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Wien&Praha5日目: フルボカー城とチェスキー・クルムロフ
7月24日(旅行5日目)

プラハから南下し、オーストリアとの国境に近い地域は南ボヘミアと呼ばれる。そこにフルボカー城という豪華絢爛な城と世界一美しい街という形容されるチェスキー・クルムロフがある。本日はここへ出発。

これらのお城を語る上で重要なのが複数の貴族。特にロジュンベルク家シュヴァルツェンベルク家は非常に興味深い足跡を残してきた。

フルボカー城

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フルボカー城は、13世紀にボヘミア王国の国境を守る領主の拠点として建設され、オタカル2世の死後、ヴィートコヴィッツ家の手に渡った。その後、魚の養殖やビール醸造等の事業を始めたペルンシュタイン家マロヴェッツ家へと引き継がれたが、ビーラー・ホラの戦いの後、マロヴェッツ家の財産は全て没収され、かつて栄華を誇ったフルボカー城は、錠前も扉も破壊され、略奪された城としてほとんど価値のない存在となり果てた。

17世紀にシュヴァルツェンベルク家のヨハン・アドルフ1世が購入し、その息子たちが相続して徐々に外観や内装が豪華になっていった。フルボカー城が現在の姿になったのは、ヨハン・アドルフ2世の時代で、イギリスのウィンザー城をモデルにロマン主義様式へと改築された。改築を最初に思い立ったのはアドルフ2世だったが、後年になって城の応接スペースや図書館、禁煙サロンの改築や武器庫の新設等、様々な豪華装飾を加えたのはエレオノーラ公妃だった。

アドルフ・シュヴァルツェンベルクが最後の城主になったのは1938年のことだったが、ナチスドイツ政府の野心に反対し続けており、第二次大戦が始まると国外に逃亡し、終戦後の1947年にチェコスロヴァキア政府により全財産を没収された。シュヴァルツェンベルク家の人々はナチスドイツ支配に抵抗し、チェコスロヴァキア市民を名乗り続けており、財産没収や追放を受ける対象ではなかった。しかし、1947年にこのためだけにシュヴァルツェンベルク法が制定され、政府が引き継ぐことになった。

その末裔であるカレル・シュヴァルツェンベルクは、現在チェコ共和国外務大臣。


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内部は撮影禁止だったのだが、購入したガイドブックの写真をどうぞ。

金銀きらびやかな装飾が好きなロシア人の団体さんが多かった。


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フルボカー城は一年中住居として使われていたわけではなく、狩猟シーズンの秋に集まることが多かった。1回の狩猟は6~7日続き、シカ・イノシシ200頭、ノウサギ2000匹などを仕留めていた。シカについては、こうして壁に角を掲げていたが、飾る場所がなくなってきたために、外にも飾るようにした。


Wien&Praha5日目: フルボカー城とチェスキー・クルムロフ_c0116370_18201071.jpg城の入口正面扉の取っ手。これはシュヴァルツェンベルク家の紋章トルコ人の頭部をカラスがつついているのだ

当初は青と白のストライプのシンプルな紋章(左下)だったが、16世紀後半の対トルコ戦争への資金支援を行い戦地にも赴いた当時の当主が、トルコ人の死体をカラスがつついているのを見て、それを紋章に入れることにした。なんと悪趣味。最終的に右の紋章に落ち着いたが、右下には相変わらずトルコ人とカラスの絵が描かれている。


Wien&Praha5日目: フルボカー城とチェスキー・クルムロフ_c0116370_18205947.pngWien&Praha5日目: フルボカー城とチェスキー・クルムロフ_c0116370_18212887.pngWien&Praha5日目: フルボカー城とチェスキー・クルムロフ_c0116370_1821576.png



チェスキー・クルムロフ

チェスキー・クルムロフは街自体が世界遺産になっている。とても小さく端から端まで歩いて10分くらい。こじんまりとしていてかわいらしく、おとぎの国のよう。

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チェスキー・クルムロフは観光産業で成り立っている街だが、16世紀は魚、特に鱒をドイツやオーストリアに輸出して生計を立てていたらしい。現在でも鱒料理は有名。

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ということで、私たちもレストラン「POD RADNICI」で鱒料理を注文。

肉料理にそろそろ飽きてきたころにこの味は嬉しい。調理法も日本人の口にあっており、旅行中に食べた最も美味しい料理だったかも。


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チェスキー・クルムロフの地ビール、Eggenbergエッゲンベルグ。街には醸造所もある。やっぱり黒ビールうまし。


余談だがバドワイザーというブランドはチェコがオリジナルだったことをご存じだろうか。私も知らなかった。チェスキー・クルムロフの近くにCeske Budejovice(チェスケー・ブディヨヴィツェ)という街があるのだが、ここは13世紀にオタカル2世がビール醸造の特権を与えてから現在まで醸造が盛んである。16世紀に入って、そのビールにBudejovicka Budvarという標章が付けられ、当時はハプスブルク家支配下でドイツ語が使われていたため、それがドイツ語読みで「ブドヴァイゼル」と呼ばれた。そして19世紀後半にアメリカの醸造家が「ブドヴァイゼル」のビール酵母を持ち帰ってビール醸造を始め、「バドワイザー」と名付けた。「ブドヴァイゼル」の英語読み。

「バドワイザー」標章については裁判も行われたようだが、結局アメリカバドワイザーの勝訴となったそう。


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チェスキー・クルムロフは、もともと12世紀末に現れるヴィートコフ家の城で、14世紀にその一族のクルムロフ家が断絶してからは、チェコ最大の貴族ロジュンベルク家に引き継がれた。その後17世紀にハプスブルク家の手に渡るまで、ロジュンベルク家が住み続けた。

1602年にハプスブルク家に手に渡った城だが、非常に遠く管理が大変だったため、1622年にエッゲンベルク家の手に渡った。上記の地ビールの名前はこの貴族に由来している。そして18世紀にエッゲンベルク家が断絶し、2世代前に婚姻関係のあったドイツ系貴族シュヴァルツェンベルク家に、城が引き継がれることになる。シュヴァルツェンベルク家は第二次大戦後の1947年までこの地におり、終戦後はチェコスロヴァキアの政策でドイツ人が全員ドイツに戻り、所有していた城館等も没収され、チェスキー・クルムロフの街自体が荒廃していった。これはあまり知られていない事実。

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チェスキー・クルムロフ城もだまし絵が描かれている。こんな高いところにどうやって描いたのだろう。


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ロジュンベルク家の15世紀の当主がロジュンベルク家はローマのオルシーニ貴族に起源をもつと考え、オルシーニがラテン語でクマを意味することから、それ以来城内でクマが飼われている。



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今夜のホテルはペンションROZMARYNA。
とっても家庭的で快適。


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歩き疲れていた母と叔母に足裏マッサージ。


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そして、夜はレストラン・バー「99」で、やっぱり黒ビール。



6目に続く。


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by iihanashi-africa | 2013-08-18 18:41 | オーストリア&チェコ | Trackback | Comments(0)
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