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トマ・サンカラの死から29年(その2)
トマ・サンカラの死から29年(その1)


1983年、トマ・サンカラは35歳の若さで大統領になる。
そして、4年間という短い間に、ここまで評価され尊敬される存在となった。

サンカラは、大統領になり植民地時代との断絶を宣言した。そして、1983年10月2日、反帝国主義の革命イデオロギーを示したスピーチ(Discours d’orientation politique)をラジオで流した。こうして書くと、国民の洗脳にも聞こえるが、むしろ国のあるべき姿と革命を進める上での心構えを伝えるものだったともいえる。やっぱり完全に社会主義だが、ほんの一握りの国民が富を独占していて、貧しい国民には希望も見えない中では、ほんとに希望の光だったのかも。スピーチ全文はとても長く、ラジオでも1時間半近いスピーチになったらしいが、読みたい方はこのサイトにある。
http://thomassankara.net/discours-d-orientation-politique-2/


『10月2日』。

現在ワガドゥグ市内にいくつかあるモニュメントのうち、「10月2日モニュメント」というのがある。この日を記念する碑である。私自身、ブルキナ滞在中は、しっかりと見たことがなかったが、モニュメントの上にDiscours d’orientation politique(DOP)と彫られているらしい。

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サンカラが尊敬されていたのは、有言実行の人で国民と同じ目線にいたからからかもしれない。
選挙では国民のためと言いながら結局私腹を肥やす大統領が多い中、サンカラは、大統領の給料を削減し、行政全体の公用車も贅沢な車輌をやめ、飛行機も皆エコノミークラスで移動するようにし、常に貧しい方々の富を追い求めた真摯な姿が国民にも理解されたようだ。自宅も豪邸に建て替えることもなく、一般住民と同じような家に住み続けた。

サンカラはこうして国家支出を大幅に削減することで、政権について3年後にはほとんど外部支援に頼らなくてもよい状態になったと言われている(実際のところは分からないが、みんなそう発言している)。国内で消費するものは全て国内で生産することを可能にした(と言われている)。国民を奮起させ、農家は今まで以上に働き、生産量は3倍に増加。ほぼほぼ自給自足を達成できてしまったらしい。

そして、かの有名な1987年7月のアフリカ連合での「債務の返済拒否」を訴えるスピーチがある。世界的には、1994年以降にようやく重債務国の債務帳消しが始まったが、サンカラは、1987年に以下の発言をしている。「債務問題は、植民地主義に起因する。新植民地主義で富を搾取しながらアフリカを債務漬けにしたのは宗主国である。我々は今50年にもわたり支払わなければならない債務を抱えている。我々が払わなくても先進国が崩壊することはない。しかし支払ったら私たちが自滅する。次世代の負担となり国の発展を妨げるものである」。



ちなみに、このスピーチで各国の私腹を肥やす大統領たちを前に、こういう発言をしている。
「国の経済危機というのは、突如やってくるものではない。国民のほんの一部だけが富を独占しているから危機は起こるのだ。そのことに国民が納得しないから危機は起こるのだ。一部の人が、アフリカを発展させることが出来る富を海外の銀行に預けているから起こるのだ。そのことを棚に上げながら国民に貧しい生活をさせるから起こるのだ。」
この時、大統領たちはどういう思いで聞いていたのだろう。サンカラは、汚職に対しても断固反対の態度をとっていた。

サンカラは、農家を徹底的に保護することも忘れなかった。
ある時、インゲン豆を生産して輸出する農家が、パッケージに綺麗に入れて、仲介業者を通してワガドゥグへ運んでから、輸送機が来ないことが分かった。仲介業者は農家に返品し、農家が大損をすることになりかねなかった時、大統領令で公務員がそれぞれそのインゲン豆を購入することになったらしい。

女性の地位向上にも大きく貢献した。
家庭の中で夫のいいなりになっている女性たちに発言をさせ、責任を与えた。国民の半数を占める女性が活躍しなければ国の発展はないとした。ブルキナファソは本当に女性が活躍していると思う。

子供の予防接種キャンペーンも行った。
当時で、70~80%の子供が予防接種を受けており、アフリカの中でも非常に高い接種率だった。

植民地時代から続く「オートボルタ」という国名から、モレ語とジュラ語で「高潔な人々の国」を意味する「ブルキナファソ」に変更した。

文化的活動を活発化したのも、サンカラだった。
「カルチャーのない社会はない。そして社会と関係のないカルチャーはない」と話し、カルチャーが国の発展の核であり、特に発展段階の最初と最後で必要になってくると考えていた。そのため、ブルキナファソのアイデンティティーを推進するために文化活動を活発化させた。FESPACOがここまで盛大な国際映画祭となったのもサンカラの功績である。

民衆劇場なるものも建設した。ブルキナファソは演劇を見られる場所がとても多く、それもクオリティーが高い。こんな国はあまりなかったが、なるほどこういうことだったのか。

人種差別とも徹底的に戦った。あまり知られていないが、当時アフリカの大統領で初めて公にアパルトヘイト反対を訴え、ブルキナファソに国名が変わって初めてのパスポートをネルソン・マンデラに発行している。1987年には反アパルトヘイトの会議をワガドゥグで開催もしている。下の1984年の国連でのスピーチでも南アフリカのいち早い解放を求めている。サンカラは、世界各国で革命を起こそうとする国民を支持していた。


サンカラの功績は挙げたらきりがないのでここで止めておくが、4年間で実施したことはブルキナファソの基礎ともなっている。


一方で、サンカラの革命は先を急ぎすぎて途中で歪が出てきたと言われてもいる。

教員のデモが発生したり、革命の精神を10日間で植え付けられた教師が教員となったりした。革命派でない人は蚊帳の外に置かれた。徐々に革命の客観性が失われ、革命を推進していれば組織のトップに立つこともできた。不満を持つものも増えてきていたのかもしれない。

更に、外部にも多くの敵を作った。フランスをはじめ、コートジボワールやリビアもそうである。最終的に、フランスやコートジボワールがバックについていたブレーズ・コンパオレがサンカラを倒すことになる。



サンカラは、1987年10月15日に右腕だったブレーズ・コンパオレ派に暗殺されるが、暗殺の前に、既にその兆候があったそうだ。ある方が、サンカラに「裏でクーデターの動きがあるようです」と伝えると、「知っている」と答えた上で加えた。「しかし友情を裏切るのであれば、私ではなく彼である」と。歴史を振り返ると、革命が起きた時、様々な思惑が飛び交い怪しいものは殺害され、暗殺に暗殺を重ねて優秀な人材を失ってしまうことが多々あったことをサンカラは分かっていた。だからこそ、サンカラはブレーズ・コンパオレを殺害することはなかった。しかし、結局自分が殺されるという結末になってしまった。

サンカラは、亡くなる前、非常に疲れて落ち込むこともあったという。彼の改革の熱についていけない人が周囲に増えてきて、辞任することも考えたらしい。とても情があり、人間性に溢れ、熱い人であったことは、どのドキュメンタリーを見ても分かる。これが皆に愛される所以である。


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by iihanashi-africa | 2016-10-27 00:54 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(2)
Commented at 2016-11-10 22:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by iihanashi-africa at 2016-11-16 19:04
Junabaさん、コメントをありがとうございます。「ブルキナ」がモレ語で「高潔な人々」、「ファソ」がデュラ語で「国」。しかも「ブルキナベ(ブルキナ人)」の「べ」はプル語で「人」という意味だそうです。だから英語でもフランス語でもブルキナべはブルキナべなのだとのことです。」というご指摘、ありがとうございます!!!「べ」も意味があったなんて知らなかった~~~!感動です。また、ご指摘があったら是非コメントください。
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