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トマ・サンカラの死から29年(その1)
トマ・サンカラ元大統領が暗殺されてから2016年10月15日で29年が経った。10月15日前にアップしようと意気込んでいたのに、全然間に合わなかった。。。来年は30年の節目で、20年目同様に大きなセレモニーが行われるかもしれない。

トマ・サンカラ(Thomas Sankara)は、1983年~1987年までの4年間しか大統領のポストにいなかったにも関わらず、今もなお多くの国民から敬意を表されており、30年経った今でも毎年10月15日はサンカラに関する多くの新聞記事が掲載され、ミュージシャンはサンカラの歌を歌うし、サンカラの演劇も上映されるし、ドキュメンタリーや映画も作られる。私のブルキナファソの友人は、サンカラの時代は本当に社会に活気があったと語る。完全なる社会主義だったが、男も女も老人も子供も、みんな平等に働く。国民が全員外に出て、人海戦術で線路を造ったり、みんなで一斉に植林をしたりと、楽しかったという。サンカラ自身も贅沢をせず、庶民の目線に立つことが出来ていた人だったようだ。一方で、やはり富裕層からは好かれない存在だったのだとは思う。

私自身は特にサンカラの信奉者ではないけれど、私が尊敬する友人たちがサンカラを尊敬しており、やはり気になる存在である。以前、出張でブルキナファソに来たマダガスカル人やカメルーン人が、「サンカラの墓に行きたい」と言ったことを思い出す。現にサンカラは、ブルキナファソ国内だけでなく、全アフリカ諸国の国民から一目置かれる存在だった。サンカラ政権当時に、あるブルキナファソ人がセネガルへ出張に行ったとき、空港の税関職員がブルキナファソのパスポートを見るなり「おお!!!マイブラザー、ブルキナファソ!!!」と握手してきたそうだ。アフリカ大陸に限らず、スイスでもワシントンでもブルキナファソ人というと一目置かれたという。サンカラが亡くなった時は、遠く離れたカメルーンの首都ヤウンデでも市民が路上で泣いて悲しんだそうだ。それだけの人気があった。


ちなみにサンカラのお墓はワガドゥグの街中にある。写真撮影は禁止で、いつも警備の方が監視しており、自分が撮った写真はないので、下に紹介したドキュメンタリーから映像を拝借。
トマ・サンカラの死から29年(その1)_c0116370_21285948.jpg



最近、友人からトマ・サンカラの興味深いドキュメンタリーがあると教えてもらい、夜中に見始めたら、本当に面白くて、翌日も仕事なのに1時間半を一気に見てしまった。サンカラの話は有名で様々な伝説を聞いていたが、ここまで貴重な映像がまとめられたドキュメンタリーはあまり見たことがない。この映像がいつまでアップされているか分からないが、関心のある方は是非見てほしい(あああ、、、こうしているうちにアクセスできなくなってしまった)。

http://www.lcp.fr/emissions/277352-capitaine-thomas-sankara

もう一つ興味深いドキュメンタリーがあるのだが、これは、サンカラに近かった方々のインタビューをまとめたもので、映像としては面白くないかもしれないが、フランス語が分かる方には興味深いかも。ただし、これもサンカラを賛辞するものばかりかな。



こちらは、英語版のドキュメンタリー。個人的には、こちらの方が面白い。様々な角度から現実を描いていて、サンカラ政権も最後には少し歪が生まれていたことも客観的に描いている。



<生誕~軍士官学校でマルクス主義に出会うまで>
トマ・サンカラは、1949年12月21日、ワガドゥグから北西約100kmに位置するヤコ市で生まれ、幼少期から高校まではブルキナファソ南部のガウアで過ごした。子供の頃からカリスマ性がありリーダー的存在だったが、弱い者を守るという正義感は昔からあったようだ。その後、ボボ・ディウラソの高校に通うことになったが、1年目は奨学金をもらえず財政的にも非常に苦しく、知り合いの家族のところに居候していた。2年目からはなんとか奨学金をもらって寮に入ることが出来た。とても成績が良く、医者になることを目指していたが、医学部の奨学金を得るためには太い人脈が必要だったようで、それがなかったサンカラは医学の道を諦めざるを得なかった。その後、軍の士官学校に入ったのだが、ここでも成績は良かったようだ。軍では、今とは異なり、道路整備等のインフラ工事や農業などを行うこともあったらしい。そしてここで、歴史学者アダマ・トゥレAdama Touréを通して、サンカラの運命を変えるマルクス主義に出会う

<マダガスカルの国民デモから得たもの>
1970年~1972年、マダガスカルのアンチラベ士官学校で研修を受けることになる。社会主義の考え方を確固たるものにしたのが、この時期である。フランスの新植民地主義の推進者のチラナナ政権に反対する農民や学生のデモがまさに起きている瞬間に出くわした。その後、マダガスカルは、1975年に、反・新植民地主義のラチラカ大統領に政権が変わった。サンカラと同じように軍出身で新植民地主義に反対するラチラカがトップに立ったことで、軍の役割は広いことを感じることになる。軍が守るべき「セキュリティー」とは身体的なものだけでなく、経済的セキュリティー、文化的セキュリティー、精神的セキュリティーなど様々なものがあり、それら全ての保護は軍の役割に入ると考えた。余談だが、マダガスカル滞在中に、サンカラは稲作大国の田んぼへ出かけては技術や農機具を観察していたという。

<マダガスカルから帰国後、共産グループを結成するまで>
マダガスカルから帰国後、オートボルタ(現ブルキナファソ)とマリの国境紛争の地へ派遣され、そこで名声を挙げて有名になる。1976年、ポーの軍訓練校の指揮官になる。同年に、モロッコでの研修の際に、後に右腕となるブレーズ・コンパオレと出会う。そして、ブレーズ・コンパオレも含む複数の将校と共にROC(Regroupement des Officiers Communistes:共産主義将校グループ)を結成する。

<ゼルボ政権下の国務大臣ポスト>
1980年11月25日、セイ・ゼルボSaye Zerboによるオートボルタ初の軍によるクーデターが起き、ゼルボ政権下でサンカラは情報国務大臣に任命される。このポストはいやいや引き受けており、着任する時から長くはいないと発言していたが、その言葉通り、着任翌年の1982年4月に国際会議のスピーチで「国民を力ずくで黙らせる者に災いあれ «Malheur, à ceux qui bâillonnent le peuple!»」と言い残して突然辞任した。今では非常に有名になったセンテンスである。

<首相の座~逮捕>
これをきっかけにもともと国民には人気のなかった政府に対し、内部の人々も疑問を持ち始めるようになり、1982年11月には再びクーデターが起きる。トップに立ったのは若い将校のジョン・バティスト・ウエドラオゴJean-Baptiste Ouedraogo。その政権下で、サンカラは首相に任命される。しかし、大統領は新植民地主義を継続させたため、革命を目指すサンカラとは、当然のことながらうまくいくはずがなかった。2ヵ月後、サンカラは、ボボ・ディウラソで反政府ミーティングを行い、大多数の国民の支持を得ている。しかし、反政府ミーティングを行った罪で、他の軍関係者と合わせて逮捕された。ブレーズ・コンパオレも逮捕者リストにあったものの、うまくかわして逮捕を逃れ、サンカラが設立した野党勢力のあったポーに戻った。

<サンカラ逮捕に抗議する人民蜂起>
サンカラの逮捕後から、ワガドゥグ市内は「Liberez Sankara !(サンカラを解放しろ!)」と訴える国民がデモを起こした。デモ隊と警備隊との衝突は非常に激しく、デモ隊を拡散させるために催涙弾が使われたりもしたが、それでもデモは続き、大統領はこの国民の圧力に対抗することは出来ずにサンカラと仲間たちを解放することとなった。
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1983年8月4日、ブレーズ・コンパオレ率いるポーの勢力がワガドゥグにあがり、クーデターを起こすのだが、この時国民の大半が一緒にワガドゥグへ向かい、一緒になって電気を止めたり、電話を止めたりとクーデターを支援した。国民も武器を持って戦ったそう。クーデターと言っているが、「民衆蜂起」あるいは「革命」の様相が強かったという。

『民衆蜂起(Insurrection populaire)』

人民蜂起と言えば、2014年に国民の政府への反対デモが拡大して当時のブレーズ・コンパオレ大統領を追い出した出来事も、クーデターではなく「民衆蜂起」あるいは「革命(révolution)」と呼んでいる。この議論、2014年にも書いたなあ(クーデター or 革命?)。当時の私にとっては、かなり目新しい議論だったが、ブルキナファソにとっては同じような状況を既に経験していたのだ。なるほどね。だから、あの時もさくっと「革命」という言葉が躊躇なく出てきたのかも。ただ、この時は軍が前面に出ているという意味で、やはりクーデターである。

こうして1983年、サンカラは35歳の若さで大統領になる

いやあ、、、長い記事を書きすぎたので、やっぱり二つに分けよう。

次回に続く。


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by iihanashi-africa | 2016-10-25 21:47 | ブルキナファソ | Trackback | Comments(0)
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