、一度はコンパオレ大統領自身も合意して決めた憲法第37項を、再度改正して3選目を目指そうとしていた。これに反対した国民と野党が2013年から繰り返しデモを行い、2014年10月に大統領退陣まで追い込んだ。

当時のデモの写真。
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当時の記事 ↴
ブルキナファソ:憲法改正反対デモ
アラート:ブルキナファソで大統領退陣か?
ブルキナファソ:大統領辞任
クーデター or 革命?


実は、この反政府デモの裏に、「Balai Citoyen」という運動があったのをご存知だろうか。Balaiとはフランス語で掃除用などのホウキを意味する。つまり「市民のホウキ」。政府の汚職などを市民がホウキで掃いてキレイにするという意味を込めてつけられている。だから、運動を起こすときは、皆、シンボルであるホウキを振りかざして訴える。

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http://outhere.de/outhere/smockey-pre-volution-le-president-ma-moto-et-moi/ より

私自身もまさに2014年10月はブルキナファソで仕事をしており、Balai Citoyenの話は聞いてもいたし、新聞でも読んでいた。しかし、周囲のブルキナファソ人の友人たちは、反政府デモには参加していたものの、Balai Citoyenに参加するという意思を持っていたわけではなかった。そのため、Balai Citoyen運動がどこまで影響力があったのか、正直よく分からなかった。しかし、このドキュメンタリー映画を見て、やはり彼らの扇動があったからこそ大統領退陣まで追い込むことができたのだと改めて感じた。

Balai Citoyenは、2013年の夏、レゲエのミュージシャンSams’K Le JahとヒップホップのミュージシャンSmockeyの二人を中心に始まった。

Sams’K Le Jahは、若いころからサンカリストと呼ばれるトマ・サンカラ前大統領の信奉者でもあり、Radio Ouaga FMの自分の番組でも、政治的な発言をしており、表現の自由を訴える歌を歌ったりもしていた。これらの発言から、殺害の脅しを受けたり、Sams’K Le Jah自身の車に火をつけられたこともあった。
トマ・サンカラの死から29年(その1)
トマ・サンカラの死から29年(その2)

Smockeyは、ブルキナファソ人の父とフランス人の母の間に生まれたハーフ。ブルキナファソで生まれ育ったが、20歳の時にフランスに移住して学業を続け、同時に音楽にものめりこみ、1999年、28歳の時にシングルを出した。その後、音楽では成功をおさめ、様々な賞を獲得している。2001年にはブルキナファソに戻って音楽スタジオを設置した。2008年頃からサンカリストを公言するようになり、政治的な曲を歌うようになっている。

下の写真の中央右がSams’K Le Jah、中央左がSmockey。
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http://www.aib.bf/m-6724-burkina-le-mouvement-%AB-balai-citoyen-%BB-presente-un-prix-au-president-kabore.html より


この二人が、Balai Citoyenを結成し、その後どのようにデモを扇動していったのかが、このドキュメンタリー映画で描かれている。

2014年10月31日のあの日、どうやってデモ隊が国会議事堂に入ったのか、前線では何が起こっていたのか。初めて見る映像に私自身も目が釘付けになった。

映像を見ながら、SmockeyよりもSams’K Le Jahの方が活動家であり弁が立つと感じた。セネガルの「Y’en a marre」運動を起こしたKeurguiもそうだったが、信念があって、弁が立ち、カリスマ性のある人には周囲はついてくる。

当時、国民の多く、特に都市部の人々は、現政権に対する不満が非常に大きかった。私の友人たちも都市部で働くホワイトカラーたちは、SmockeyやSams’K Le Jahを傾倒していたわけではなかったが、コンパオレ大統領が次の大統領選に出馬することをどうしても阻止したいという思いはあった。そのため、市民も野党も同じ目的を持っていた者たちは、Balai Citoyenが扇動したデモに乗ったというのが、当時の状況だったのだと今になって思う。

******************

上映後に、Balai Citoyenの理事をしている方がコメンテーターとして話をしてくれた。

実は、Balai Citoyenはセネガルの「Y’en a marre」運動に非常に大きい影響を受けているそうだ。2013年6月にブルキナファソで開催されたCine Droit Libreで「Y’en a marre」運動のドキュメンタリー映画が上映され、運動の中心となったミュージシャンKeurquiが招待されていた。私もその場におり、彼らにとても魅了された一人なのだが、実はその時、会場の後ろにはSmockeyが座っていた。質疑応答の最後にKeurguiのメンバーThiatが、「今ブルキナファソでも、まさに同じように戦おうとしている同士がいる。ぜひ応援したい」と話して、Smockeyに向けて会場の観客が拍手をしたのを鮮明に覚えている。この2日後にBalai Citoyenは誕生したという

この話を聞いた時、なんかとても歴史的な場所に私はいたんだと思いなおして、鳥肌が立った。

当時の映画の記事 ↴
Cine Droit Libre3:セネガルの「Y'en a marre!」運動

今、お隣のトーゴでは、2014年のブルキナファソと似たようなことが起きている。大統領が引き続き立候補することに対する反対運動が起きている。そして、市民たちが「Front citoyen」というグループを設置し、「Togo Debout(トーゴよ、立ち上がれ)」運動を始めた。つい2週間前の、9月22日のことである。セネガル、ブルキナファソに続き、国民が声を張って政治を変える時が来ている。



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# by iihanashi-africa | 2017-10-07 03:17 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
Cine Droit Libre Dakar 4:セネガルにおける薬物依存
Cine Droit Libre Dakar 3 :カメルーン北部のボコハラム対策と位置付けた警察の横行

日本にはダルクDARC(Drug Addiction Rehabilitation Center)という薬物依存症回復施設がある。日本で最初に開設された、民間薬物依存症リハビリテーションセンターである。私の両親は、山梨ダルクを2008年の設立当初から支援しており、その関係で何度かセミナーに参加し、私自身もそのたびに多くを学んできた。依存症に対する考え方がセミナーに参加するたびに変化していったのが自分でも分かるくらいポジティブに影響を受けている。

先日、セネガルにもダルクのような依存症回復施設があることをこのドキュメンタリー映画を通して初めて知った。22分の短いドキュメンタリーだが、セネガルにおける薬物依存の現状をしっかりと表現した興味深い映像である。

『Harm Reduction:The Senegalese Experience』

Osiwa
22分、2016年





2014年12月、CEPIAD(Centre de prise en charge intégrée des addictions de Dakar)
というセンターが首都ダカールのファン病院の中に開設された。西アフリカで初めて設置された薬物依存症回復センターである。

日本同様、セネガルでも薬物依存は犯罪として刑罰が下る。しかし、欧米諸国ではドラッグコート(薬物専門裁判所)が設けられ、刑務所「犯罪→矯正」ではなく、薬物依存プログラム「病気→治療」にシフトした対応が施される。依存症というのは病気である。薬物依存でもアルコール依存でもクーラー依存でも依存度が高くなればそれは依存症という病なのである。しかし、頭では理解しているつもりでも、残念ながらいまだ日本では精神論が根強い。(一部は山梨ダルクの代表の記事より)

セネガルの話に戻ると、依然として薬物使用は犯罪と捉えられてはいるものの、一方で2014年から、より前向きなイニシアティブもスタートした。CEPIADの開設である。2011年の調査で、ダカールだけで1300人の薬物使用者がいることが分かり、まずは彼らの元へ出向いて信頼関係を構築するところから始めている。CEPIADが開設したからといって、彼らの方から来ることはまずないからである。当初は、自分たちを逮捕しに来たのではと警戒する人が多かったそうだ。地道な活動を続けて、2016年3月現在で、128人の依存症患者を受け入れている

施設では主にダカールに住む薬物依存者が依存症に適した医療・社会サポートや、社会復帰のためのサポートを受けられる。先生が一人ずつ依存症患者の話を聞く。2時間患者さんは自由に話ができ、普通の医者のような診察はない。グループサポートセッションもある。患者さんが自由に話せるミーティングだ。センターの庭には野菜畑や養鶏所もあり、アートセラピーセッションとして絵画やバティック布の作成方法を習うこともできる。セネガルでは仕事に就けない若者が多く、社会復帰のためには職業訓練も並行して行わなければ効果的ではないようだ。

セネガルでは、注射器をみんなで使いまわしたりするため、薬物依存症患者のHIVや肝炎の感染率は平均よりも高いという。センターは薬物を購入することを強制的に止めることはできない。しかし、一緒に話をし、リスクを減らしていく方法を考え、彼ら自身が自分や仲間を守ることができるように導いていくとスタッフは話す。

映画の中で、こういう印象的な言葉があった。

男性患者:「この10年間で初めて家族と食事をとることができたよ」
女性患者:「バティック布の仕事が好きで毎日欠かさず来るようになりました。依存症になる以前よりも働いています」
男性患者の母親:「以前の息子は、私のクローゼットの服を盗んで売っては薬物を買っていました。攻撃的になったり一日中ベッドで寝転がっていることもありました。息子は私から全てを奪い、友達もいなくなってしまいました。当時は、神に、息子が治らないならもう連れて行ってくれとお願いしたほどでした。でもCEPIADに通い始め少しお金を稼げるようになってからは、毎日朝早くでかけ、稼いだお金を家に持って帰ってくるようになったのです」

このテーマも、セネガル国内でもう少し注目されるといいなあ。


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# by iihanashi-africa | 2017-10-03 08:12 | セネガル | Trackback | Comments(0)
祝!ブログ10周年。
そういえば、少し前に10年経っていました。

2007年5月にブログを書き始めた時はブルキナファソにいました。当時アメリカにいた弟が最初にブログを始め、毎日「元気です」というメールを書くわけでもない家族に普段の無事を伝えるいい手段だなあと思い、始めたのがきっかけです。これが意外と私の性に合い、投稿ペースは開設当初より減ったもののマイペースに個人的に関心を持った記事を書き続けています。今や趣味の一つかもしれません。

当初からできるだけ日記形式は避けて、テーマを決めて記事を書こうと決めていました。仕事をしていると特に毎日ブログに書くような出来事が起こるわけでもなく、ネタがなくて困って、ああ更新しなきゃというストレスがあると続かないと思っていました。このスタンスが、持続性に繋がったのかなあと。

記事を書くときは、テーマによってはかなり調べてから書きます。そのため、帰宅後の短い時間を使って数日かけて記事を書くこともあります。気分が乗らないと、タイトルだけ書いて数週間、あるいは数か月も放っておくこともあります。で、こうしてお蔵に入ったまま日の目を見ないテーマも。結構マニアックなテーマもありますが、同じように関心を持って読んでくださるコアな読者の皆さんに本当に感謝です。

もう一つ念頭に置いていることは、可能な限り自分が見て体験して感じたことを書くこと。それがいつまでできるかは分かりませんが、できるまでは引き続きマイペースで続けたいと思います。

そして、とても久しぶりに10年前の初投稿を読み返してみました。10年も前だとやはり文章が若々しく、読むのはとても恥ずかしいので、自分でもこの頃の記事はあまり読み返さないのですが、久しぶりに読んでみて、当時の思いは今でも変わらないなあと改めて思いました。

ブログのタイトルの「思いやり」は父のモットーです。仕事においても、全ては相手を思いやることから始まるという父の言葉を借りてタイトルをつけました。これからも、アフリカに「思いやり」。


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# by iihanashi-africa | 2017-10-01 03:31 | アフリカ全体 | Trackback | Comments(1)
Officeワードでウォロフ語が校正される
今日の発見。

ワードでフランス語の資料を読んでいた時のこと。

突如、ワードの上の方に、この文書には校正の対象ではない言語の文字が含まれているので、校正ツールを入手してくださいというようなメッセージが出てきた。

ん??私、最近パソコンを新調したけれど、先日フランス語の校正ツールはダウンロードしたばかり。あれ、ちゃんとダウンロードできていなかったかな?と思いながら、もう一度よくよく文章を見ると、「この文章には、校正の対象ではないウォロフ語の文字が含まれています」と書かれていた。

    !!!!
!!!!ウォロフ語!!!!
    !!!!


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え、まさか、ウォロフ語がワードで校正されるの?と驚きを隠せないまま、ワードの下を見たら、言語がウォロフ語で認識されていた!

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私自身、ウォロフ語は挨拶程度しかできないので言語パックはダウンロードするつもりはないものの、ウォロフ語があるなら他のアフリカの言語もあるのではと興味津々でOfficeの言語アクセサリパックのサイトを開くと、あった~~~~~~!!!すごい!!!


私が分かる限りで、アフリカで使われている言語がこんなにも校正されるようになった!

ヨルバ語(ナイジェリア、ベナン、トーゴ)
ウォロフ語(セネガル、ガンビア、モーリタニア)
スワヒリ語(ケニア、タンザニア、ウガンダ)
イボ語(ナイジェリア)
ハウサ語(ニジェール、ナイジェリア)
アムハラ語(エチオピア)

2013版は対応していないが、2016版のOfficeから導入されたみたい。
いやあ、すごい。恐るべし、言語ツールの進化。


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# by iihanashi-africa | 2017-09-28 06:40 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 3 :カメルーン北部のボコハラム対策と位置付けた警察の横行


『Protect our Rights(私たちの権利の保護)』

アムネスティ・インターナショナル

映画ではないのだが、今回の映画祭で何度も流れたCM。アムネスティ・インターナショナルが作成したアニメーション映画。2分半の超短編なのだが、あまり知られていない事実を見せるにはよい長さだった。


カメルーン北部は、ナイジェリアと国境を接している。北部の国境は下の写真の通り丘陵地が続く。15年前に妹とカメルーン北部を旅行した時にルムシキという村に立ち寄り、運転手からあの谷の辺りがナイジェリアとの国境だという説明を受けたのを思い出す。

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近年、ナイジェリアのボコハラムが活発に活動をしており、ニジェールでも大きな影響を受けている都市があることは以前も記事に書いた。

カメルーン北部でもボコハラムによるテロが多発している。誘拐も発生しており、今や写真の場所には行けなくなっている。こういう状況を打破すべく、カメルーンの警察や憲兵隊もボコハラム対策に躍起になっている。その政府側の対策が非人道的だと批判されているのだ。下の記事では、「カメルーンに仕事はなく、こんな状況ならボコハラムに入った方がまだましだ」と冗談でメッセージを書いた若者が禁固20年の刑となった。こういうほんのちょっとした証拠で、今や1000人もの住民が逮捕されている。その逮捕の仕方も上のアニメーション映画のように非道な方法なのだ。

「Cameroon Protect our rights」


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# by iihanashi-africa | 2017-09-27 09:04 | カメルーン | Trackback | Comments(1)
Cine Droit Libre Dakar 2 : ヨーロッパに向かう移民の道中の厳しさを描いた映画
先日書いたCine Droit Libreという映画祭で何本か映画を見たので、シリーズで書いていこうと思う。


『Migrants – Retour d’enfer(移民、地獄からの生還)』

監督:Patrick Fandio
102分、コートジボワール

一時期よりは少し数は減少してきてはいるものの、今日もいまだにヨーロッパというエルドラドを目指して移住を試みる若者は多い。

2014年時点で、世界各国に124万人のコートジボワール移民がいる。国の人口の5.4%である。そのうち60%はフランス、8%がイタリア、8%がイギリスに住んでいる。2017年1月~2月にかけて、イタリアに着いたコートジボワール人の不法移民は800人を超えるという。

コートジボワール政府はこの状況を危惧し、このドキュメンタリー映画の作成を支援することにした。Ministère de l’intégration africaine et des ivoiriens de l’extérieur(より統一した西アフリカを目指し、海外のコートジボワール人が自国に貢献できるような環境を作るためのコートジボワールの省)は、若者が不法移民になるために死と隣り合わせの過酷な道を通ってイタリアに向かうことをなんとか妨げるべく、その啓発活動の映像の作成を決めたのだ。これまでは、ヨーロッパの監督が撮影・編集した映像しかなく、コートジボワール人の監督の視点から撮ってほしいという依頼だったようだ。

映画は、不法に入国しようとして叶わずにコートジボワールに戻ってきた若者の声から始まる。ある若者は「ヨーロッパに住む友人たちが、大きな車を乗り回し、大きな家に住んでいる写真をSNSにアップしているのを見ると、自分も行ってみたくなった」と話す。そしてヨーロッパで路上生活をする若者は、「SNSに格好いい写真を載せている人もいるけど、多くはヨーロッパにいながらみじめな生活をしているのを見られたくないからたまたま撮れたいい写真を載せている」と話していた。

映画では、リビアにいる不法移民仲介業者と接触し、どのようにニジェールに行くべきか、ニジェールに着いたら何をすべきか、いくら必要かなど、会話が流れている。すべて詐欺まがいである。そして、今やカダフィがおらず無秩序状態のリビアの砂漠をトラックで通過する危険を衝撃的な映像とともに見せている。Youtubeで映画を発見した。全て見られるようなので、フランス語が分かる方は是非どうぞ。




上映後の質疑応答で、アフリカの問題はヨーロッパの問題でもあると意見した方がいた。それに対して監督はこう話す。「確かにそういう意見もあるだろう。しかし、私たちアフリカ人は、ヨーロッパに責任を押し付けるのではなく、まずは自分たちの問題として考えなければならない」

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# by iihanashi-africa | 2017-09-26 15:59 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 1:ブルキナ映画「Frontières」
セネガルでは、9月21日~24日まで、Cine Droit Libreという映画祭が行われている。

もともとは文化の国、映画の国ブルキナファソで2004年に始まった映画祭であるが、ここ数年で反響を呼び、コートジボワール、セネガル、マリでも時期をずらして開催されるようになった。セネガルでは今年で4回目らしい。映画祭の名の通り、人権保護を訴えると同時に、映画を通した表現の自由を推進する目的で実施されており、自国で上映禁止になったような映画も上映している。大半がドキュメンタリー映画で説得力があり、とても貴重な映画祭だと思う。

ブルキナファソにいた頃、私はこの映画祭を楽しみにしており、映画祭の週はほぼ毎日のように見に行っていた。当時の記事↓。

セネガルのプログラムを見ると、ブルキナファソに比べて上映数も限られており少し寂しいのだが、それでも面白そうな映画はある。今回のオープニングで上映された映画の一つに「Frontières」というブルキナ映画がある。私はこの映画を飛行機の中で見た。この映画はFESPACOのオープニング映画でもあった。

『Frontières(国境)』

監督:Apolline Traoré(ブルキナファソ)
90分、2017年

西アフリカの経済圏ECOWAS内では人も物もある程度自由に行き来できることになっている。しかし、それが順守されていない現実をコミカルに表現した映画である。映画は、セネガルから出発する長距離バスで出会う4人の女性の話である。セネガルを出発した後、マリ、ブルキナファソ、ベナンを通ってナイジェリアへ到着する。7日間の旅である。

セネガルのある女性組合の代表であるAdjaraはマリの国境で、予防接種のイエローカードを持っていなかったことから賄賂を要求される。マリの女性商人Emmaはパーニュと呼ばれるマリの生地の売買をしているが、記事の数が多いと国境でいちゃもんもつけられるため、どうにか隠して国境を抜けようとする。ブルキナファソの女性は、知らないうちに薬物の運び屋になってしまう。ナイジェリアの女性も、ナイジェリア国境を抜けるための知恵を伝える。全くお互いを知らない4人の女性が偶然にも出会って、最初は仕方なく協力し合う。

トラオレ監督は、映画の撮影の最中も、税関コントロールや警察の検問で困難があったそうだ。特にナイジェリアにおける撮影は困難を極めたと話している。

一方で、現場の税関職員や警官が見合う給与をもらっていない現実も理解しており、この点も解決しなければ問題は改善されないとも話す。

アフリカを知らない方が見ると、まさかこんなことが起こるわけがない、まさに作り話とも思ってしまうかもしれないが、私自身は映画を見ながら「ああ、ありそうだなあ」と同調しながら映画を見た。





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# by iihanashi-africa | 2017-09-23 07:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
サヘルの写真家、大塚さんの訃報
8月25日、写真家の大塚雅貴さんがコンゴ民主共和国で亡くなられました。

8月初めにコンゴ民主共和国の首都キンシャサに入り、コンゴ河上流にむかって移動しながら取材を進めていたようですが、8月25日の夕方、小休止の折、何か気になるものがあって森の中へ少し入ったとき、突然倒れかかってきた折れた木の下敷きになり亡くなられたとのことでした。

私が大塚さんに出会ったのは、NGO緑のサヘルの忘年会。毎年行われる忘年会の中で、私が最も楽しみにしている忘年会で、写真家、民間企業の社員、NGO職員、コンサルタント、大学関係者、学生など様々な業種の方々が一堂に会するので、普段聞けない話が飛び交って本当に楽しいひと時なのです。大塚さんとはこの忘年会で出会いました。大塚さんが個展を開かれた時には、まだ駆け出しのころの大塚さんを知る方々が、とても感慨深く話されていたのを覚えています。

私自身、サヘル地域でかれこれ15年近く働いてきたこともあり、各国に知り合いが多くなってきました。昨年末の忘年会でコンゴ行きを検討していることを大塚さんから聞き、キンシャサで働いている知り合いを紹介したのですが、それ以来、こまめに連絡をいただき、治安の関係上、少し渡航を延期せざるを得ないこと、やっと8月に渡航ができるかもしれないこと、取材許可がなかなか下りずに苦労していること、など、逐次経過について把握できたので、同じように一喜一憂していました。そして、大塚さんのFacebookでコンゴ入りした後の写真が掲載され、ほっとしていたところでした。

訃報は、大塚さんと親しい方がFacebookに記事を載せたことで初めて知りました。

その方も書いていましたが、「大塚さんはこれまでにも取材中に危険な目に遭ったことは何度かありましたが、その都度切り抜けてこられています。コンゴも治安がよいわけではないですが、紛争やテロに巻き込まれたわけでも、強盗に襲われたわけでも、風土病にかかったわけでも、交通事故にあったわけでもなく、まさかとしか思えない事故で命を落とされたことに」、私もショックを受けています。

好奇心の塊のような大塚さんらしい最期ともいえるかもしれませんが、サハラ砂漠のあの美しい写真を時間をかけて撮られる希有な写真家を、こんな早くに失ったのは本当に残念です。

ご冥福をお祈りいたします。

大塚さんのホームページ
「SAHARA」という写真集をぜひご覧ください。壮大なサハラ砂漠とそこに暮らす方々の自然と一体となった生活を感じられます。



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# by iihanashi-africa | 2017-09-18 21:19 | アフリカ全体 | Trackback | Comments(0)
山梨市の名前の由来
今、一時帰国中なので、ショートブレイクで故郷山梨の話題を。

山梨市は人口3万5千人の小さな市。その小さな市が今、全国的に有名になってしまった。市民にとっては大変迷惑な話だが、起訴された市長を選んでしまった市民も少し責任を感じなければならず、今後はしっかりと人物を見極めて投票しないとならない。しかし、個人的に知らない限り、人物評価は難しく、評判を聞いてもそれがデマであることもあり、一般市民が判断するのはなかなか難しいのが現状ではある。

山梨市長選挙

私の父も、この一件で全国ネットデビュー。デビューするには相応しくないテーマではあるが、この件で控えめな父の公正・クリーンな市政運営が公に評価されたのは身内としては少し嬉しくもある。ただ、こんなことで喜んではいられない。

次期市長となる方は、信頼回復が第一の使命。クリーンな政治をするには、まずクリーンにすべき箇所を知る必要がある。おそらく掘り起こせばいくらでも膿が出てくるかもしれないが、クリーンな政治と信頼回復はそれなくしてできない。みんなで仲良くグレーな部分はなあなあにという政治はもう時代遅れ。今度こそ、市民はしっかりと目を光らせておかなければならない。

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さて、前段が長くなったのだが、メインはここから。

先日、父から山梨市の名前の由来を聞いた。以前も聞いたことがあったのだが、「山梨市長の事件で初めて山梨市の存在を知る」というようなツイートが何千回もリツイートされたのを見て、今回しっかりと記録に残しておこうと思った。

以前、父が現職だった頃に山梨学院大学で講演を行ったことがあり、講演の前段でこの話をしたらしい。どこかに原稿があるはずらしいのだが見つからなかったので、父の記憶と山梨県のホームページとwikipediaを頼って書くことにする。少し事実と異なっていたら悪しからず。


8世紀の山梨は甲斐国といい「山梨、八代、巨麻、都留」の4郡からなっていた。山梨郡の郡域は、現在の山梨市の全域、甲州市の大部分、甲府市の一部、笛吹市の一部。いまの笛吹市春日居町や一宮付近に甲斐国分寺や国分尼寺創建されていることからみて、春日居や一宮を含む山梨郡が古代甲斐国の政治的中心地であったと考えられている。戦国時代に甲府に武田氏の守護所が建設され、城下町として整備されるまで、甲斐国の中心は山梨郡であった。

甲斐の国は、明治元(1868)年3月、官軍の甲府城入場後、明治2年に甲斐府を廃し甲府県と改めた。明治4年8月の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月に始まる第1次府県統合により、韮山県と甲府県が統合して山梨県が発足した。一説によると、甲府という名前は江戸幕藩体制を思い浮かべてしまい、江戸幕府と一線を引きたかった新政府としては使わないほうがよいという判断だったらしい。県庁所在地は、山梨郡甲府。山梨郡が甲斐国の中心だったことから県の名前に使われた。

昭和29年(1954)、前年に施行された町村合併促進法、所謂「昭和の大合併」に伴い、山梨県東山梨郡加納岩町、日下部町、山梨村、岩手村、八幡村、日川村、後屋敷村の7つが合併し、山梨市が発足した。

この際に、市の名前を決めるにあたって様々な議論があったらしい。東山梨郡で「町」だったのは加納岩と日下部で、その他は「村」。そのため、一番大きい町の名前を使ったらどうかという意見もあった。しかし、もともとこの地域は山梨郡であり、当時も東山梨郡というまとまりであり、さらにその中に山梨村もあったことから、山梨市という名前で申請することで意見がまとまった。

しかし、山梨市という名前で国に申請したところ、県庁所在地として間違われるという意見があり、許可が下りるまでに少し時間がかかったらしい。最終的には承認がおりている。

その後、平成17年(2005)の平成の大合併のときにも山梨市の名前を存続するか議論になっている。当時の東山梨郡牧丘町と三富村と合併した市になることが決まっていたが、候補に挙がった笛吹市や甲州市は先に別の市が使ってしまっていた。そして、山梨という名前のルーツであるかつての山梨郡が分かる名前が東山梨郡しかなかったが、合併すると使わなくなってしまうため、山梨市がなくなると山梨のルーツが無くなってしまうという意見があり、最終的に山梨という名前にこだわることになった。


山梨県があって山梨市ではなく、山梨郡があって山梨県という歴史があるため、そのルーツを残しておくため、この市名になっている。


山梨県のホームページ
http://www.pref.yamanashi.jp/miryoku/history/index.html


Wikipediaより「山梨市」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%B8%82

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# by iihanashi-africa | 2017-09-07 00:42 | 日本 | Trackback | Comments(0)
ダカールの魚市場:ヨフ市場
前回の記事でジョアルの漁港を載せた時に、そういえばダカールの魚市場の写真も撮っていたことを思い出した。

ヨフYoff地区の海岸沿いはジョアルのように大きな漁港があるわけではないのだが、毎日夕方になると船が戻ってきて、浜辺にこうして魚市場が設置される。ジョアルとは異なり、一世帯分の小さな単位で魚を買え、混雑しておらず、ある程度整然としているため、外国人が一人で行っても問題はない。
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ただし、日本では見たこともない魚が多く、やはり魚に詳しい方と行かないと、どれを買ってよいか分からなくなる。
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夕方にマーケットがたっても続々と船が戻ってくるため、時々浜に揚げる船を通すために売り場をよけてあげなければならない。
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買った魚は、その場でこうして鱗と内臓を取り除いてもらうこともできる。切り身にしてもらうことも可能。


この日は美味しそうなカニがあった。
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ヨーロッパより魚の値段が安い日本と比較しても安いため、私はうきうきしながら魚を選ぶのだが、セネガル人に言わせると、最近はとても値段が高くなったらしい。原因は、漁獲量の減少である。気候の変化で海流が変化したとか、気候が不安定で航海が危険になったとか、様々な原因があるようだが、最も大きな要因は違法漁業の横行らしい。また違法ではないものの大型漁船による漁が増加し、沖で魚をとられる分、遠出できないセネガルの小規模漁民は不利益を被っている。そのため、通常よりも魚の値段を上げざるを得ないが、消費者からは不満があり、小規模漁民はその板挟みで苦しんでいるとのこと。

そういえば以前カヤールKayarという漁村に行った時、似たような話を聞いた。昔は漁業が儲かることが分かった農民が漁業に転業したのだが、今は再度農業に戻る方も増えているらしい。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-31 18:41 | Trackback | Comments(0)
ジョアル漁港と燻製加工
ジョアルは西アフリカでも有数の伝統漁港である。巨大な漁船が停泊できるほどの港ではないが、セネガルにおいて伝統的な木造漁船での漁業が最も盛んな街の一つである。漁船からの水揚げもまさに人海戦術。

午後5時頃に港に行くと、人で溢れている。写真を撮ろうとぼーっと立っていると、魚を運ぶ方々とぶつかってしまう。
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船が到着すると、ビニール製の全身スーツを着た男性陣が大きなプラスチックケースを抱えて水の中に入っていく。
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こうして自分が担当する船を待つ水揚げ人。無造作に無秩序に人々が動いているように見えるが、ここにしっかり秩序がある。


この時間になるとダカールや他の都市からトラックがやってきて、次々と魚が積まれていく。船からトラックに直接運ばれているものもある。
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ジョアルは貝漁も盛んで、こうして貝の身を取り出す方々もいる。
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ジョアル漁港から幹線道路を挟んで反対側には、魚の加工場が広がっている。周辺国へはこうして一旦燻製に加工されてから輸出されることが多い。特にブルキナファソは主要輸出先らしい。この魚の加工場で働く方は大半が女性。毎朝6時に起きて仕事を始める。

この魚の加工場ができたのは90年代のこと。その前まではジョアルの街中にあったが、燻製の際に出る煙が街を覆うようになり、市が加工場の移設を決定した。当時は周囲に住居もない土地に設置されたのだが、人口増加で街が広がり、現在は住居に囲まれた場所にある。私の運転手の出身地もジョアル出身で加工場ができた後に加工場の近くに両親が家を建てた。

ここではドライ加工(Gejjと呼ぶ)燻製(Kecaxと呼ぶ)の2種類の加工を行っている。燻製はまずこうしてみっしりと魚を並べ、下でミレットの茎を20分間燃やす。
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その後Sine-Saloumの塩をふんだんにかけて乾燥させる。
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私の運転手のおばさんも長い間ここで燻製加工を行っているが、ここ数年、咳が止まらず病気がちだという。燻製に携わる女性たちの多くは、肺や呼吸器官の調子が悪いらしい。ジョアルの特産品として有名な燻製加工だが、もうそろそろ彼女たちの仕事環境や健康状態も考慮して改善していかなければならない時期かもしれない。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-30 12:48 | セネガル | Trackback | Comments(0)
貝とキリスト教の島、ジョアル・ファディウート
ダカールから海岸沿いに南へ120キロのところにジョアル・ファディウートJoal-Fadiouthという街がある。貝でできた島で、セネガルには珍しくキリスト教徒が多く、他にはない独特の雰囲気の島なので行く価値があると聞いており、次の旅先はここ!と決めていた。

ジョアル・ファディウートは一つの市であるが、本土の街をジョアルと呼び、本土とは離れた小さな人口の島をファディウートと呼ぶ。街の起源については様々な説があるのだが、11世紀にモロッコのベルベル系のムラービト朝が南方へ拡大してきたことから、それに伴いセネガル川流域にいたセレール族が南方へ追いやられて、この辺りに街を形成したという説がある。また、Guelwar族という現在のギニアビサウに起源をもつ民族がSine Saloum王国へやってきて、ジョアル・ファディウートを築いたという説もある。調べていたら、Guelwar族はマリ帝国の創始者Soundiata Keitaの子孫であるとも言われていることが分かり、この記事を思いただした。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画

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植民地時代は、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスに次々に支配され、セネガル西部の商業拠点の一つとなっていた。この三角貿易が、キリスト教の浸透に繋がり、17世紀から徐々にキリスト教関係者が定住するようになった。2007年時点で、ジョアル・ファディウートの人口は約4万人。その内4分の3はジョアルに居住している。そしてファディウート島の人口の9割がキリスト教徒と言われている。

ジョアルの街を進み、半島の先端まで進むと、ファディウート島に渡る橋がある。車両は島には入れない。貝でできた島なので、車両が入ったら島自体が崩壊するかもしれない。橋は木製で、橋だけ見ると一瞬あれ?日本?と見間違えるほどに日本風。2005年にファディウートとジョアルは橋で結ばれたが、それまではピローグと呼ばれる小舟で行き来していた。

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橋の袂に観光案内所があり、そこに登録しているガイドが島や墓地を案内してくれる。島への入場料も含め、11,000fcfaだったかな(記憶が不確かだけれど)。

まず船でマングローブの森へ向かう。小舟で10分くらいの森の入り口に、高床式の藁葺き穀物倉庫が並んでいる。ファディウート島ではかつて火事が穀物倉庫まで被害に遭うことが続き、祖先たちが穀物倉庫だけは被害に遭わないよう、島とは別のところに倉庫を設置することを考えたという。

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現在は使われていないので、倉庫の一部は風雨の影響で状態が悪いが、かつての文化を残すために毎年少しずつ修繕されている。

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マングローブの森にはこういう片手だけが大きいカニが沢山見られる。通称バイオリニスト。メスを惹きつける時、あるいはライバルを威嚇する時に、弓を持ったバイオリニストのように見えるから、こう呼ぶらしい。


バイオリニストの動きが面白かったので、動画に撮ってみた。



そこからまた小舟で隣の島へ移動する。墓地の島である。
ファディウート島と同様、貝でできた島。この辺りだけでなく、マングローブの森があるところでは干し貝産業で生計を立てている住民が多かった。ジョアル・ファディウートも例外ではなく、中身を取り除いた貝殻を一か所に捨てていったら、こんな大きな島になったそうだ。何年かかってこんな島になったのだろうか。そして、人々はその貝殻でできた島に住み始めた。それがファディウート島。その隣にも小さ目の貝殻の島があり、ここは墓地専用となっている。ファディウートの住民の9割がキリスト教徒のため、白い十字架が島全体を覆っている。
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しかし、奥の方に行くと一部イスラム教徒のお墓も見られ、キリスト教徒とイスラム教徒のお墓が隣り合っているのが興味深い。
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先祖の魂もこうして貝の中に眠っている。


そこから墓地とファディウート島を結ぶ2つ目の橋を渡る。
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島の中はセネガルでは見られない異国の地のようで、とてものどかで雰囲気がいい。路地を散歩するだけでも楽しい。
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所々にこうした憩いの場があり、男性たちが集まって井戸端会議をしたりする。


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建物の壁にも貝が沢山使われている。


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住民の9割がキリスト教徒というだけあり、あちらこちらにキリスト教関係の建物が見られる。


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そして島の中心に大きな教会。


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尖塔の先にはかわいらしいハートマーク。


セネガル旅行ではとてもお勧めの場所かもしれない。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-22 19:18 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ブルキナファソでまたテロ
8月13日(日)の夜、ブルキナファソの首都ワガドゥグでテロが起きた。今日はバルセロナでもテロがあったため、ブルキナファソの報道は小さくなったが、かつてブルキナファソで働いていた私にとってはこの衝撃は大きかった。またか、、、というため息と同時に肩を落とした。

約1年半前の2016年1月15日の夜、ワガドゥグ中心街のスプレンディッドホテルと道路を挟んで目の前にあるカプチーノというカフェが襲撃にあった。
【アラート】ブルキナファソでもテロ

そして、襲撃にあったカプチーノカフェから200mと離れていないAziz Istanbulカフェが8月13日の夜、襲撃にあった。空港からも100mと離れていないため、一時空港閉鎖になっている。

http://edition.cnn.com/2017/08/13/africa/burkina-faso-attack/index.html

13日の夜9時15分頃、バイクに乗った二人の武装テロリストがAziz Istanbulカフェにやってきてカフェの前に止まっていた車にバイクをぶつけ、バイクから降りると同時に銃を取り出してお客を襲撃しだした。従業員や一部の客は裏口から何とか逃げており、空港の横にある空軍基地に逃げ込んだ人もいたらしい。

9時半には、警察そして憲兵隊の突入部隊(USIGN)が到着し射撃を始めた。この突入特殊部隊は、2016年1月の襲撃の際も活躍したが、この時は仏軍の援護もあった。今回は部隊が軍の援護を受けながらも単独でオペレーションを行った。テロリストは建物内の階段で上層階へ行き、人質を取ったため時間がかかったものの、午前2時頃に一人が射殺され、3時頃にはもう一人も射殺された。

現段階では犯行声明は出ておらず、バックがどの組織なのかは不明。

このテロの犠牲者は18名。
半数がブルキナファソ人で、フランス人、クウェート人、レバノン人、トルコ人、カナダ人も犠牲となった。私自身が直接知っている方はいないが、カナダ人の犠牲者は友人の友人だった。それも結婚したばかり。いろいろ想像すると胸が締め付けられる。

ついさっき、テレビでクウェート人の犠牲者の家族がインタビューを受けていた。
「襲撃した人など知りたくもない。イスラム教徒と言うなどもってのほか。アラーの庇護など受けているはずがない。悪魔でしかない。」
同じイスラム教徒とは絶対に語ってほしくないのだと思う。
このテロで、何人のイスラム教徒が亡くなったのだろう。。。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-18 10:30 | セネガル | Trackback | Comments(0)