Cine Droit Libre Dakar 2 : ヨーロッパに向かう移民の道中の厳しさを描いた映画
先日書いたCine Droit Libreという映画祭で何本か映画を見たので、シリーズで書いていこうと思う。


『Migrants – Retour d’enfer(移民、地獄からの生還)』

監督:Patrick Fandio
102分、コートジボワール

一時期よりは少し数は減少してきてはいるものの、今日もいまだにヨーロッパというエルドラドを目指して移住を試みる若者は多い。

2014年時点で、世界各国に124万人のコートジボワール移民がいる。国の人口の5.4%である。そのうち60%はフランス、8%がイタリア、8%がイギリスに住んでいる。2017年1月~2月にかけて、イタリアに着いたコートジボワール人の不法移民は800人を超えるという。

コートジボワール政府はこの状況を危惧し、このドキュメンタリー映画の作成を支援することにした。Ministère de l’intégration africaine et des ivoiriens de l’extérieur(より統一した西アフリカを目指し、海外のコートジボワール人が自国に貢献できるような環境を作るためのコートジボワールの省)は、若者が不法移民になるために死と隣り合わせの過酷な道を通ってイタリアに向かうことをなんとか妨げるべく、その啓発活動の映像の作成を決めたのだ。これまでは、ヨーロッパの監督が撮影・編集した映像しかなく、コートジボワール人の監督の視点から撮ってほしいという依頼だったようだ。

映画は、不法に入国しようとして叶わずにコートジボワールに戻ってきた若者の声から始まる。ある若者は「ヨーロッパに住む友人たちが、大きな車を乗り回し、大きな家に住んでいる写真をSNSにアップしているのを見ると、自分も行ってみたくなった」と話す。そしてヨーロッパで路上生活をする若者は、「SNSに格好いい写真を載せている人もいるけど、多くはヨーロッパにいながらみじめな生活をしているのを見られたくないからたまたま撮れたいい写真を載せている」と話していた。

映画では、リビアにいる不法移民仲介業者と接触し、どのようにニジェールに行くべきか、ニジェールに着いたら何をすべきか、いくら必要かなど、会話が流れている。すべて詐欺まがいである。そして、今やカダフィがおらず無秩序状態のリビアの砂漠をトラックで通過する危険を衝撃的な映像とともに見せている。Youtubeで映画を発見した。全て見られるようなので、フランス語が分かる方は是非どうぞ。




上映後の質疑応答で、アフリカの問題はヨーロッパの問題でもあると意見した方がいた。それに対して監督はこう話す。「確かにそういう意見もあるだろう。しかし、私たちアフリカ人は、ヨーロッパに責任を押し付けるのではなく、まずは自分たちの問題として考えなければならない」



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# by iihanashi-africa | 2017-09-26 15:59 | セネガル | Trackback | Comments(0)
Cine Droit Libre Dakar 1:ブルキナ映画「Frontières」
セネガルでは、9月21日~24日まで、Cine Droit Libreという映画祭が行われている。

もともとは文化の国、映画の国ブルキナファソで2004年に始まった映画祭であるが、ここ数年で反響を呼び、コートジボワール、セネガル、マリでも時期をずらして開催されるようになった。セネガルでは今年で4回目らしい。映画祭の名の通り、人権保護を訴えると同時に、映画を通した表現の自由を推進する目的で実施されており、自国で上映禁止になったような映画も上映している。大半がドキュメンタリー映画で説得力があり、とても貴重な映画祭だと思う。

ブルキナファソにいた頃、私はこの映画祭を楽しみにしており、映画祭の週はほぼ毎日のように見に行っていた。当時の記事↓。

セネガルのプログラムを見ると、ブルキナファソに比べて上映数も限られており少し寂しいのだが、それでも面白そうな映画はある。今回のオープニングで上映された映画の一つに「Frontières」というブルキナ映画がある。私はこの映画を飛行機の中で見た。この映画はFESPACOのオープニング映画でもあった。

『Frontières(国境)』

監督:Apolline Traoré(ブルキナファソ)
90分、2017年

西アフリカの経済圏ECOWAS内では人も物もある程度自由に行き来できることになっている。しかし、それが順守されていない現実をコミカルに表現した映画である。映画は、セネガルから出発する長距離バスで出会う4人の女性の話である。セネガルを出発した後、マリ、ブルキナファソ、ベナンを通ってナイジェリアへ到着する。7日間の旅である。

セネガルのある女性組合の代表であるAdjaraはマリの国境で、予防接種のイエローカードを持っていなかったことから賄賂を要求される。マリの女性商人Emmaはパーニュと呼ばれるマリの生地の売買をしているが、記事の数が多いと国境でいちゃもんもつけられるため、どうにか隠して国境を抜けようとする。ブルキナファソの女性は、知らないうちに薬物の運び屋になってしまう。ナイジェリアの女性も、ナイジェリア国境を抜けるための知恵を伝える。全くお互いを知らない4人の女性が偶然にも出会って、最初は仕方なく協力し合う。

トラオレ監督は、映画の撮影の最中も、税関コントロールや警察の検問で困難があったそうだ。特にナイジェリアにおける撮影は困難を極めたと話している。

一方で、現場の税関職員や警官が見合う給与をもらっていない現実も理解しており、この点も解決しなければ問題は改善されないとも話す。

アフリカを知らない方が見ると、まさかこんなことが起こるわけがない、まさに作り話とも思ってしまうかもしれないが、私自身は映画を見ながら「ああ、ありそうだなあ」と同調しながら映画を見た。





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# by iihanashi-africa | 2017-09-23 07:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
サヘルの写真家、大塚さんの訃報
8月25日、写真家の大塚雅貴さんがコンゴ民主共和国で亡くなられました。

8月初めにコンゴ民主共和国の首都キンシャサに入り、コンゴ河上流にむかって移動しながら取材を進めていたようですが、8月25日の夕方、小休止の折、何か気になるものがあって森の中へ少し入ったとき、突然倒れかかってきた折れた木の下敷きになり亡くなられたとのことでした。

私が大塚さんに出会ったのは、NGO緑のサヘルの忘年会。毎年行われる忘年会の中で、私が最も楽しみにしている忘年会で、写真家、民間企業の社員、NGO職員、コンサルタント、大学関係者、学生など様々な業種の方々が一堂に会するので、普段聞けない話が飛び交って本当に楽しいひと時なのです。大塚さんとはこの忘年会で出会いました。大塚さんが個展を開かれた時には、まだ駆け出しのころの大塚さんを知る方々が、とても感慨深く話されていたのを覚えています。

私自身、サヘル地域でかれこれ15年近く働いてきたこともあり、各国に知り合いが多くなってきました。昨年末の忘年会でコンゴ行きを検討していることを大塚さんから聞き、キンシャサで働いている知り合いを紹介したのですが、それ以来、こまめに連絡をいただき、治安の関係上、少し渡航を延期せざるを得ないこと、やっと8月に渡航ができるかもしれないこと、取材許可がなかなか下りずに苦労していること、など、逐次経過について把握できたので、同じように一喜一憂していました。そして、大塚さんのFacebookでコンゴ入りした後の写真が掲載され、ほっとしていたところでした。

訃報は、大塚さんと親しい方がFacebookに記事を載せたことで初めて知りました。

その方も書いていましたが、「大塚さんはこれまでにも取材中に危険な目に遭ったことは何度かありましたが、その都度切り抜けてこられています。コンゴも治安がよいわけではないですが、紛争やテロに巻き込まれたわけでも、強盗に襲われたわけでも、風土病にかかったわけでも、交通事故にあったわけでもなく、まさかとしか思えない事故で命を落とされたことに」、私もショックを受けています。

好奇心の塊のような大塚さんらしい最期ともいえるかもしれませんが、サハラ砂漠のあの美しい写真を時間をかけて撮られる希有な写真家を、こんな早くに失ったのは本当に残念です。

ご冥福をお祈りいたします。

大塚さんのホームページ
「SAHARA」という写真集をぜひご覧ください。壮大なサハラ砂漠とそこに暮らす方々の自然と一体となった生活を感じられます。



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# by iihanashi-africa | 2017-09-18 21:19 | アフリカ全体 | Trackback | Comments(0)
山梨市の名前の由来
今、一時帰国中なので、ショートブレイクで故郷山梨の話題を。

山梨市は人口3万5千人の小さな市。その小さな市が今、全国的に有名になってしまった。市民にとっては大変迷惑な話だが、起訴された市長を選んでしまった市民も少し責任を感じなければならず、今後はしっかりと人物を見極めて投票しないとならない。しかし、個人的に知らない限り、人物評価は難しく、評判を聞いてもそれがデマであることもあり、一般市民が判断するのはなかなか難しいのが現状ではある。

山梨市長選挙

私の父も、この一件で全国ネットデビュー。デビューするには相応しくないテーマではあるが、この件で控えめな父の公正・クリーンな市政運営が公に評価されたのは身内としては少し嬉しくもある。ただ、こんなことで喜んではいられない。

次期市長となる方は、信頼回復が第一の使命。クリーンな政治をするには、まずクリーンにすべき箇所を知る必要がある。おそらく掘り起こせばいくらでも膿が出てくるかもしれないが、クリーンな政治と信頼回復はそれなくしてできない。みんなで仲良くグレーな部分はなあなあにという政治はもう時代遅れ。今度こそ、市民はしっかりと目を光らせておかなければならない。

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さて、前段が長くなったのだが、メインはここから。

先日、父から山梨市の名前の由来を聞いた。以前も聞いたことがあったのだが、「山梨市長の事件で初めて山梨市の存在を知る」というようなツイートが何千回もリツイートされたのを見て、今回しっかりと記録に残しておこうと思った。

以前、父が現職だった頃に山梨学院大学で講演を行ったことがあり、講演の前段でこの話をしたらしい。どこかに原稿があるはずらしいのだが見つからなかったので、父の記憶と山梨県のホームページとwikipediaを頼って書くことにする。少し事実と異なっていたら悪しからず。


8世紀の山梨は甲斐国といい「山梨、八代、巨麻、都留」の4郡からなっていた。山梨郡の郡域は、現在の山梨市の全域、甲州市の大部分、甲府市の一部、笛吹市の一部。いまの笛吹市春日居町や一宮付近に甲斐国分寺や国分尼寺創建されていることからみて、春日居や一宮を含む山梨郡が古代甲斐国の政治的中心地であったと考えられている。戦国時代に甲府に武田氏の守護所が建設され、城下町として整備されるまで、甲斐国の中心は山梨郡であった。

甲斐の国は、明治元(1868)年3月、官軍の甲府城入場後、明治2年に甲斐府を廃し甲府県と改めた。明治4年8月の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月に始まる第1次府県統合により、韮山県と甲府県が統合して山梨県が発足した。一説によると、甲府という名前は江戸幕藩体制を思い浮かべてしまい、江戸幕府と一線を引きたかった新政府としては使わないほうがよいという判断だったらしい。県庁所在地は、山梨郡甲府。山梨郡が甲斐国の中心だったことから県の名前に使われた。

昭和29年(1954)、前年に施行された町村合併促進法、所謂「昭和の大合併」に伴い、山梨県東山梨郡加納岩町、日下部町、山梨村、岩手村、八幡村、日川村、後屋敷村の7つが合併し、山梨市が発足した。

この際に、市の名前を決めるにあたって様々な議論があったらしい。東山梨郡で「町」だったのは加納岩と日下部で、その他は「村」。そのため、一番大きい町の名前を使ったらどうかという意見もあった。しかし、もともとこの地域は山梨郡であり、当時も東山梨郡というまとまりであり、さらにその中に山梨村もあったことから、山梨市という名前で申請することで意見がまとまった。

しかし、山梨市という名前で国に申請したところ、県庁所在地として間違われるという意見があり、許可が下りるまでに少し時間がかかったらしい。最終的には承認がおりている。

その後、平成17年(2005)の平成の大合併のときにも山梨市の名前を存続するか議論になっている。当時の東山梨郡牧丘町と三富村と合併した市になることが決まっていたが、候補に挙がった笛吹市や甲州市は先に別の市が使ってしまっていた。そして、山梨という名前のルーツであるかつての山梨郡が分かる名前が東山梨郡しかなかったが、合併すると使わなくなってしまうため、山梨市がなくなると山梨のルーツが無くなってしまうという意見があり、最終的に山梨という名前にこだわることになった。


山梨県があって山梨市ではなく、山梨郡があって山梨県という歴史があるため、そのルーツを残しておくため、この市名になっている。


山梨県のホームページ
http://www.pref.yamanashi.jp/miryoku/history/index.html


Wikipediaより「山梨市」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%B8%82

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# by iihanashi-africa | 2017-09-07 00:42 | 日本 | Trackback | Comments(0)
ダカールの魚市場:ヨフ市場
前回の記事でジョアルの漁港を載せた時に、そういえばダカールの魚市場の写真も撮っていたことを思い出した。

ヨフYoff地区の海岸沿いはジョアルのように大きな漁港があるわけではないのだが、毎日夕方になると船が戻ってきて、浜辺にこうして魚市場が設置される。ジョアルとは異なり、一世帯分の小さな単位で魚を買え、混雑しておらず、ある程度整然としているため、外国人が一人で行っても問題はない。
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ただし、日本では見たこともない魚が多く、やはり魚に詳しい方と行かないと、どれを買ってよいか分からなくなる。
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夕方にマーケットがたっても続々と船が戻ってくるため、時々浜に揚げる船を通すために売り場をよけてあげなければならない。
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買った魚は、その場でこうして鱗と内臓を取り除いてもらうこともできる。切り身にしてもらうことも可能。


この日は美味しそうなカニがあった。
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ヨーロッパより魚の値段が安い日本と比較しても安いため、私はうきうきしながら魚を選ぶのだが、セネガル人に言わせると、最近はとても値段が高くなったらしい。原因は、漁獲量の減少である。気候の変化で海流が変化したとか、気候が不安定で航海が危険になったとか、様々な原因があるようだが、最も大きな要因は違法漁業の横行らしい。また違法ではないものの大型漁船による漁が増加し、沖で魚をとられる分、遠出できないセネガルの小規模漁民は不利益を被っている。そのため、通常よりも魚の値段を上げざるを得ないが、消費者からは不満があり、小規模漁民はその板挟みで苦しんでいるとのこと。

そういえば以前カヤールKayarという漁村に行った時、似たような話を聞いた。昔は漁業が儲かることが分かった農民が漁業に転業したのだが、今は再度農業に戻る方も増えているらしい。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-31 18:41 | Trackback | Comments(0)
ジョアル漁港と燻製加工
ジョアルは西アフリカでも有数の伝統漁港である。巨大な漁船が停泊できるほどの港ではないが、セネガルにおいて伝統的な木造漁船での漁業が最も盛んな街の一つである。漁船からの水揚げもまさに人海戦術。

午後5時頃に港に行くと、人で溢れている。写真を撮ろうとぼーっと立っていると、魚を運ぶ方々とぶつかってしまう。
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船が到着すると、ビニール製の全身スーツを着た男性陣が大きなプラスチックケースを抱えて水の中に入っていく。
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こうして自分が担当する船を待つ水揚げ人。無造作に無秩序に人々が動いているように見えるが、ここにしっかり秩序がある。


この時間になるとダカールや他の都市からトラックがやってきて、次々と魚が積まれていく。船からトラックに直接運ばれているものもある。
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ジョアルは貝漁も盛んで、こうして貝の身を取り出す方々もいる。
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ジョアル漁港から幹線道路を挟んで反対側には、魚の加工場が広がっている。周辺国へはこうして一旦燻製に加工されてから輸出されることが多い。特にブルキナファソは主要輸出先らしい。この魚の加工場で働く方は大半が女性。毎朝6時に起きて仕事を始める。

この魚の加工場ができたのは90年代のこと。その前まではジョアルの街中にあったが、燻製の際に出る煙が街を覆うようになり、市が加工場の移設を決定した。当時は周囲に住居もない土地に設置されたのだが、人口増加で街が広がり、現在は住居に囲まれた場所にある。私の運転手の出身地もジョアル出身で加工場ができた後に加工場の近くに両親が家を建てた。

ここではドライ加工(Gejjと呼ぶ)燻製(Kecaxと呼ぶ)の2種類の加工を行っている。燻製はまずこうしてみっしりと魚を並べ、下でミレットの茎を20分間燃やす。
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その後Sine-Saloumの塩をふんだんにかけて乾燥させる。
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私の運転手のおばさんも長い間ここで燻製加工を行っているが、ここ数年、咳が止まらず病気がちだという。燻製に携わる女性たちの多くは、肺や呼吸器官の調子が悪いらしい。ジョアルの特産品として有名な燻製加工だが、もうそろそろ彼女たちの仕事環境や健康状態も考慮して改善していかなければならない時期かもしれない。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-30 12:48 | セネガル | Trackback | Comments(0)
貝とキリスト教の島、ジョアル・ファディウート
ダカールから海岸沿いに南へ120キロのところにジョアル・ファディウートJoal-Fadiouthという街がある。貝でできた島で、セネガルには珍しくキリスト教徒が多く、他にはない独特の雰囲気の島なので行く価値があると聞いており、次の旅先はここ!と決めていた。

ジョアル・ファディウートは一つの市であるが、本土の街をジョアルと呼び、本土とは離れた小さな人口の島をファディウートと呼ぶ。街の起源については様々な説があるのだが、11世紀にモロッコのベルベル系のムラービト朝が南方へ拡大してきたことから、それに伴いセネガル川流域にいたセレール族が南方へ追いやられて、この辺りに街を形成したという説がある。また、Guelwar族という現在のギニアビサウに起源をもつ民族がSine Saloum王国へやってきて、ジョアル・ファディウートを築いたという説もある。調べていたら、Guelwar族はマリ帝国の創始者Soundiata Keitaの子孫であるとも言われていることが分かり、この記事を思いただした。
マリ帝国の創始者Soundiata Keitaのアニメ映画

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植民地時代は、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスに次々に支配され、セネガル西部の商業拠点の一つとなっていた。この三角貿易が、キリスト教の浸透に繋がり、17世紀から徐々にキリスト教関係者が定住するようになった。2007年時点で、ジョアル・ファディウートの人口は約4万人。その内4分の3はジョアルに居住している。そしてファディウート島の人口の9割がキリスト教徒と言われている。

ジョアルの街を進み、半島の先端まで進むと、ファディウート島に渡る橋がある。車両は島には入れない。貝でできた島なので、車両が入ったら島自体が崩壊するかもしれない。橋は木製で、橋だけ見ると一瞬あれ?日本?と見間違えるほどに日本風。2005年にファディウートとジョアルは橋で結ばれたが、それまではピローグと呼ばれる小舟で行き来していた。

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橋の袂に観光案内所があり、そこに登録しているガイドが島や墓地を案内してくれる。島への入場料も含め、11,000fcfaだったかな(記憶が不確かだけれど)。

まず船でマングローブの森へ向かう。小舟で10分くらいの森の入り口に、高床式の藁葺き穀物倉庫が並んでいる。ファディウート島ではかつて火事が穀物倉庫まで被害に遭うことが続き、祖先たちが穀物倉庫だけは被害に遭わないよう、島とは別のところに倉庫を設置することを考えたという。

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現在は使われていないので、倉庫の一部は風雨の影響で状態が悪いが、かつての文化を残すために毎年少しずつ修繕されている。

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マングローブの森にはこういう片手だけが大きいカニが沢山見られる。通称バイオリニスト。メスを惹きつける時、あるいはライバルを威嚇する時に、弓を持ったバイオリニストのように見えるから、こう呼ぶらしい。


バイオリニストの動きが面白かったので、動画に撮ってみた。



そこからまた小舟で隣の島へ移動する。墓地の島である。
ファディウート島と同様、貝でできた島。この辺りだけでなく、マングローブの森があるところでは干し貝産業で生計を立てている住民が多かった。ジョアル・ファディウートも例外ではなく、中身を取り除いた貝殻を一か所に捨てていったら、こんな大きな島になったそうだ。何年かかってこんな島になったのだろうか。そして、人々はその貝殻でできた島に住み始めた。それがファディウート島。その隣にも小さ目の貝殻の島があり、ここは墓地専用となっている。ファディウートの住民の9割がキリスト教徒のため、白い十字架が島全体を覆っている。
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しかし、奥の方に行くと一部イスラム教徒のお墓も見られ、キリスト教徒とイスラム教徒のお墓が隣り合っているのが興味深い。
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先祖の魂もこうして貝の中に眠っている。


そこから墓地とファディウート島を結ぶ2つ目の橋を渡る。
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島の中はセネガルでは見られない異国の地のようで、とてものどかで雰囲気がいい。路地を散歩するだけでも楽しい。
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所々にこうした憩いの場があり、男性たちが集まって井戸端会議をしたりする。


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建物の壁にも貝が沢山使われている。


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住民の9割がキリスト教徒というだけあり、あちらこちらにキリスト教関係の建物が見られる。


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そして島の中心に大きな教会。


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尖塔の先にはかわいらしいハートマーク。


セネガル旅行ではとてもお勧めの場所かもしれない。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-22 19:18 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ブルキナファソでまたテロ
8月13日(日)の夜、ブルキナファソの首都ワガドゥグでテロが起きた。今日はバルセロナでもテロがあったため、ブルキナファソの報道は小さくなったが、かつてブルキナファソで働いていた私にとってはこの衝撃は大きかった。またか、、、というため息と同時に肩を落とした。

約1年半前の2016年1月15日の夜、ワガドゥグ中心街のスプレンディッドホテルと道路を挟んで目の前にあるカプチーノというカフェが襲撃にあった。
【アラート】ブルキナファソでもテロ

そして、襲撃にあったカプチーノカフェから200mと離れていないAziz Istanbulカフェが8月13日の夜、襲撃にあった。空港からも100mと離れていないため、一時空港閉鎖になっている。

http://edition.cnn.com/2017/08/13/africa/burkina-faso-attack/index.html

13日の夜9時15分頃、バイクに乗った二人の武装テロリストがAziz Istanbulカフェにやってきてカフェの前に止まっていた車にバイクをぶつけ、バイクから降りると同時に銃を取り出してお客を襲撃しだした。従業員や一部の客は裏口から何とか逃げており、空港の横にある空軍基地に逃げ込んだ人もいたらしい。

9時半には、警察そして憲兵隊の突入部隊(USIGN)が到着し射撃を始めた。この突入特殊部隊は、2016年1月の襲撃の際も活躍したが、この時は仏軍の援護もあった。今回は部隊が軍の援護を受けながらも単独でオペレーションを行った。テロリストは建物内の階段で上層階へ行き、人質を取ったため時間がかかったものの、午前2時頃に一人が射殺され、3時頃にはもう一人も射殺された。

現段階では犯行声明は出ておらず、バックがどの組織なのかは不明。

このテロの犠牲者は18名。
半数がブルキナファソ人で、フランス人、クウェート人、レバノン人、トルコ人、カナダ人も犠牲となった。私自身が直接知っている方はいないが、カナダ人の犠牲者は友人の友人だった。それも結婚したばかり。いろいろ想像すると胸が締め付けられる。

ついさっき、テレビでクウェート人の犠牲者の家族がインタビューを受けていた。
「襲撃した人など知りたくもない。イスラム教徒と言うなどもってのほか。アラーの庇護など受けているはずがない。悪魔でしかない。」
同じイスラム教徒とは絶対に語ってほしくないのだと思う。
このテロで、何人のイスラム教徒が亡くなったのだろう。。。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-18 10:30 | セネガル | Trackback | Comments(0)
サルーム・デルタのマングローブ
セネガルの世界遺産の一つにサルーム・デルタSaloum Deltaがある。

セネガルのサルーム川、ジョンボ川、バンジャラ川およびそれらの支流によって形成された面積50万ha(5000km2)の三角州である。西アフリカ屈指の野鳥の繁殖地になっており、敷地の一部がサルーム・デルタ国立公園やラムサール条約登録地を含む生物圏保護区となっている。それと同時に、数千年にわたって漁撈採集を営んできた人々が作り上げた巨大な貝塚群が独特の文化的景観を形成している地域でもあり、2011年にはそれが評価されてユネスコの世界遺産リストに文化遺産として登録されている。(wikiより)


c0116370_6283158.jpg少し前の話だが、Fimelaフィムラという小さな町に旅行した。Souimanga lodgeというとっても素敵なロッジがあり、ここでゆっくり2泊したのだが、観光シーズンではなかったこともあり観光客も少なく、マングローブの林を見ながら部屋でとれる素敵な朝食とおいしい夕食を楽しみながら、普段の疲れが癒される時間を過ごした。
http://www.souimanga-lodge.com/



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フィムラから南に走るとNdanganeダンガンという街がある。小さな船着き場がありマングローブツアーを行う舟が並んでいる。

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https://cybergeo.revues.org/25671

上の植生図のように、サルーム・デルタは濃淡はあるものの全体にマングローブ林が広がっている。一時は薪として伐採されることが増えて面積が減少したが、現在は保護区となった上に、人工的な植林も行われており、その減少を抑えている。

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マングローブの林の中に唯一たたずむバオバブの木。
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c0116370_6351588.jpgバオバブの木の下をよく見てみると、地面が牡蠣の貝殻でできていることが分かる。この辺りの村は昔から干し貝作りで生計を立てていた人が多かった。マングローブの根にはマングローブガキが大量にへばりついている。また、干潮時の干潟でとれる小さなフネガイの仲間やイェットと呼ばれる大きな巻貝なども採集でき、それらを乾燥させて販売して収入を得ていた。そのため、この辺りは自然にできた貝の山や島があり、こうして貝の上に新たな植生が生まれることもある。


マングローブの根にへばりつく牡蠣。
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c0116370_6395987.jpgちなみにセネガル料理は西アフリカでもブランド化するくらい味わい深いおいしい料理として知られているが、多くの料理にこの干し貝が使われている。特にオクラソースのスープカンジャと呼ばれる料理には、多種の干し貝が入っており、こうしてスープカンジャ用の干し貝セットが販売されているほど。左上が牡蠣、右上が小さく切った大巻貝。



サルーム・デルタは渡り鳥や海鳥も多い。雨期は野鳥の数が少なくなるが、それでもサギやワシ、ペリカン、フラミンゴ等を見ることができた。

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フラミンゴの動画



今度はマングローブの林が更に生い茂るところへ行ってみたい。


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# by iihanashi-africa | 2017-08-14 06:42 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガル最大のバオバブ
Joalジョアルという街から内陸に15キロ行ったところに、セネガル一大きいと言われるバオバブがある。周囲32メートルで推定樹齢850年

私が訪れた日は快晴だったため、カラーで写真を撮ると日影が黒く映ってしまう。唯一綺麗に取れたのが白黒の写真だったので、それを載せることにする。バオバブの根に座ってくつろぐ人々と比べるとその大きさが分かるだろうか。
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バオバブは木の中がスポンジのように柔らかい繊維でできている(珊瑚礁と太いバオバブの旅最終日)。そのため、何百年も経って大きくなったバオバブも木の中は繊維が乾燥して空洞になる。このバオバブも例外ではなく大きな穴があり、木の中にも入れる。入口が非常に狭いため、中に入る時も外に出るときも手伝ってもらわないとならなかったが。



c0116370_7511418.jpgセネガルでは、特に神聖なバオバブは、グリオのお墓となっていた。グリオとは伝統的な伝達者のことで、楽器の演奏し、歴史上の英雄譚や生活上の教訓などをメロディーに乗せて人々に伝える人のことである。このバオバブも、穴の中にグリオが埋葬されていたらしい。ただし、独立後のサンゴール初代大統領が、人々は全員土に埋葬されなければならないとして、これまで穴に葬られていたグリオの遺骨がバオバブから出され、土に埋葬されている。現在、バオバブの空洞の唯一の住民はコウモリ。独特の臭いがあり、あまり長く居られないが、今でもこの空洞のなかで祈祷が行われる。


他にも、セネガル国内のバオバブたちの写真を少しおすそ分け。
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倒れてもなお生きるバオバブ。バオバブは根が深くまで張らないため、嵐などで意外とすぐに倒れてしまう。でも、少しでも根が土に埋まっていれば枯死することはなく、生命力は強い。そういえば、マダガスカルで倒れたバオバブが再び立ったというニュースを聞いたことを思い出した。
え?バオバブが生き返った?
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バオバブと言えば、マダガスカル。この種類の豊富さは世界でここだけ。
バオバブおまけ写真
最大級のバオバブ
バオバブ七変化
珊瑚礁と太いバオバブの旅3日目


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# by iihanashi-africa | 2017-07-25 08:03 | セネガル | Trackback | Comments(0)
サンルイ島の植民地時代の建造物群
植民地時代の歴史的建造物群が世界遺産に登録されているセネガルのサンルイ島。サンルイ市は本土と真ん中の島と更に先のモーリタニアと繋がる半島の3つに分かれる。そのうちムフェデルブ橋で本土と結ばれている真ん中の島が、世界遺産に登録されているサンルイ島(下の地図で青で囲われている島)である。モーリタニアと繋がる半島の漁村は前回の記事でご紹介したので、どうぞご参照を(世界遺産サンルイの裏の顔)。
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サンルイは、1659年に西洋人が西アフリカに作った最初の都市で、モーリタニアと繋がる半島(Langue de Barbarie)から街が出来上がっていったと言われる。セネガル川に沿って、奴隷、皮、みつろう、アラビアゴムなどの輸出で栄えた。1758年に七年戦争中にイギリスがセネガルを占領したが、20年後再びフランスがサンルイを奪還。1872年、サンルイはフランスのコミューンとなったことから植民地政府最初の総督にLouis Faidherbeが任命され、サンルイの発展に大きく貢献した人として評価されている。そして、1895年仏領西アフリカの首都となり、1902年にダカールに首都が移されるまで、中心地として栄えた。

サンルイ島は2000年に世界遺産に登録されたが、これらの歴史的背景と共に、歴史的建造物群が保存に値するとされている。サンルイを訪れたら、馬車に乗って島を一周してみると面白い。ガイドがそれぞれの建造物の特徴を話してくれる。主に、フランス式、ポルトガル式、スペイン式の3つのタイプが残っている。

フランス式の建物は、お馴染みの2階建てバルコニー付きタイプ。
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ポルトガル式の住居は、外観からはよく分からないが、中に入ると中庭がある。
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スペイン式の住居は、こうした庭付きの家。あまり多くはないものの、所々に見られる。
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19世紀のサンルイ島は、島の中心に要塞があり、北部がイスラム教徒、南部がキリスト教徒の地区だった。イスラム教徒地区の北部には、サンルイ島で最も古い黙すがあるのだが、よく見るとミナレットに教会にあるような時計と鐘がついている。通常はモスクにあるはずのないものなのだが、植民地時代に建設された際に、こういう形で設置されたらしい。今は鐘が鳴らないよう板で抑えられている。


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キリスト教徒の地区だった南部には、大聖堂がある。1828年に建設され、西アフリカで最も古い教会と言われる。その2年後の1830年にゴレ島の教会が建設されている。


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1819年、クリュニー修道院のシスターたちがこの建物で女学校を始め、無料の診療所も開始した。当時は、白人と黒人の混血の子どもは歓迎されていなかったようで、生まれてからここに連れてこられることが多く、孤児院の役割も果たしていたそう。その後、この建物は州の納税監督所となっている。


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島の中心にある州政府の建物。かつてはここが砦だった。厚い壁から要塞としての機能が見て取れる。


c0116370_8291642.jpg1880年に、フランス政府がセネガル川沿いの街Kayes(マリ)とニジェール川沿いのバマコ(マリの首都)を繋ぐ鉄道建設を許可し、サンルイに14トン近い貨物を持ち上げられる装置が必要となったことから、1883年にこの蒸気クレーンが設置された。その後1898年に海軍拠点がダカールへ移ってからは、植民地政府が管理することとなる。1954年までの約70年間使われた。ここまで完全な状態で保護されている蒸気クレーンは世界でも稀らしい。


ちなみに、これは後から調べて知ったのだが、蒸気クレーンを建設する際、最初にクレーンの部品を輸送した船メデューズ号は、1816年にモーリタニア沖で座礁した。それを題材にして描かれた絵がテオドール・ジェリコーの「メデューズ号の筏」なのだそう。そういえば昔ルーブル美術館で見たなあ。この背景を知ってから見るとまた印象が変わるのかもな。
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c0116370_8331314.jpg本土とサンルイ島を繋ぐ最初のFaidherbe橋は、1865年に開通した。しかしその30年後、ダカールとサンルイの鉄道が開通してから本土側の交通量が増え、より大きな橋が必要になったことから金属製の橋にとって代わられた。その後何度か改築されているが、最近になって再び改築工事が行われ、2011年に新しい橋が開通。全長約507メートルの橋に7つの区切りがあるが、1つだけ回転式になっており、船が通れるようになっている。下の写真(wikiより)は1890年当時の橋の建設の様子。左側が最初に建設された木造の橋。


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ちなみに橋の名前であるFaidherbeとは、最初にも書いた通り仏領西アフリカの最初の総督の名前である。


Hotel Résidenceの中に飾られていたかつてのサンルイ島の写真。
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c0116370_8362270.jpgサンルイ市はお隣モーリタニアとの国境に位置する。しかし、モーリタニアとセネガルを行き来する車両は、ロッソというもう少し内陸の街を迂回する。舗装道路はこのルートしかない。しかし、サンルイ市のLangue de Barbarie半島も実はモーリタニアと繋がっている。この辺りは砂地と湿地で車両の通行が困難なのだが、それでも陸続きのためモーリタニアへ行くことはできる。サンルイ市を出るところで税関があり、こうして小さな車両でモーリタニアへ向かう。


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これは半島の北側。この木々の7km先にはモーリタニアの村があるらしい。



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# by iihanashi-africa | 2017-07-23 08:38 | セネガル | Trackback | Comments(3)
世界遺産サンルイ島の裏の顔
植民地時代の歴史的建造物群が世界遺産に登録されているセネガルのサンルイ島。世界遺産に登録されている島はフェデルブ橋で本土と結ばれている島だが、実はその先の橋を渡ると、モーリタニアからサンルイまで60kmにわたって伸びる砂州ラング・ド・バルバリー(Langue de Barbarie,「バルバロイの舌」の意)が存在している(wikiより)。ここが、セネガルで最も人口密度が高いと言われる漁村である。世界遺産のサンルイ島とはうって変わり、活気にあふれ、今この瞬間住民全員が外に出ているのではないかと思われるほど、道路や路地は人で埋め尽くされている。

その漁村の様子を写真に収めてみた。

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# by iihanashi-africa | 2017-07-11 08:41 | セネガル | Trackback | Comments(2)
ティジャンヌ宗派の総本山チワワン
セネガルは人口の約9割がイスラム教徒。そのイスラム教徒にも様々な宗派がある。セネガルにも複数存在するが、2大宗派と言われているのが、Tidiane(ティジャンヌ)Mouride(ムーリッド)である。

Tidiane宗派(TidjanyyaあるいはTidjanismeともいう)は、Sidi Ahmed Al Tijaniが創立する。創立の年は分からないが、1737年にアルジェリアで生まれ、1815年にモロッコのフェズで亡くなっているので、その間だと思われる。そして1935年、偉大な宗教家Cheikh Omar Tall(1799-1864)が、このTidiane宗派をセネガルに伝えた。その後、El Hadji Malick Sy(1855-1922)が、1902年にチワワンTivaouaneという街を総本山とし、20世紀前半にセネガル全土に浸透することとなった。もう一つの宗派Mourideはセネガル独自の宗派であるが、創立はTidianeよりも後の1880年頃と言われている。

Tidiane宗派カリフの逝去

先日、その総本山のチワワンに行ってきた。

チワワンの最も大きいモスク。
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隣には女性用のお祈りの場所がある。
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モスクの裏手には大きな会議場があり、大規模な宗教行事や要人の面会等に使われるそう。
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モスクの前には、コーランの教えを説くマラブMaraboutの教えを聞くスペースもある。マラブの説明はこちらをどうぞ(https://en.wikipedia.org/wiki/Marabout)。
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今回は、友人のアレンジでティジャンヌ派の二人のマラブに面会することができた。セネガルには多くのマラブがおり、その評価も様々である。集めた資金で私腹を肥やすマラブもいれば、貧しい方々のために資金を使うマラブもいる。今回会った一人は後者のマラブで、大きな家を建設し、四駆を買って乗り回すマラブがいる中で、とても質素な生活をし、病院や学校の支援を行っており、周囲から信頼されとても尊敬されているらしい。お話をさせていただいて、その人柄がすぐにわかる方だった。


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かつてTidiane最高位のKhalife Généralであった方の家。



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コーラン学校。



チワワンでは何年も前から新しいモスクを建設しているのだが、なかなか完成しない。とりあえず二つの尖塔のうち一つは出来上がっているが、現在予算がなくなり工事が中断中。友人によるともうそろそろ工事が再開するそうだが、あと何年後に完成するのだろう。
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# by iihanashi-africa | 2017-07-10 04:45 | セネガル | Trackback | Comments(0)
セネガルにおける今年のラマダン明けの日付の決め方
今日、セネガル政府は次の日曜日25日にラマダンが終わり、翌26日がラマダン明けの祭り「Aid El Fitr イード・アル・フィトル」のお祭り通称Koritéコリテで祝日となると発表した。

ラマダン明けに限らず、イスラム歴は月の満ち欠けに依存しているので、ラマダンの開始も終わりも、犠牲祭の日も全て月の状態を確認したうえで決まる。

今年のラマダンは、セネガルでは5月27日に始まった。この時ももちろん裸眼で目視した時の新月が目印。
ラマダン前日の月

そしてラマダンの終わりも細い三日月の所謂イスラムの新月が目印なのだが、少し面白い記事を見つけた。

http://homeviewsenegal.com/index.php/2017/06/22/korite-2017-ce-sera-le/


セネガルには、ASPA(Assoiation Sénégalaise pour la Promotion de l’Astronomie)という天文学者の集まりがある。そのASPAによると、太陽と地球の間に月が現れる時、つまり月と太陽の黄経が等しくなる時のことだが、今年は6月24日(土)の午前2時31分52秒だという。この瞬間が月が地球を一周し終わる時で、ここからまた新たな一周が始まる。だから、この翌日である25日(日)がラマダン明けの祭りになるのかと思いきや、さらに一日待たなければならないらしい。というのも、「裸眼の目視」で新月(三日月)を確認する必要があるから。

天文学者によると、24日(土)の月は照らされる面積が0.88%のため、セネガルを含むアフリカ、ヨーロッパ、アジアでは裸眼で確認することは難しいという。コーランでは裸眼での確認を課してはいない。しかし、多くのイスラム圏では裸眼での目視を絶対としている。そのため、セネガル政府も天文学者の意見を重視して、万一日曜日に曇りで見えないとしても晴れていれば必ず見えるはずと判断して、祝日を前もって決めている。天文学者によると、25日(日)には照らされる面積が4.42%になり、裸眼での目視が可能だという。この時、月齢1.17日になっているらしい(←この月齢が意味するところがよくわからないのだが)。

こんな詳細な説明、初めて読んだ。

ちなみに、各国で決定の仕方は様々で、例えばトルコでは新月の高さが5°、太陽との角度が8°になる時で決まり、エジプトでは新月が日没後少なくとも5分後に沈んだら新たな月が始まるらしい。

イスラム暦、奥が深くて今日深い。

以前書いた犠牲祭の日付の決め方の記事
タバスキ(犠牲祭)の日付の決め方


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# by iihanashi-africa | 2017-06-23 08:49 | セネガル | Trackback | Comments(0)
ファタラ保護区のライオンウォーク
少し前の話だがガンビアの国境に近いファタラ保護区(Réserve de Fathala)へ行ってきた。

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約6000ヘクタールに広がり、そのうち2000ヘクタールが囲われており、動物が保護されている。オーナーは南アフリカ人で、彼らにより人工的に設置された保護区のため、多くの動物は国外やセネガル国内の他の保護区(ニョコロコバ保護区)から連れてこられている。2003年にオープンした当時はまだ動物が少なかったが、現在ではキリン8頭、サイ1頭、その他バッファロー、シマウマ、アンテロープ、ジャイアントイランド、イボイノシシ、サルが多数見られる。アンテロープはかなり増えていて、昨年300頭確認したそうだ。ゾウも連れてきたいと考えているそうだが、セネガル政府が象牙目当ての密猟を警戒し、許可を出さないらし。

そして、この保護区の一番の売りが「ライオンウォーク」である。ヨーロッパの動物園で子育てを放棄したライオンの子どもを引き取り、生後3か月でファタラ保護区へ連れてこられた。その頃からしつけされ、人間と一緒におとなしく歩くことができるようになっている。

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ダカールからファタラ保護区までは約4時間半。途中のカオラックで昼食をとることにし、Le Braceroというレストランに立ち寄った。


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そこで食べた牛肉の串焼き。
これがこの旅で食べた食事の中で最もおいしかった。コストパフォーマンスが素晴らしい。


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ファタラに到着。
保護区内にホテルがある。これがとても素敵なホテル。
http://www.fathala.com/



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部屋はテントなのだが、中に入るとテントとは思えない設備。


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夜中は外でイボイノシシが草をかじっている音が聞こえ、朝は鳥のさえずりで起きた。まさに保護区内にいることを感じられるホテル。


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保護区到着直後の夕方にサファリへ。


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保護区内にこのような網がかけられているのを見かける。これはハエ取りの網だそう。この辺りは雨期になるとアフリカ睡眠病を媒介するツェツェバエが多く発生し、動物が被害を受けるため、事前にこのような処置をしているとのこと。



サファリでは唯一サイだけが見られなかったのだが、ガイドさんが19時頃にホテルの前にやってくるかもしれないというので、夕食をとりながら待っていると。きた!!!すぐそこに。
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翌朝8時にライオンウォークへ。
こうして、ライオンの後ろを歩く。皆、棒を持たされるのだが、小さい時から棒を持った人に服従するよう育てられていたため、我々も持たされた。ただ、棒を落として拾おうとかがむと危険なので、落とした場合は自分で拾わないようにと脅された。


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「ふぅ、観光客相手は疲れるぜ」という顔。
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もうやる気ないライオン。ライオンの威厳なし。でもかわいい。こんなに疲れた~という態度を見せていたのに、私たちとの「人間ウォーク」という仕事を終えた後、やっと終わった~と嬉しそうに駆け回っていた笑。
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全体的に少しお高めだけど、ご関心のある方はぜひ。


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# by iihanashi-africa | 2017-06-10 10:18 | セネガル | Trackback | Comments(0)
初代大統領サンゴール博物館
先日、セネガルの初代大統領レオポール・セダール・サンゴール博物館(Musée Léopold Sédar Senghor)へ行ってきた。

あまり知られていないのだが、サンゴール元大統領が大統領の座を退いた翌年の1981年から亡くなるまでの間、セネガルでの家(フランスにも家があるため行き来していた)として使われていた場所が、現在サンゴール博物館となっている。2001年にサンゴール元大統領が逝去されてすぐ、ワッド大統領の時期に政府が家を買い上げたのだが、何もされずに放っておかれ、現在のサール大統領に代わってから博物館に修繕することが決まった。そして、2014年11月30日に除幕式が行われている。

この博物館、ダカールのコルニッシュ・ウエストと呼ばれる海岸沿いの大通りに面したところに位置し、曲がり角には大きな看板も掲げられているのだが、これが意外と気付かない。私も頻繁に通っているところだったのに、博物館を探し出してからやっと目に付くようになった。

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これは博物館入口の小さな看板。
月曜から土曜の、10時~12時、15時~17時が開館時間。


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大人:2000fcfa(約400円)
学生:1000fcfa
子ども:500fcfa。



サンゴール元大統領は、この家を『Les dents de la mer(海の牙)』と呼んでいた。尖峰のような壁がスティーブン・スピルバーグ監督のジョーズの歯を思い浮かべるからだ。映画ジョーズは仏語タイトルで「Les dents de la mer」という。壁はセネガルには珍しく土壁で、マリのトンブクトゥやジェンネの建築様式を模している。裏庭には丸いプールもある。

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庭のバオバブ。


博物館の中は撮影禁止なので写真がないのだが、サンゴール元大統領の執務室、来訪者の待合室、応接室、寝室、居間などが、当時のままの様子で残っている。しかし、何より興味深かったのは、3人の息子の写真とそのストーリーを聞けたこと。そして23歳の若さで亡くなったフィリップの写真が家中に飾られていて、サンゴール夫妻の悲しみが半世紀たった今も伝わってきたことだ。

このサイトに2階のプライベート執務室の写真が掲載されている。
http://www.au-senegal.com/la-maison-de-senghor-est-devenue-musee,10713.html?lang=fr



サンゴール大統領は、1946年にガイアナ出身の女性と結婚し、2人の息子をもうけている。しかし、その後離婚し、1956年にノルマンディー出身のフランス人Colette Hubertと結婚している。この女性と生涯を共にすることになる。Coletteとの間にもフィリップという息子をもうけるが、1981年に交通事故で23歳という若さで亡くなってしまう。そして、その2年後には、一人目の女性との間の次男も35歳の若さで失うという不幸に見舞われた。

博物館になっているこの家は、フィリップも事故で亡くなるまでのわずかな時間を過ごしてあり、彼の寝室も当時のまますべて残されている。

サンゴール元大統領は、1993年以降心臓にペースメーカーをつけており、飛行機に乗ることができなくなった。93年までは、セネガルで3か月、フランスで残りの時間を過ごすというような生活を過ごしていたが、93年以降はパリでしばらく過ごし、その後亡くなるまで奥様の故郷ノルマンディーで過ごされている。現在も奥様はノルマンディーでご健在で、2014年の博物館除幕式に招待されたが、やはり90代で病気がちのため、セネガルに来られるのは諦めたそう。


この博物館は、ガイドがいる。というより、ガイド付きでないと勝手に家の中を見学できない。そのため、私たちも博物館に到着してから、前のグループの見学が終わるまで入口の外で待たされた。しかし、このガイドの説明が素晴らしい。サンゴール大統領の何から何まで知っており、質問しても何の迷いもなくすぐに答えが返ってくる。どんな方なのかと思いきや、もともと憲兵隊で、1973年から大統領の警護をしていた方だった。大統領の海外訪問の際も同行し、合計16か国へ行っている。亡くなったフィリップも小さいころから知っており、亡くなられた際は、奥様からフィリップの大事な形見をもらったそう。サンゴール元大統領がフランスに滞在されているときは、この方が鍵を預かっていた。


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博物館から大通りを渡った海岸沿いに、このような椅子に座った男性の銅像が立っている。これは博物館の修繕を行った建築会社Eiffage社が、詩人Amadou Lamine Sallと彫刻家El Hadji Mboupの協力を得て、2015年に建てたものである。もちろんサンゴール元大統領の銅像。


実は、元大統領が自分の家を眺めているかのように設置されている。
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とても興味深い博物館なので、サンゴール元大統領に関心があり仏語が分かる方は、ぜひ一度訪問を。


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# by iihanashi-africa | 2017-06-07 08:29 | セネガル | Trackback | Comments(0)