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祖母の自叙伝3:満州~父誕生
(前回の記事の続き)
祖母の自叙伝1:誕生~蚕業学校
祖母の自叙伝2:教員時代~青年学校時代


満州へ行く
昭和18年初め、満州に送られた山梨の義勇軍の花嫁さんを募集する計画が持ち上がり、まず県が満州へ視察団を送ることとなり、その団員候補者を各学校から募集した。祖母はその頃、青年学校の先生から、第三回縣下中堅女子青年團錬成講習会へ参加するよう申し付けられ、2~3日の講習を受けていた。修了後、祖母のいた青年学校にも候補者一人選ぶよう県から通知があり、祖母が選ばれた。祖母はそのまま視察団の団員に決定。使節団は全部で15名(男性12名、女性3名)。

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満州視察団。
出発前に県庁前にて。


出発は昭和18年11月で1ヶ月の視察の予定だった。ひどく寒い時期だったことをよく覚えている。甲府から下関まで列車で行き、下関から船で釜山に到着。釜山に向かう船の中からトビウオが飛ぶのが見えたことは今でも鮮明に覚えている。祖母は海に行ったのもその時が初めてで、釜山に到着する前に沈没しないか心配だったという。自分の命というより、視察をする前に使命を果たせずに沈没してしまうのは困るという思いだった。

釜山に到着してすぐ列車に乗り、そこから満州まで列車で長距離移動。当時の朝鮮を横断中、石の上に着物を置いて棒でたたいて洗濯していたのに驚いた。中国に近づくと、列車の窓を閉めるよう言われた。多分、既に日本が劣勢となっており、その様子を見せないようにしたと思われる。鴨緑江の国境付近で、憲兵が密輸を検査しており、服の襟まで裂かれ、おにぎりも中をあけられ、何か隠していないか調べられた。しかし、祖母らは県から派遣された視察団だったため、腕章をつけており、調べられずに済んだ。

満州到着後、まず本部へ挨拶に行き、その後幾つかの義勇軍を訪ねた。その間の移動も列車。なにしろ寒くて、駅で足をすり合わせていた。ある義勇軍を訪ねたとき、もう既にお粥しか食べていなかったらしい。栄養失調になっている人もいた。祖母が帰国後その隊にいた方の家族を尋ねたときは、心配をかけないようひどい生活状況の話はしなかった。宿舎は義勇軍の事務所らしきところ。

日本はその頃配給制だったため、肉やアルコール、砂糖は購入出来なかったが(配給されたもののみ)、満州では肉やアルコールが自由に買えたため、男性はチャンチュウと呼ばれる中国の強いお酒を魔法瓶へ入れて持って帰ってきた。満州での食事は美味しいと言えるものではなく、ご飯を炊いても、ひえの種が入っているような飯を食べていた。祖母は満州で初めて馬車にも乗り、自分で手綱も引いた。

滞在中に原因は分からないが口の中が膿んでしまったが、帰国途中の朝鮮で医者にかかるのは不安だったため、甲府に帰ってくるまで我慢し、帰ってきてから手術してもらった。

帰国後、塩山の義勇軍の方や山梨の方の兵隊さんから頼まれたものを、家族へ届けに行った。

その後、情勢が変わり、結局満州へお嫁を送るという運動はなかったとのこと。

帰国後は青年学校へ戻った。

結婚
昭和19年、学校の先生をしていた祖父の後屋敷の親類(祖父の姉の嫁ぎ先)が、堀之内小学校の校長先生と話をして、祖母のところに縁談の話があった。そこで祖父とお見合いをし、縁談が進んだ。結婚式では堀之内小学校の校長先生が仲人をしてくれた。祖父が27歳、祖母26歳のとき。結婚式は山梨の家の座敷で行った。結婚式の際に着た着物は留袖ではなくて元禄袖の着物。戦争中なので派手な着物は着てはならなかったため元禄袖を着た。祖母の少し前に結婚した女性は、国防色の二部式(もんぺと上着)で結婚式を挙げたそう。

結婚後も、しばらくは青年学校へ通って教えていた。現在のナチ子記念館の場所に堀之内と八幡の青年学校が統合されて新しい建物が建設され、そこに通っていた。しかし、山梨の畑や養蚕を手伝う必要が出てきたため、青年学校をやめて山梨の家で働き始めた。義母は養蚕・糸取りをしており、いい繭は売り、残った繭で機織りをしていた。祖母は糸を通す手伝いをした。

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この頃の祖母。


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祖母と妹と両親。


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結婚後の祖母。


昭和20年7月、甲府の空襲が発生。
その時祖父母は、畑で麦撒きをしていた。甲府の方から黒煙が漂ってくるのが見えたため、リヤカーに少しの食糧を積んで近くの神部神社へ逃げた。なぜ何もない神部神社へ逃げたのかは覚えていない。ただ雨が降ってきたのでその日のうちに家へ戻った。祖母は丁度私の父久高を妊娠したころ。

昭和20年8月15日、終戦。
この時は、家にいた。
興味深いことに、祖母は終戦の日のことはあまりよく覚えていない。満州へ行く途中でトビウオを見たり、華道へ通う夜道が怖かったことや、蚕業学校時代に長距離走で1位になったことは良く覚えているが、終戦の日のことはあまり覚えていないらしい。私のイメージでは、よくテレビでも見るように自宅あるいは外で天皇の演説をラジオで聞いている光景が目に浮かぶ。やはり人それぞれ、思う部分、感じ取る部分が異なるようだ。

そして、昭和21年5月31日、父 久高が誕生した。

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父誕生後、祖母の実家にて。


この後の話については、また次回帰国した時に書くことにする。


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by iihanashi-africa | 2012-05-07 09:41 | 日本 | Trackback | Comments(1)
Commented by katcat2121 at 2015-03-22 11:25
こんにちは! ご無沙汰しています!
自叙伝... 拝見させていただきました
生きることに 懸命だった時代の記録... とても 素晴らしかったです
人生は 誰もが主人公であっても そこに光は照らされることはありません
でも こーして 光をあててもらえて よろこばれていることと、思います
しかも 相変わらず レポート力が 素晴らしいですネ!
素晴らしい命のお話を ありがとうございました!
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