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前回の続き。
ムルンダバ旅行:1日目 7月23日 朝7時に朝食をとり、7時半から隣のベタニア半島の漁村へ行くことにした。 ![]() 船着き場で見た木舟に母が驚き、 「えっ、これに乗るの?」 そうです。乗るのです。大丈夫沈まないから。 ![]() 村の人々は朝木舟タクシーに乗り街へ向かう。 ![]() マングローブの林を抜け、対岸へ到着。 しばし、漁村を探索。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 村の男性陣は漁に出てしまっており、村は閑散としている。 女性は洗濯。 顔に塗っているのは木の樹皮から作った日焼け止め。 ![]() ![]() 散策を終えて一旦ホテルへ戻った。 昨日は夜に到着したため、ホテル内は良く見えなかったが、実はこんなに素敵なホテルだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 一休みして、街中を少しだけ散策。 まずは風邪気味だったので、薬局へ行って解熱剤を購入。 薬局の向かいのお店でこんなものを発見。 ![]() ![]() ![]() ムルンダバの道は本当にひどい。 道路は穴だらけで、未舗装の側道を走った方が早い。 ![]() ただ、ムルンダバの道は1年で大きく様変わり。 こんなに走りやすい道路になった。 マンギリMangilyという漁村にいった。 本来ならここでも木舟に乗せてもらえる予定だったが、残念ながら連絡が上手くいっておらず乗られなかった。 実は1年後の2011年7月にもこの村に行ったのだが、この時は前日に村に牛泥棒がやってきて牛を根こそぎ盗まれ、木舟を漕いでくれる村の男性は牛を探しに出かけてしまい、またもや木舟に乗られなかった... ![]() ![]() ![]() マンギリ村に行く途中に、「愛し合うバオバブ」がある。 Baobab amoureuxという名で有名。 ![]() ![]() 夜はCamaron(伊勢エビより少し小さめのエビ)を食す。 やはり上手い。 丸ごとグリルなどという贅沢な食し方は日本ではなかなか出来ない。 ![]() この1年後、従弟と旅行した際は、Languste(伊勢えび?)を食べた。 この日はとてもゆっくりした1日。 風邪気味だったので少し疲れがとれたかも。 翌日アンタナナリボへと帰路についた。 にほんブログ村 2010年7月、母と妹がマダガスカルへ来て一緒に国内旅行をした。前半は南のFort Dauphinフォール・ドーファンへ2泊3日のキツネザルの旅、後半は西のMorondavaムルンダバへ2泊3日のバオバブの旅と、飛行機便キャンセルのリスクの高い強行スケジュールをこなした。
前半の旅行は以下の記事を参照。 1日目:中央高地の南部の違い 2日目:ワオキツネザルの日光浴とシファカの横っ飛び ![]() 2010年7月22日 朝5時に起きて空港へ向かった。前日に出発が30分早まったと連絡があったのに、結局出発したのは元の時間通り。折角早く起きたのに... でもFort Dauphineの旅行に続き、大きな遅れもキャンセルもなく、無事に出られたのは運が良い。ハイシーズンだったのが良かったのか。 ![]() アンタナナリボ空港で愛らしい女の子となんとか身振りで会話をしてみる妹。 ![]() 乗った飛行機は、小さなプロペラ機。 機体が小さいと揺れが大きく、また速度も遅い。それに酔う。 私は酔い止めを飲んで万全の態勢。 ![]() 飛行機の中は狭い。 おそらく20人乗り。 ![]() かがまないと頭をぶつけてしまう。 ![]() コックピットもよ~く見える。 出発前はパイロットが後ろを向いて、安全用具や飛行時間の説明をしてくれる。 「この飛行機はアンタナナリボを出て、まずBelo sur Tsiribianaに立ち寄り、Morondavaへ到着するのは、○時○分です。」 えっ?航空券上は、首都からムルンダバまで直行のはずだが。まあ朝早くムルンダバに到着しすぎても時間を持て余してしまいそうなので、これでもよいか。 ![]() そういえば余談だが、タンザニアに出張した際はもう少し小さなプロペラ機に乗った。 ![]() マダガスカル島の大半はこんな風景。 森林はもう限られたところにしかない。 ![]() 西海岸に近くなると、このようなくねくねとした川が無数に流れているのが見える。どことなくアマゾンみたい?まあアマゾンよりも緑も水も少ないけれど。 ![]() 途中のBelo sur Tsiribianaに到着。 子どもたちがまだ動いている飛行機のこんな近くまで近寄ってきている。 ムルンダバに到着したのは朝7時半。 レンタカーの運転手さんが待っていてくれた。 そこから直接キリンディ国立公園へ直行。 ![]() ムルンダバからキリンディ国立公園までは約2時間。 途中、ちらほらとバオバブが見え始め、30分ほど走ると、かの有名なバオバブの並木道を通り過ぎる。車から降りて歩いて通り過ぎてみる。バオバブの実も買って試食。 バオバブの実の記事はこちら→ペプシバオバブ ![]() 途中の風景。 ![]() あらユニークな髪形。 ![]() お昼前にキリンディ国立公園に到着。 到着直後、従業員の一人が急いで私たちの近くへ寄ってきた。こっちへ来いと手招きして見せてくれたのが、「フォッサ」。キリンディに来ても毎回見られる動物ではなく、すぐに移動してしまうため、これを逃してはならないと急いで見せてくれたのだと思う。私自身、2回目のキリンディでようやく出会えて興奮した。 フォッサの詳しい記事はこちら→フォッサという動物 ![]() ![]() ![]() 公園内探索前に、お昼休憩。 朝も早かったし前日までの疲れも溜まっており、昼食を待っている間、母も私もダウン。 私はこんな時に、風邪をひき始めてしまった。 ![]() 昼食後、2時間程度のコースを探索。 まずは夜行性のキツネザルを発見。目を大きく見開いて私たちを見ているようだが、実は何も見えていない。これで寝ているらしい。音には敏感で、手をぱんとたたくとびくっとする。 ![]() 南部のフォール・ドーファンとは異なり、バオバブ以外の大木は見当たらない。 ![]() チャイロキツネザル発見。 ![]() シファカも発見。 ここでは横っ飛びは見られなかったけれど、フォール・ドーファンで存分に見られたからよしとするか。 ![]() 国立公園の中のバオバブ。 瓶の形をしている。 午後3時頃、キリンディ国立公園を出発。 バオバブ並木道で夕日を見られる時刻に到着するようお願いした。 この時のバオバブ写真はすでにアップしてあるので、別の記事でご堪能くださいまし。 バオバブ七変化 ![]() バオバブ並木道でハンモックにぶら下がる人たちを発見。 気持ちよさそう。 夕方暗くなった頃にホテル到着。 母と妹と折角の旅行なので、ムルンダバで最高級のホテル・パリサンドラHotel Palissandreを予約した。最高級と言っても、3人部屋で1万5千円くらい。リゾートにしては安い。でも、これは交渉して少し安くしてもらった価格。 ![]() ![]() この日は簡単に夕食をとって寝た。 (翌日へ続く) にほんブログ村
今羽田空港です。
日付変わって明日5月8日の0時40分の便でパリに向けて出発します。 ブルキナファソは2回目。 最後に行ったのは2008年なので、あれから約4年。首都ワガドゥグは拡大を続け、舗装道路も広がっているらしい。変化を見られるのは楽しみです。 ただ、今は丁度一番暑い時期。日中45度くらい。 マダガスカルの快適な気候に体が慣れてしまっているため、ワガドゥグの暑さに慣れるまでにはしばらくかかるかもしれない。 今度は、ブルキナファソからの中継をお楽しみください。 その前に、アップし忘れたマダガスカルのバオバブ旅行記を掲載します。 にほんブログ村 (前回の記事の続き)
祖母の自叙伝1:誕生~蚕業学校 祖母の自叙伝2:教員時代~青年学校時代 満州へ行く 昭和18年初め、満州に送られた山梨の義勇軍の花嫁さんを募集する計画が持ち上がり、まず県が満州へ視察団を送ることとなり、その団員候補者を各学校から募集した。祖母はその頃、青年学校の先生から、第三回縣下中堅女子青年團錬成講習会へ参加するよう申し付けられ、2~3日の講習を受けていた。修了後、祖母のいた青年学校にも候補者一人選ぶよう県から通知があり、祖母が選ばれた。祖母はそのまま視察団の団員に決定。使節団は全部で15名(男性12名、女性3名)。 ![]() 満州視察団。 出発前に県庁前にて。 出発は昭和18年11月で1ヶ月の視察の予定だった。ひどく寒い時期だったことをよく覚えている。甲府から下関まで列車で行き、下関から船で釜山に到着。釜山に向かう船の中からトビウオが飛ぶのが見えたことは今でも鮮明に覚えている。祖母は海に行ったのもその時が初めてで、釜山に到着する前に沈没しないか心配だったという。自分の命というより、視察をする前に使命を果たせずに沈没してしまうのは困るという思いだった。 釜山に到着してすぐ列車に乗り、そこから満州まで列車で長距離移動。当時の朝鮮を横断中、石の上に着物を置いて棒でたたいて洗濯していたのに驚いた。中国に近づくと、列車の窓を閉めるよう言われた。多分、既に日本が劣勢となっており、その様子を見せないようにしたと思われる。鴨緑江の国境付近で、憲兵が密輸を検査しており、服の襟まで裂かれ、おにぎりも中をあけられ、何か隠していないか調べられた。しかし、祖母らは県から派遣された視察団だったため、腕章をつけており、調べられずに済んだ。 満州到着後、まず本部へ挨拶に行き、その後幾つかの義勇軍を訪ねた。その間の移動も列車。なにしろ寒くて、駅で足をすり合わせていた。ある義勇軍を訪ねたとき、もう既にお粥しか食べていなかったらしい。栄養失調になっている人もいた。祖母が帰国後その隊にいた方の家族を尋ねたときは、心配をかけないようひどい生活状況の話はしなかった。宿舎は義勇軍の事務所らしきところ。 日本はその頃配給制だったため、肉やアルコール、砂糖は購入出来なかったが(配給されたもののみ)、満州では肉やアルコールが自由に買えたため、男性はチャンチュウと呼ばれる中国の強いお酒を魔法瓶へ入れて持って帰ってきた。満州での食事は美味しいと言えるものではなく、ご飯を炊いても、ひえの種が入っているような飯を食べていた。祖母は満州で初めて馬車にも乗り、自分で手綱も引いた。 滞在中に原因は分からないが口の中が膿んでしまったが、帰国途中の朝鮮で医者にかかるのは不安だったため、甲府に帰ってくるまで我慢し、帰ってきてから手術してもらった。 帰国後、塩山の義勇軍の方や山梨の方の兵隊さんから頼まれたものを、家族へ届けに行った。 その後、情勢が変わり、結局満州へお嫁を送るという運動はなかったとのこと。 帰国後は青年学校へ戻った。 結婚 昭和19年、学校の先生をしていた祖父の後屋敷の親類(祖父の姉の嫁ぎ先)が、堀之内小学校の校長先生と話をして、祖母のところに縁談の話があった。そこで祖父とお見合いをし、縁談が進んだ。結婚式では堀之内小学校の校長先生が仲人をしてくれた。祖父が27歳、祖母26歳のとき。結婚式は山梨の家の座敷で行った。結婚式の際に着た着物は留袖ではなくて元禄袖の着物。戦争中なので派手な着物は着てはならなかったため元禄袖を着た。祖母の少し前に結婚した女性は、国防色の二部式(もんぺと上着)で結婚式を挙げたそう。 結婚後も、しばらくは青年学校へ通って教えていた。現在のナチ子記念館の場所に堀之内と八幡の青年学校が統合されて新しい建物が建設され、そこに通っていた。しかし、山梨の畑や養蚕を手伝う必要が出てきたため、青年学校をやめて山梨の家で働き始めた。義母は養蚕・糸取りをしており、いい繭は売り、残った繭で機織りをしていた。祖母は糸を通す手伝いをした。 ![]() この頃の祖母。 ![]() 祖母と妹と両親。 ![]() 結婚後の祖母。 昭和20年7月、甲府の空襲が発生。 その時祖父母は、畑で麦撒きをしていた。甲府の方から黒煙が漂ってくるのが見えたため、リヤカーに少しの食糧を積んで近くの神部神社へ逃げた。なぜ何もない神部神社へ逃げたのかは覚えていない。ただ雨が降ってきたのでその日のうちに家へ戻った。祖母は丁度私の父久高を妊娠したころ。 昭和20年8月15日、終戦。 この時は、家にいた。 興味深いことに、祖母は終戦の日のことはあまりよく覚えていない。満州へ行く途中でトビウオを見たり、華道へ通う夜道が怖かったことや、蚕業学校時代に長距離走で1位になったことは良く覚えているが、終戦の日のことはあまり覚えていないらしい。私のイメージでは、よくテレビでも見るように自宅あるいは外で天皇の演説をラジオで聞いている光景が目に浮かぶ。やはり人それぞれ、思う部分、感じ取る部分が異なるようだ。 そして、昭和21年5月31日、父竹越久高が誕生した。 ![]() 父誕生後、深澤家にて。 この後の話については、また次回帰国した時に書くことにする。 にほんブログ村 (前回の記事祖母の自叙伝1:誕生~蚕業学校の続き)
堀之内小学校切差分校教員時代 蚕業学校卒業後、同校で2年間裁縫を習得し、昭和12年、堀之内小学校の切差(きっさつ)分校の2名の教員の一人が出征したため、当時堀之内小学校に勤めていた奥山先生に声をかけてもらい、代用教員として切差分校の1、2、3年生を教えることとなった。もう一人の男性教員が4、5、6年を担当した。この先生は年配の方だったため徴兵されなかった。1人の教師が3学年を担当していたため、常に2クラスは自習だった。祖母は、師範学校を出ていないため教員の資格はなく、最初はオルガンも弾けず放課後に居残って練習した。 当時教員が不足しており、その頃代用教員のポストは沢山あったようだ。平成18年堀之内小学校廃校の際の記念誌に、それを物語る箇所がある。明治6年の創立以来の教員リストが掲載されているのだが、昭和16年~20年までぽっかり抜けている。その前後には毎年7から8名の教員の名前があるのだが、この間だけは教員が1名しかいなかったように見える。それだけ正式採用の教員が少なく、代用教員が多かったのだと想像できる。 ![]() 昭和17年 堀之内小学校切差分校 祖母は先生をする傍ら、夜は華道を習っていた。一人で夜道を歩くのは怖かったため、同じく代用教員だった池田先生と一緒に通っていた。この辺りの祖母の記憶は薄く、正確な時期が分からない。ただ、点と点を無理やり結ぶと、かなり長い間華道を習っていたことになる。昭和18年に満州へ行くことになり、少し早く華道の資格をくれたらしい。 青年学校先生時代 2年間の終わり頃には少しずつ仕事が入るようになり、裁縫を教える機会があった。2年間の裁縫習得の後、江曽原の現在のナチ子記念館の場所にあった青年学校(男性は軍事教練、女性は勉強)で裁縫を教えて欲しいと声をかけられた。そしてまもなく裁縫の先生として雇用された。しかし、暖かい時期は農作業や養蚕が忙しく登校できない生徒が多かったため、裁縫は冬にのみ開講する季節授業であった。その他の時期は青年団の実習(近所の農家の田植えの手伝い、等)に同行していた。青年団とは言うものの男性より女性の方が多く、青年団の女性から募集した挺身隊が、溝の口の軍事品(飛行機の部品等)製造工場へ派遣された際には、祖母が引率し、数ヶ月程共に仕事をした。 ![]() 青年団 ![]() 青年団 この頃、昭和18年。徐々に戦争が激しくなってきた。 ***************************************************** 祖母の自叙伝ではないが、この頃の様子をうかがわせる文章。 「百年のあゆみ」抜粋 「日本は、昭和6年、満州事変で国際連盟を脱退し、昭和12年の日華事変後は、教育の面でも次第に戦時色が濃厚となり、昭和16年末に太平洋戦争となってからは、急速に戦時教育が強調されました。昭和14年には青年学校の義務制が実施され、昭和16年には小学校令を改めて「国民学校」とし、堀之内国民学校となり皇国民錬成の目的に添った教育内容になりました。昭和18年には教育の「戦時非常設置要領」が策定され、昭和19年には「決選非常措置要綱」に基づく教育の非常措置が決定。昭和20年5月には「戦時教育令」が公布されて、平常の教育活動はほとんど停止の状態となりました。 [・・・] 戦争が一層激しくなりますと、勤労も学習の一部であるとして勤労動員がしきりに行われ、桑の皮の繊維などを学習そっちのけで集めて出荷するなど、物資の欠乏が日一日と進行していきました。また、この頃の学校日誌には、毎日のように出征兵士の見送り、英霊の出迎え、村葬への参列、必勝祈願のための神社参拝などの記事があふれています。このように児童達は十分な学習も出来ず、ノートや鉛筆も思うように手に入らず、教科書も上級生のお古を使うといった具合でした。 昭和19年度以降、戦局が悪化すると、中学校以上の生徒には学習を捨てて、(いや捨てさせられて)工場や戦場へと学徒動員が容赦なく行われ、小学校児童は空襲に備えての避難訓練や、都会の児童達は学童疎開させられ、親と子は無理矢理に離されて、田舎で集団生活をするという事態にまでなりました。 こうして、昭和20年8月15日の戦争終結まで、いたいけな学童までをも巻き込んだ、軍部独裁の教育がすすめられました。」 ![]() 昭和18年 義勇軍に出発する若者の壮行会 ![]() 大日本国防婦人会 *************************************** (続く) にほんブログ村 私の祖母、竹越(旧姓深澤)ひろ子おばあちゃんは、現在93歳。腰は曲がっているものの、まだ歩いて買い物にも行け、何より私より物覚えが良い。記憶が薄れないうちに昔の話を聞いておこうと、この2ヶ月の日本滞在中に若いころの話を聞いた。
ただ、やはり記憶が鮮明な部分とそうでない部分があり、なかなか時間軸上の点と点が繋がらない。もしかしたら、前後している部分もあるかもしれないが、私なりに話をまとめてみた。それでもここまで覚えているのはすごい。 山梨市の方でないと土地の名前が分からないかもしれないが悪しからず。分かりやすいように簡単な位置関係をGoogle Earthで見ていただきたい。 ![]() 誕生 大正8年8月1日、山梨市八幡の水口にて、父深澤孫次郎と母ふでの長女として誕生した。兄忠雄(5歳上)と妹久子(5歳下)の3人兄弟。深澤家は、水口の大半の家と同様、養蚕と米で生計を立てていたが、水田を貸しており、地主として多少の小作米収入もあった。 ![]() 深澤家実家 堀之内尋常小学校時代 大正14年、祖母6歳の頃、学区内の堀之内尋常小学校に入学した。平成18年に堀之内小学校は廃校となり、最後の卒業生は4名だったが、祖母の時代は1学年一クラス71人。全校児童は400人もいた。なにしろ教室に入りきらずに廊下にまで児童が溢れていたことを、今でも覚えているらしい。 成績も優秀で、毎年度末に成績優秀者数名には優等賞や上賞が与えられており、祖母は毎年優等賞をもらっていた。運動神経も良く、足は速く、ドッヂボールも得意だったが、唯一図画は苦手だった。 当時、小学校の6年間を終えたら、女子は糸取りのため長野県の工場(戦時中は軍事工場になった)まで出稼ぎに送られることが多かった。毎年卒業の時期になると、工場から従業員の募集にやってくる。従業員は一年働くと工場で織られた反物を褒美としてもらえ、その度に休暇をもらって帰郷していた。祖母は、当時反物を持って帰ってくる女子を見て、とても羨ましかった。 しかし、祖母は可能であれば勉強を続けたいと希望しており、学業を続けるにはそれなりにお金がかかるものの、祖母の祖父が、小作米収入もあるためお金を出してやるから学業を続けるよう言ってくれ、石和の蚕業(さんぎょう)学校を受験することが出来た。その頃、男子でも就職する人が多く、ましてや女子で学業を続けた人は片手で数えるほどしかいなかった。 当時、尋常小学校6年間、高等小学校2年間の時代であったが、高等小学校は義務教育ではないため、学区内の日川高校や塩山高校で学業を続けたい人は、6年の尋常小学校修了後すぐに入学でき、また蚕業学校も6年修了後には受験資格があった。但し、蚕業学校を受験する男子は2年の高等小学校を修了しないと受験資格がなかった。当時は、高校へ入学する女子はおらず、入学できないわけではなかったが、祖母の同級生で高校に進む女子はいなかった。 蚕業学校時代 こうして昭和7年に山梨県で唯一の蚕業学校に入学。3年間の教育を受けた。蚕業学校には、男子部と女子部が併設されていた。男子は主に養蚕を学び、女子は養蚕に加え、製糸や真綿作りを習得した。卒業生は養蚕教師や蚕業取締りに就職する人が多かった。一学年一クラス50人程度。 ![]() 蚕業学校男子部校舎 (卒業アルバムより) ![]() 蚕業学校女子部校舎 (卒業アルバムより) ![]() 養蚕実習 ![]() 顕微鏡実習 (卒業アルバムより) ![]() 真綿実習 (卒業アルバムより) 祖母は、毎日実家のある水口から山梨市駅まで9kmを歩き、山梨市から石和まで電車に乗り、石和駅から蚕業学校まで3kmを歩いて通学した。帰りは山梨市駅から水口まで歩いて1時間はかかったと話すが、八幡から水口までの標高差300mを1時間9kmの速度で歩くとは相当速い。祖母は長距離走が速く、蚕業学校2年生の時に全校女子1位になったそうだが、この山道通学で足腰が鍛えられたのではないかと話す。 ![]() 運動会 (卒業アルバムより) 学校のクラブ活動では、射撃や弓をやった。射撃の腕は良く、競技会では何度も賞品をもらったとのこと。現在の甲府第一高校の裏手に歩兵第49連隊の射撃場があり、そこで練習していた。 ![]() 射撃 そして、昭和10年3月に卒業。 ![]() 卒業アルバムの祖母の写真 ![]() 教員写真1 (卒業アルバムより) 眼鏡の形が時代を感じさせる。 ![]() 教員写真2 (卒業アルバムより) 女性の先生は皆着物。男性の先生には軍服の方もいる。 ![]() クラス写真 (卒業アルバムより) 蚕業学校を卒業後、そのまま蚕業学校に残り、2年間裁縫を習った。 (続く) にほんブログ村 先日受講した研修で、ある方が「途上国開発に携わる専門家の資質」について話されており、印象に残ったので紹介したい。
******************************** 専門家の資質とは、専門家が技術移転を行うことができる能力のことである。具体的には「カウンターパートが専門家の指導・助言に従うに足る信用を得られる専門家の本質」のことである。その資質について、以下の要件式で示される。 専門家の資質=技術力×伝達力×(±)人間性 ここでいう技術力とは、専門家が体得した科学的知識を事業・民生に役立てる能力。 伝達力とは、意図することを伝える能力。 人間性とは、技術移転の場でカウンターパートに臨む精神的・外面的態度。 この数式には二つのポイントがある。 一つは足し算でなく掛け算であること。 どれか一つゼロだと、専門家の資質はゼロになってしまう。つまり、技術力が100あっても他の要素が一つでも小さければ協力効果はゼロに近づき、逆に100なくてもそれぞれが60であれば積は大きくなる。しかしながら、現時点で専門家選定は足し算で計算されていることが多い。 もう一つのポイントは人間性の前に(±)が付いていること。 海外での技術移転の場において、専門家のイメージが日本のイメージに繋がるケースも多々見られる。カウンターパートがなかなか技術を習得しなかったり、意欲が見られないと、相手側と対立してしまうこともある。しかし、途上国支援において、日本は途上国へ喧嘩しに行くわけではない。相手側との関係が悪くなると、それがむしろマイナスに働いてしまうこともあることを忘れてはならない。但し、意見が対立した時に譲歩しなければならないと言っているわけではない。視点が異なり、カウンターパートと意見が合わなくても、いつも一定の視点から反論でき、考え方が安定している人であれば安心して討議ができる。要は「内には自律、外にはオープンマインド」である。 ただし、これらの資質に関する要件を最初からすべて保持している人はいない。今後活動を続ける上での努力目標あるいは問題解決の基礎知識と捉えるべきである。 ********************************* これらの資質は、なにも途上国支援の場だけにあてはめられるものではない。日本で働く場合もこの式があてはまる職業はあるだろう。 この講義をしてくださった方がこんなことも言っていた。 「日本で仕事ができない人は、海外へ行ってもできない。逆に言えば、日本で仕事ができる人は、たとえ外国語を流暢に話せずとも、海外に行っても成果を出せる。」 私もそう思う。 にほんブログ村 フォッサという動物をご存じだろうか。
Fossaと書き、マダガスカル語発音だと「フッサ」と読む。 「マダガスカル最大の肉食動物」という形容詞が付くことが多い。 最大と聞くとどれほど大きいのかと思うが、実は猫より少し大きいくらい。顔はネコとイヌを足して2で割ったような顔をしている。大きくなっても体重12キロ。つまりそれより大きい肉食動物(ライオン、クマ、ヒョウ、ハイエナ、等)はマダガスカルには生息していないのだ。フォッサの見た目は何の特徴もなく、これと言って大きいわけでもないため、フォッサという動物をよく知らない方は、見ても大して面白くないかもしれない。事実、私がキリンディ国立公園でフォッサを初めて見てとても興奮したら、一緒にいた私の母はこんなネコみたいな動物を見て何故こんなにも喜んでいるのか分からなかったらしい。 ![]() しかし、フォッサは実に不思議な習性を持つ動物である。 まだまだ謎の多い動物ではあり、近年も特にドイツの研究者がキリンディ国立公園に毎年やってきて調査が行われている。 ![]() ![]() ![]() フォッサの生態について、National GeographicとWikipediaの説明からまとめてみた。 『フォッサはマダガスカルに生息する最大の肉食動物で、食物連鎖の頂点に立つ。マダガスカルマングース科フォッサ属に属す絶滅危惧種。キツネザルをはじめ、そのツメで捕らえられるものなら野生のブタからネズミまで何でも食べることで知られている。マングースよりもネコに似ており、引っ込められるツメと、ネコのような鋭い歯を持っている。毛皮は赤褐色で、鼻先はイヌに似ている。また、木立の中での活動や狩りに役に立つ長いしっぽがある。しっぽを巧みに使って木々の間を素早く移動するため、フォッサの観察や調査を行うのは容易でない。 フォッサはあまりその姿を現さず、単独で行動し、木の上と地上の両方で暮らす。夜も昼も活動し、メスは年に1度、2〜4頭の子どもを産む。生後3年ほどで成体となる。』 実はフォッサは、求愛や交尾、またメスとオス両者の生理的性質に、他の動物には見られない独自の習性等を持っている。これは、キリンディ国立公園に行った時に、ガイドさんが説明してくれた。だが、記録しなかったので詳細を忘れてしまった。 Wikipediaのドイツ語のページにはとても詳しく書いてあるようだが、自動翻訳では正確には理解できない。 分かる範囲では、 ・交尾の時期になると、メスは毎年同じ木に留まり、地上約20mのところで交尾準備をする。 ・木の下には約8頭ものオスが集まりメスの気を引くために競い合う。 ・1回の交尾は3時間続くこともあり、1頭のオスと14時間にもわたり何度も交尾をする。 ・メスは約1週間同じ木に留まり、1頭だけでなく数頭の(あるいは出来るだけ多くの)オスと交尾をする。 ・またメスは若いころ雄性化する時期があるらしい。ただこの大人になるとともに退化していく。 まだまだ、生物学的部分は不明な部分が多い動物であり、今後も興味深いことが徐々にわかってくるかもしれない。 楽しみた。 さて余談だが、マダガスカルにはこのフォッサをそのまま社名にした服飾製造販売会社がある。そして会社のロゴもフォッサをイメージしている。 それがこれ ↓ ![]() どこか見たことあるロゴではないだろうか。 そう、プーマ。 もちろんここまで似てたら意識していないわけはないでしょう。 結構かわいい服を作っている会社なのだ。 にほんブログ村
マダガスカルのとあるローカル食堂で一休み。
![]() んん?? どこかで見たことのあるロゴ。 ![]() ミスタードーナツ! ![]() ここにも! 実はマダガスカルは首都だけでなく遠く離れた村の食堂でもこのマグカップを見かける。 ミスタードーナツのサイトを探してみたら、1980年に出回ったオリジナルグッズに似ている。 なぜマダガスカルに?しかも大量に。 本物かしら。 にほんブログ村 先日クーデタの起きたマリの状況はなかなか複雑になってきた。
民主主義制定のための全国委員会委員長(暫定的な国のトップ)となったサノゴ大尉とその隊はそれほど高い階級の方たちではないようで、国をまとめる力もなさそうだ。彼らに自らついていく意思のある人は多くない。ただ、彼らがトゥレ(前)大統領を捕らえているようで、それだけでとりあえずトップに立てているような気がする。クーデタ後、容認派と否認派の各連合政治団体が設立された。しかし、容認派もサノゴ大尉に従うと言っているわけではなく、どこか一線を置いているような気もする。 ドナーは援助の一時凍結を発表している。 今のところは国民も我関せずと普通に生活していても、今後国際社会から取り残され、経済が悪化し、失業者が増え、国民の生活も徐々に苦しくなり、治安も悪くなる。これはマダガスカルの例。こうなる前に、早い段階で解決してほしい。 それにしてもサノゴ大尉が何を求めているのかよく分からない。 ****************************** 一方、お隣のセネガルでは、本日、政権交代が行われた。 以前1月5日にセネガル大統領選にユッス・ンドゥールが出馬表明したという記事を書いたが(ユッス・ンドゥールが大統領選出馬表明)、その後フォローを出来ずにいた。 ユッス・ンドゥールの立候補届出は、1万人の有効署名を集められなかったとして憲法委員会で出馬が認められなかった。1万人は集まっていたけれど有効ではない署名があったらしい。このあたりも不明瞭だが、結局出馬出来なかった。 2月26日に投票が行われ、52%の投票率で、現職ワッド大統領が35%、サル氏が26%、ニアス氏が13%、・・・[候補者は14人]・・・、の票を獲得した。しかし、1位の候補者も過半数を獲得出来なかったため決選投票が実施されることとなり、昨日3月25日にワッド大統領とサル氏の決選投票が行われた。1回目の投票で2位だったサル氏だが、決選投票では1回目の投票で敗れたほとんどの候補者の支持を取り付け、投票前からワッド大統領が劣勢だとされており、昨日開票開始後すぐに敗北を認め、サル氏に祝意を伝えたらしい。 まだ開票結果は発表されていないが、既にサル氏が勝利宣言をした。 サル氏は、ワッド大統領政権下で首相を務めたこともある方。 今回はワッド大統領の対抗馬として出馬したが、ワッド大統領の息子カリム・ワッド氏とは親しい仲らしい。国民は街に繰り出して喜んでいるようだが、この国民を失望させない政治を行ってほしい。 にほんブログ村 実家から車で20分程のところに大字竹森字東山というところがある。山梨県甲州市北東に位置し、重川支流である竹森川左岸の沢沿いの湿地にザゼンソウ群落がある。
![]() ![]() 「竹森のザゼンソウ群」と呼ばれるこの地域は、塩山市(現甲州市)の指定文化財天然記念物に指定されている。現在約3000株が自生しており、指定面積は1.11ヘクタール、標高は760~810m。 ザゼンソウは、サトイモ科の植物で、春の山菜より早く暗い紫紺色のミズバショウに似た姿を現し、その形が僧が座禅をしている姿に似ているのでこの名前が付けられたといわれる。開花する際に肉穂花序で発熱が起こり約25℃まで上昇する。そのため周囲の氷雪を溶かしていち早く開花するのだそうだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() これは大陸系の植物で、日本列島では裏日本から北海道にかけて分布し、表日本には少ない。この様な植物が、山梨県の比較的標高の低いところに大規模に分布していることは珍しいらしい。今がちょうど見ごろである。積雪があるともっと美しく見えたかもしれない。 ![]() ![]() 竹森のザゼンソウ群落にはこうして木道が敷かれている。 ![]() 最近はイノシシの食害防止のため、電気柵が張られている。 近くの村でも畑の周囲を網や柵で覆ってあった。 にほんブログ村
本当に悲しくなる。
何のために私は仕事をしているのだろう。 クーデタは何の解決にもならないことを、私たちは何度歴史から学んだことだろう。どうしたら「国」として歴史を学んでいけるのだろう。 暫定政権中に甘い汁を吸う政治家は多い。しかし秩序が整わない暫定政権中は、国際社会からも取り残され、経済も低迷し、失業者が増え、治安も悪くなり、国民の生活は厳しくなる一方。最近では、コートジボアールやマダガスカルの例から十分に学んだ。 クーデタを企てるということは、それなりに不満があるということで、一方的にクーデタ実行側だけを批判することはできないが、クーデタという手段しか使えない状況に置かれていることは本当に悲しい。 それもマリで。 アフリカの民主主義国家の手本となりつつあったマリで。 2002年にコナレ元大統領(アフリカ連合AU委員長も務めた)が2期10年の大統領任期をまっとうして政権を退いたことをよく覚えている。憲法を改正して自分が何度も再選できるよう国を私物化するアフリカの大統領が多い中、憲法が定める任期を終えて自ら退いた方はそう多くない。 その後大統領に当選したトゥレ大統領。 彼も2期目の終盤に差し掛かっており、1か月後の2012年4月に行われる大統領選には出馬しないことを表明していた。 なぜ今? ************************ マリで1996年に武装解除したはずのトゥアレグの報道をよく聞くようになったのは、2007年に私がブルキナファソに行っている時。分離闘争を頻繁に耳にするようになっていた。 「トゥアレグ武装組織誕生の経緯」のネット記事 http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2373334/2798869 そして、トゥアレグ反政府組織MNLA (Mouvement National pour la Libération de l’Azawad)と政府軍との衝突が激化したのは今年1月。北部での衝突で常に政府軍は劣勢。多くの兵士が死傷し、遺族が補償を求めて抗議しており、首都近くのKati軍基地の若い兵士もデモを行っていた。 しかし、北部の劣勢な状況は変わらず、首都からの支援も減り、前線兵士たちの不満は更に増大した。先週Tessalitでの衝突後に首都へ戻った兵士たちも上層部から冷たくあしらわれ、自分たちは見放されているという感情が強くなり、政府への不信感へとつながったようだ。 そして3月21日。 Kati軍基地の兵士が立ち上がり、まずはORTM国営ラジオ・テレビ局を占拠し、次に大統領府への攻撃を開始した。政府軍も数時間抵抗したものの最終的に3月22日未明に引き渡したとのこと。数名の大臣も捕らえられた。 当初はトゥレ大統領の居所が分からなかったが、現在は側近と大統領に近い軍関係者に守られているようだ。 その後、SANOGOという軍曹(?)が政権を掌握したことをテレビで発表した。皆、この人誰?と思っただろう。どういう人なんだろうこの人。 Youtubeにその映像がある。 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wB8VHaQvQi0 Wikipediaも先ほどマリの大統領の名前が変更された。 さて、今後どのように解決されてゆくのか。 トゥアレグもこの機に分離闘争を激化させてくるだろう。 ため息が出てしまう。 まずはトゥレ大統領の言葉を聞きたい。 にほんブログ村
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