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廃墟となった最高教育機関 Ecole normale William Ponty
先日、ダカール州とティエス州の境にあるSébikotane市にある友人の農園を訪れた。その道中、友人が立ち寄ってくれた場所がある。それが、ここ。

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これだけ見ても何か分からないが、これがEcole normale William Ponty(ウィリアム・ポンティ高等師範学校)の講堂跡といったら分かる人もいるかもしれない。私も友人から説明を聞いて、「え===、ここがかの有名なウィリアム・ポンティ!」と感動した一人。

Wikipediaから抜粋して少し修正

「ウィリアム・ポンティ校は1903年、当時フランス領西アフリカ(AOF)の首都だったサンルイSaint Louisに創立された。その後1913年にはゴレ島に移転し、1937年にはリュフィスクRufisque近郊のセビコタネSébikotaneに移転し、セネガル独立後の1965年にコルダに移転した。
ウィリアム・ポンティ校はフランスが現地人官員の養成を目的として設立した学校であり、フランス領西アフリカ全土から優秀な学生が集まり、卒業後は下級官員として、また現地人のリーダーとして全土に散っていった。そのため、フランスの第4共和政時にアフリカから議員が選出できるようになると、同校出身の代議士が多数を占めた。さらに議員以外でも現地の指導者として、また知識人として重きをなしている場合が多く、彼らのネットワークによって独立への動きがすすんでいった。卒業生は出身地に関係なく集められ、仏領西アフリカ全土に配属されたため、仏領西アフリカの指導層に連帯意識が生まれる元となった。

独立運動を指導し、大統領になったコートジボワールのフェリックス・ウフェ=ボワニFélix Houphouët-Boignyマリのモディボ・ケイタModibo Keïtaニジェールのアマニ・ディオリHamani Dioriダオメー(現ベナン)のユベール・マガHubert Mangaオートボルタ(現ブルキナファソ)のモーリス・ヤメオゴMaurice Yameogoセネガルのアブドゥライ・ワッドAbdoulaye Wadeなども、ウィリアム・ポンティ校の卒業生(卒業生はPontinsと呼ばれる)である。」

1933年の卒業生から卒業論文が必須となり、791の論文が、Institut Fondamental d’Afrique Noire(IFAN:ブラックアフリカ基礎学院)に保存されているという。それらを『Cahiers de Ponty(ポンティのノート)』と呼ぶ。当時の経済、社会、文化を理解する貴重な資料とされているらしい。

現在、セビコタネの学校跡は、鉄筋がむき出しになり、屋根も崩れ落ちており、建物の中は藪となって、入ることもできない。ダカールからティエスに向かう高速道路の脇に、学校の場所を示す看板が存在感なく立てられているものの、気づく人はどれだけいるだろうか。1937年から1965年の28年間、仏領西アフリカの政治家、行政官、医者、教員の大半を輩出した最高師範学校で、フランス語圏アフリカの歴史の中では非常に重要なサイトなのだが、その威厳はなくなってしまっている。学校の施設の一部は、近くにあるセビコタネ刑務所の施設に改築されている。

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正面から撮った写真。
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1990年、アメリカの支援で学校再建を決め、ウィリアム・ポンティ師範学校からそれほど離れていないところに、『Université du Futur Africain de Sébikotane(セビコタネ未来のアフリカ大学)』を建設すべく起工式も行ったが、工事が始まったのは2002年。そして2006年には工事が中断してしまった(下の写真)。

その後2012年の大統領選で、アブドゥライ・ワッドはセビコタネの大学建設の再開を公約として掲げたが、マッキー・サールに負けて以降、工事は進んでいない。最近は、エネルギー・石油関連のエンジニア養成校として生まれ変わるというような話もあるらしい。
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ただ、新たな建物を建設することがウィリアム・ポンティ校の歴史を語ってくれるわけではないので、私としてはこの嘗ての講堂をどのように保存していくかを考えた方がよいと思う。ただ思いは人それぞれなので、最終的にどうなるか。このまま保存してほしいなあ。

ちなみに、ウィリアム・ポンティとは誰なのかというと、1908年から仏領西アフリカ(AOF)の総督だった方。自身もフランスでしっかりと教育を受けており、1888年にサンルイ総督の第一秘書になったころから教育に力を入れていた。それもあり、1915年にダカールで亡くなられてから、総督に敬意を払ってこの最高師範学校をウィリアム・ポンティ師範学校と呼ばれるようになった。

ウィリアム・ポンティ校はゴレ島にもあったというから、10年以上前のゴレ島の写真を出してきて眺めていたら、もしかしたらこれが学校跡かも!という写真があった。下の写真の右側の建物。次回ゴレ島に行くときはちゃんと確認してこよう!

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by iihanashi-africa | 2017-03-17 09:31 | セネガル | Trackback | Comments(2)
Commented by Ishikawa at 2017-03-17 17:50 x
いやあ、博識ですね。大変勉強になります。忙しない日々に追われるばかりで、身の回りにある歴史などになかなか目が行かなくなっていました。興味を持って周りを見ること、忘れておりました。
Commented by iihanashi-africa at 2017-03-20 03:42
Ishikawaさん!コメントありがとうございます。いやいや、ほとんどwikipedia先生と聞いた話と読んだ話ですよ~。でも、こういう忘れられかけた歴史を知ると面白いですよね。ブルキナも沢山あるだろうし。
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